ノンセクトとしての安彦良和

http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20101107/1289101879

しかしフセイン独裁のイラクをどうすればよかったのか、あるいは今、金家独裁の北朝鮮をどうすればいいのか? その答えを我々は明確に持っていない。安彦良和氏も持ってなかったのだろう、だから主人公の戦死や挫折で話が終わってしまうのではないか。これはガンダムシリーズにおいて迷走した、富野由悠季氏についても同様である。

これには安彦良和は明確に答えている……と思う。

大塚(注・大塚英志) ぼくが気になるのはその点です。一国の将来を他国が介入して決めていく、そのときの根拠が一体なんなのかということ。それから他民族や他国の運命を、別の国家が介入していって、自分たちが守る秩序の体制にそれを与していっていいのかという問題でしょう。
安彦 それはだから国際法的な内政干渉で、ベトナムがどうされたかというと、国際的に制裁くらったわけです。で、ご存知のように中国が攻めていって、中越戦争が起こった。でも、ベトナムポル・ポト政権を潰したことによって、何百万かのカンボジア人は虐殺から救われたわけです。これは国際政治ではよくあることなんです。『安彦良和対談集アニメ・マンガ・戦争』P478

なんでも、「国際政治ではよくあること」であるらしい。
いくらなんでもこれだけでは身も蓋もないので、さらに続けて探す。

大塚 でもね、ある国が他国に武力介入したり戦争を仕掛けて、民間人を含めてたくさん人が死んだけど、結果として何十万人、何千万人もの人間が救われたという議論を「よくあること」と肯定していくのなら、広島に核を落としたことが結果として犠牲者の数を減らしたというアメリカの論議も、当然、安彦さんは肯定しなきゃいけないわけですよね。
安彦 アメリカ的な立場に立ったらね。でもおれは日本人だから肯定できない。
(中略)
安彦 話のついででもう一つ言うと、フセイン湾岸戦争のときにブッシュの親父が潰していたら、イラク国民は……。
大塚 安彦さんが言っているのは「あのときああやっていれば我々は手を汚さずに済んだ」という後付けの説明じゃないですか。
安彦 あのときフセイン政権が潰れていたら、イラク民主化できたんじゃないかと思うの、おれ。「なぜイラクはおとなしくアメリカの言うことを聞かないのか」と、ここんとこでいつもドキッとするんだ。「なぜドイツや日本のようにおとなしく言うことをきかないんだろう」と。
P479~480

うーん。イラク国民のためならば侵略戦争も許され得る、といっているように見えますね。
ちなみに、安彦良和イラク戦争には「国策として間違っているから」「国家百年の大計を誤っている」と反対の立場を明らかにしています。
ちょっと遡る。

大塚 だから北部同盟がどうとか、タリバンが滅びて当然とか、そう言うときの根拠って何なんですか。
安彦 道義があるから。国益なんかとは関係ない。
P476

大塚 その道義の有無や正当性って誰が判断するんですか?
安彦 正当性なんて誰が判断するかわからない。
P477

これは成る程、「明確な答えを持っていない」ということかもしれない。しかし、これはuedaryoさんが考えておられるのとは少し違う意味で、だと思う。
大塚英志とのこの対談で、安彦良和は全体として何をいっているのかわからない。ニヒリズムの表明しかしていないようにも見える。喧嘩腰の大塚英志のせいで話が噛み合ないこともあろうが、しかし、矢作俊彦松本健一相手になされる、岡目八目というか、いかがわしい国際政治読み風よりは、安彦良和というひとがよくわかるような気もするのだ。
安彦良和は、侵略戦争の結果救われる命があり、これは国際政治ではよくあることで、だから一概に戦争反対などとはいえない。しかし、許される侵略戦争と許されない侵略戦争とがあって、それを分けるのは道義だ、ということになる。ではその道義とはなにか。
『王道の狗』では、日清戦争を「汚い戦争」と呼ぶ一方で、「良き帝国主義」の可能性を斥けてはいないようにも見える。金玉均の改革や孫文の革命を助けるのは道義があるものとして描かれていると思うが(戦前の右翼の持っていた亜細亜主義的な考え方に近いだろう)、それならば、彼らの後押しをする形でならば、大日本帝国の版図の拡大は肯定されるのだろうか? 

