笙野頼子『硝子生命論』

『硝子生命論』は、『水晶内制度』の前作に位置すると看做されている。『水晶内制度』の中で『硝子生命論』を思わせる小説についての言及があり、建国者に大きな影響を与えた聖典として語られるからだ。『硝子生命論』で示される新国家のヴィジョンも、ウラミズモを暗示したものであり、さらに「そんな世界を『硝子生命論』の続篇で書きます。松浦理英子×笙野頼子『おカルトお毒味定食』P110」と笙野頼子が明言しているのだが、「『硝子生命論』の続篇」とは、『水晶内制度』でまず間違いないと思う。
だが、『水晶内制度』で登場するその小説は「ガラス生体論」であるし、語り手の名前も日枝無性から、火枝無性になっている(このネーミングは稗田阿礼のもじりであろうか。ひえだのあれ、ひえだなくせ。有れ、または在れ、と無くせ……)。つまり、微妙なずれが存在する。このことから、単純に続篇の関係が成り立つとはいい難いのではないか、と読む前から漠然と考えていたのだが、その予想は見事に外れた。
確かに、単純な正続の関係にはない。『硝子生命論』の最後に提示される人形の国は、即、『水晶内制度』に登場する国家ウラミズモというわけではなく、飽くまで、建国の祖、龍子が「ガラス生体論」をバイブルとして作り上げたものである。
そもそも、『硝子生命論』で新たな国家の建国とともに硝子生命となり(或は硝子生命となるために新たな国家を作らせ)、「あの方」と呼ばれるまでになる人形作家ヒヌマ・ユウヒと龍子との直接的な繋がりは、龍子がヒヌマ・ユウヒの作ったイザナミ人形を見た事がある以外は全くない。しかも、龍子に建国への大きなきっかけとなるミーナ・イーザのイメージを与えるイザナミ人形は、ヒヌマ・ユウヒの本分である死体人形ではなく、世間的な評価を得ている表の顔の仕事でしかないのだ。結局、ウラミズモは、『硝子生命論』の世界の核心と全く関係のない人物の手によって、その世界を一旦、翻訳、解釈された上での建国に過ぎない(このことは、政治運動の場で見られる理論と実践の乖離を示しているのだろうか。なお、正続の関係で見る場合、『硝子生命論』と『水晶内制度』の間に『レストレス・ドリーム』を入れると時系列的な意味での繋がりが見えてくるのではないかと思う)。
とはいうものの、そういった設定上の繋がり以上に、この二作品は緊密な関係にある。作品の書かれ方、構造が全く同じなのだ。どちらの作品も四章構成であり、それぞれが照応関係を持っている。
第一章の「硝子生命論」は、一読しただけでは把握が困難だ。語り手が冒頭で一冊の書物になってしまった、と語るように、読者は語り手のたゆたう意識の中に迷い込んだかのような気にさせられる。「かもしれなかった」が多用され(『水晶内制度』P126でも「ガラス生体論」に言及する際に「かもしれなかった」が現れ、『硝子生命論』の一節を切り取ったかのように錯覚させる)、何が事実かも不分明で、時間も、場所も断片となり、濃密な関係を前提とする人物同士の会話が、その文脈から取り外され、無造作に読者の前に差し出される。
この章をどのように書かれているかを説明するのは難しいが、語り手自身によって結末近くで語られているものが簡潔にして妥当だろう。

ユウヒについて、人間ユウヒが、硝子生命を見出すに至った経過を、或いは人間ユウヒの思い出について、かつて私が語り、表したという事自体が時間の順序もそれが語られた足場もばらばらになって、ただ記憶の断片として現れて来た。
P190

『水晶内制度』の第一章、「撃ちてしやまん・撃滅してしまえ」について、佐藤亜紀は『小説のストラテジー』で以下のように指摘する。

別な時間の流れに属する別な状況が折り込まれているからです。複数の時間の流れに属する出来事が入国審査を受ける亡命者/瀕死の重傷者の混乱した意識の中でひとつに縒り合わされて語られているのですが、初読でそこに気が付くのは至難の業でしょう。
佐藤亜紀『小説のストラテジー』P218

「硝子生命論」では「撃ちてしやまん・撃滅してしまえ」に見られる多声性こそまだ獲得されていないものの、このどちらの章も、「時間の順序もそれが語られた足場もばらばらになって、ただ記憶の断片として現れて」いるのは同じだと思う。
第二章「水中雛幻想」は、ゾエアが人形作家ヒヌマ・ユウヒになるまでが語られる。
抑圧的な郷里から抜け出したものの、進学先の東京の大学生活も救いにはならず、世界との違和感を常に抱いていたユウヒが、大学の卒業を間近に控えたある日、アクアビデオの夢を見る。アクアビデオという不思議な機械に魅せられたユウヒは、卒業後には郷里にまた戻らねばならない中、アクアビデオを求め、東京をさまよう。
当然、夢で見たものだから現実には存在しない。そして、存在しないことをユウヒ自身もよく自覚している。

 アクアビデオ――水の中に何かの映像を映す、例えば、何もない蒸留水の中に、照明や角度でごまかした空想上の生物、或は餌を与えずにすむ映像の海蛇、また水文鎮の景色のような蜃気楼めいた町などが、スイッチひとつで、現れて消える……いや、だがそんな事はとうの昔にそれこそウェルズのタイムマシンか何かと同じ位にSF小説の中に氾濫しているはずで、いやそもそも既にビデオの水中映像やジオラマで実現されていた。彼女が求めたのは、観念を具体化する装置だった。水の中に人形を沈めると生命を持ち、水中で人間として生き始めるという観念。いや、観念というより祈りだったのだろうか。
P68

いよいよ女子学生会館を立ち退かなければならない直前になって、ユウヒは水をたたえた浴槽にプラスチックの人形を沈め、そこへ顔を突っ込み、観念が具体化する幻を見る。
これは読んでいて思わず声が出てしまった。まるで入水自殺だ。
「水中雛幻想」は、語り手が、一冊の書物になる前に「傲慢な姿勢のままで」書いた作品であると記されている。『水晶内制度』の第二章、「わが伴もここに来む・自分の仲間に来てくれ」でも滞在記と断りがあり、作中内で独立したものとして、形式面での共通点があるのかもしれない。だが、『水晶内制度』第三章「ぬえくさの 女にしあえば・なえた草のような女だから」の前半でウラミズモが成立するまでが語られる部分で、龍子の前半生が描かれるのだが、ここで龍子とユウヒを対比することも可能なのではないか。「水中雛幻想」で、孤独の中、狂気と理性の狭間で芸術家としての自己を発見するユウヒの切実さと、「ぬえくさの 女にしあえば・なえた草のような女だから」での、神懸かり的な教祖龍子のどこか上滑りする感じと……。
『硝子生命論』の第三章「幻視建国序説」は、語り手が一冊の書物になるに至った決定的な出来事が語られる。電気仔羊の処刑だ。
その名前の通り、新国家成立のためのスケープ・ゴートにされる電気仔羊だが、その人物描写が興味深い。

 会がお開きになると、電気仔羊は私達に背中を押されるまま、女奴隷に囲まれたハレムの当主のように、傷ひとつない透明なにやにや笑いを浮かべながらおとなしく私達の部屋に入った。主催者の紫明夫人と同じ部屋である事に満足を感じた様子だった。さっそく演説を始めた彼女を私達は自然と囲んでいた。常に勝ち続けていると同時に、常に被害者でありたいという矛盾した演説……。
 ――私はそう、いつもマイナー、選ばれた被害者、純粋で無垢、透明な硝子。
P161~162

「常に勝ち続けていると同時に、常に被害者でありたいという矛盾」とは、後年、「おんたこ」と笙野頼子が名付ける人格類型の萌芽に思えてならない(電気仔羊の人物造形は『母の発達』でもまた生け贄とされるシンディ・ウエハラにも響いているが)。