安彦良和は、否、と答えるであろう。おれはそういうことをいってるんじゃない、と。

学生時代にノンセクトの活動家だった安彦良和は、弘前大学在籍時、のちに連合赤軍で山岳ベースをはることになる植垣康博とニアミスしていたそうだ。
山本直樹『レッド』1巻

 物語の冒頭で、青森の大学(弘前大であろう)で全共闘運動に参加している岩木の描写から『レッド』は始まっている。
(中略)
 そして、全体は、全共闘型の学生運動が退潮していく様子を描いている(余談であるが、『レッド』1巻のp.35で大学封鎖の自主解除を植垣=岩木に申し入れている学生は植垣の手記では「人文学部の安田」とされており、これは「ガンダム」で有名な安彦良和のことだそうである)。

安彦良和と同じくノンセクトだった植垣康博は、この後、ほどなくして赤軍派に勧誘されている。
一方、安彦良和より四歳年下で、やはり学生運動に参加していた高橋源一郎は、連合赤軍のリーダーである森恒夫と思しき男に、こう語ったと述べる。

「ぼくは政治を信じません。政治的な言葉も信じません。哲学者としてのマルクスには汲めども尽きぬ魅力を感じるし、政治原理を論じる時のレーニンもぼくは好きです。けれども、彼らが一度、現実の政治に降りてそこで話しはじめる時、ぼくは不安を感じます。現実が彼らを『誤り』へ導いていくように思えるからです。だからといって、彼らの『正しい』理論だけを信じても彼らは喜ばないでしょう。理論や観念や言葉が現実になる時の落差を知りながら、つまり、彼らは『誤り得る』ことを前提にしながら行動していたのではないかと思うからです。だから、ぼくは政治的な活動というものが無意味だから、政治というものがそもそもどうしようもなく間違ってしまうものだから、避けるべきだという考えには与しません。もし、いつまでも『正しく』ありたいなら、ぼくたちは結局なにもせずに終わるしかないからです」
「ということは」とその男はいった。
「きみは『誤り得る」ことを恐れないといったし、だが、いまはいかなる政治党派にも関わらないともいった。つまり、きみは、いまのきみの無党派を糾合した闘争が、きみにとって『誤る』ことのできる限度だというのだね」
「どこまでが『誤り得る』範囲なのか、ぼくにはわかりません。そもそも、ぼくは自分が『正しい』ことをしたいのかどうかさえわからないのです。ただ、ぼくにわかっているのは、少なくともいまぼくは、自分がしていることでそれほどイヤな気持ちにならないですんでいます。けれども人は、ある瞬間にどんな厳しい選択をしても、そのままではいつかそれを守ろうとする立場に変わってゆくような気がするのです。だから、いまのぼくの無党派活動家という立場もまた、『誤り得る』範囲を超えてしまうかもしれない。その時、ぼくにとって更新される『誤り得る』範囲とは、政治的なものを諦めるのか、それとももっと先へ、つまり以前なら明白な『誤り』であるとしていたものの方へ進むことなのか、それもまたいまのぼくにはわからないのです」
『文学なんかこわくない』P210~211

これは、当時のノンセクト活動家の心情をよく表しているのだろうと思う。そして、多くのノンセクトの学生たちにとって、あるセクトに参加すること、あるいは参加しないことは、確信をもってなされた選択ではなかったのかもしれない。であるならば、ノンセクトの学生たちと、武装闘争路線を選んだ学生たちとを分けたものはなんであったのだろうか。
uedaryoさんも指摘するように、「主人公の戦死や挫折で話が終わってしまう」ことが多い安彦作品だが、『アリオン』や『ヴイナス戦記』で安彦良和を知った人間としては、近現代史を舞台にした安彦作品は、主人公が一体何をしたいのか見えて来ない。

 最初読んだ時にモヤモヤしたのは、ウムボルトがまるで山崎豊子の小説の主人公よろしく、純粋・熱血そうな顔をして、その実、一体何を希求しようとしているのかよくわからなかったからである。
安彦良和『虹色のトロツキー』 田中克彦『ノモンハン戦争』 - 紙屋研究所

『王道の狗』を読み返してみて、対談集での安彦良和の発言と主人公の発言が近すぎることにまず驚いたが、大塚英志との対談で見せたわけのわからなさも、また主人公に近いことに驚いた。真の亜細亜主義の理想に殉じた主人公、というだけでは足りないこの姿は、高橋源一郎の言葉を借りれば、常に「更新される『誤り得る』範囲」の連続の結果なのではないだろうか。

アニメ・マンガ・戦争

アニメ・マンガ・戦争

文学なんかこわくない

文学なんかこわくない