実録・「おんたこ」とは何か - Close To The Wall

今でこそ、こういった人格類型はネット上で可視化されるようになったが、笙野頼子は、これらの存在にいち早く気付いていて、90年代の初頭から鋭い批評の対象としていた。「おんたこ」を、2000年前後を境とする、国策にまで成り上がったおたく文化批判であったり、反権力という名の権力を行使する左翼批判だと単純に受け止めては(勿論それは重要な論点なのだが)、多くのことを見落としてしまうだろう。さらにいえば、「おんたこ」とは外部切断出来るような、操作可能な「敵」概念でもない。我々の内に潜む「おんたこ」性にこそ戦慄すべきなのだと思う。
さて、電気仔羊の処刑は、「あらゆるタブーを破る事で生まれる国家殺し。P177」の一環なのだが、処刑を目前とした電気仔羊が口にする「透明」という言葉は、『硝子生命論』では重要な意味合いがある。

 透明を許されず透明を志向するもの、透明に生まれながらそれを永遠に失ったもの、そんな特異な硝子だけをユウヒは好んだ。ユウヒにとってはただの透明というのはもっとも許しがたく、硝子の透明度は矛盾の果ての犯罪でなくてはならなかった。
P40

これは、ユウヒの単純な好みだけに留まらない。マイノリティとマジョリティの関係を含んでいる。

 ――男性にも、硝子生命は必要なんだろうか。
 ――いらない、基本的には……(ユウヒは笑った)だって、硝子という言葉を出さなくても、世界中の制度が彼らの硝子を支えているのでしょう。彼らは、透明、と発音しさえすれば透明になれるから透明が苦しくない。有難みもない。
P47

マジョリティは透明な硝子、マイノリティは屈折した透明ではない硝子、という理解が出来るだろうか。これは、「有徴」や「無徴」といったキーワードで考えることが出来るかもしれない。「無徴」のマジョリティは、「有徴」のマイノリティに対して、一方的に名付ける権力を有している。

 こむつかしい ことばで「有徴(ゆうちょう)」って いいますね。医者に たいして、女医という。文学にたいして、女流文学という。医者は「無徴(むちょう)」で、女医は有徴です。「しるしが ついている」ってことです。「ふだが ついている」と いっても いいですよ。無徴のほうは、特徴がないと いいますか、それが標準と いいますか、「余分なラベルが ついていない」。
だれでも ない あなたへ(ベジタリアンには名前がある。では、あなたは?)。 - hituziのブログじゃがー

『水晶内制度』での龍子の主張は、明確にこの事を示している(ただしこれは文末の断り書きにもあるように、語り手の主張でもあるのかもしれない。龍子の主張や神話の創作は、語り手によって改めて語り直されていて、龍子の思想と語り手の思想とが矛盾せずに融合させられている。『硝子生命論』でユウヒが語り手を欲し、そのため語り手が一冊の書物になってしまったことを考えると、ユウヒと龍子を対比させるのは強ち間違っていないかもしれない)。

 男はいつも恣意的に女を見えなくしたりケガしたりする権利を持って生まれて来る。どのような女を売春婦と呼ぶかどのような女を更年期と呼ぶかそれは男が恣意的に決定するし、また別に相手に対する罵倒語を使わなくともただOLとか芸者、と女の労働者を区分けする語を言うだけでも、また女子高生、などとただ呼ぶだけでも言いようによっては女にケガレを押しつけ、その姿を見えなくする効果がある。例えば作家女を女性作家と呼ぶ時、たとえそういう女流よりはましな呼称で呼んだ時でも、男が呼べばその女達は見えなくなる時がある(この三行は神話の序章に私が書き足した)。
『水晶内制度』P128~129

電気仔羊の処刑で中心的な役割を担い、その最中に猫になってしまう双尾金花と猫沼みゆという二人の人形愛者がいるのだが、『水晶内制度』の第三章「ぬえくさの 女にしあえば・なえた草のような女だから」でも、ウラミズモのエリート養成校の卒業記念に男の公開処刑が行われ、そこに二尾金花(ここでも名前の変換が行われている)の孫娘とされる二尾銀花と、猫沼みゆとの関係は示されないものの、その親友である猫沼きぬが登場し、やはり処刑を主導する。

 電気仔羊はいきなり嘔吐し始めた。その口を金花が透明な爪を立ててこじあけていた。反吐の吐き易そうな喉に新幹線の中で買ってきた雑誌を丸めて私は押し込んでいた。薫子が仮面のような顔に包丁を立てると触れただけでスパッと真っぷたつに切れて中から夥しい絵具のような血液が噴出した。みゆがベッドの上に立って持参した紐で上から首を締めた。濁った音が仔羊の体から漏れて、床の上にはばたばたと大量の巨大な原色の回虫、糞便にまみれた刻んでない糸コンニャクの束が落ちた。反吐に汚れた雑誌を私が抜き取ると、みゆがにゃんにゃんにゃん、と叫びながら硝子文具をひとつずつその頭にぶつけて硬度を試し始めた。が、そんなことぐらいで死ななかった。何度繰り返しても彼女の体からは決して透明でないものが流れ出した。そのため夜を徹して、殺し続けるしかなかった。
『硝子生命論』P165

 赤ちゃんの真っ白な産着でくるまれて捩じれた餅のように上からロープで縛られ、籐だけで出来た車輪を外した巨大な乳母車の上に、彼は載せられているのだった。産着の布は冬のもののように厚く何重にもなっている。その布越しに、時々ブザーのような音が規則的に漏れて、くるまった真っ白な布の端がぴくと震える。おむつをさせていないと言っていたはずの、乳母車の籠編みの目を通してぽたぽたと液体が床に落ちる。その音が遠い雨のように妙に胸にしみ入る。
『水晶内制度』P227

ふたつの処刑には類似点が多いが、違いも多い。処刑される者の排泄行為ひとつとっても、電気仔羊の場合は「透明でないもの」が流れ出すという、失踪したユウヒを呼び出す呪術の成就を左右する要素だし、もし、この殺人でユウヒが現れなければ、さらなる犠牲者を処刑人の中から選ばなければならないのである。一方で、ウラミズモにおける処刑は、『水晶内制度』の語り手が作り出すウラミズモ建国神話とは違う、『硝子生命論』での人形の国の建国神話の反復だと思うが、共同体の成り立ちの確認行為という儀式的意味合いが考えられるにせよ、徹底して無用な虐殺という点でキッチュさが際立つ。
第四章「人形歴元年」では、この殺人の後、語り手が、それまでの世界と完全に決別し、硝子生命となったユウヒに導かれるようにして、人形の国を幻視する。
これは『水晶内制度』も同じで、語り手は第四章「世の尽々に・生命終わるまで」の最後で、凄まじい屈折を抱えながら祖国万歳を唱えるのだが、これは処刑の光景を目の当たりにしたのがきっかけで、日本国との縁が完全に切れてしまったためではないだろうか。
ところで、『硝子生命論』では、この殺人以前に重要なターニング・ポイントが存在すると思う。
ユウヒを偲ぶ会(処刑が行われる会である)に招待された語り手は、会場に向かう途中に立ち寄った喫茶店にあるアンチックドールの前で「世界が大きな、接合する二体のアメーバのように感じられ」、「向こう側に私の知らないそれ故に恐ろしく思える世界」、「こちら側にぼろぼろになってしまって使いものにならず、そのせいでもう今までの馴れや親しみさえ失われてしまった世界」の間にいることを自覚する。そして、ユウヒを偲ぶ会自体が、語り手を陥れるためだけにでっち上げられたものであるという疑心暗鬼を抱えながら、会場へと赴く。出席者は皆仮名で、言動も何やら芝居らしく、ますます語り手は疑念を深めていくのだが、突然、ある考えに思い至る。

そして、私の頭の中に稲妻のようにある納得が出現した。人間の形をした六体の生き物が食事や会議に使うテーブルを囲んでいる。が、それは六本のホルマリン漬けの標本を浮かべていた瓶に過ぎない。その瓶が一本の紐で、例えば、カメノコや上海蟹を藁で結び付けたもののようにくくり合わされている……それぞれが孤立しているくせに各々の幻想をサナダ虫のように繋げていく事で生じて来る幻想の共同体、死体人形作家のヒヌマ・ユウヒに恋人を与えられて、孤立しながら性愛を解放して暮らす事が出来た人間達はそんな形でしか共存できない。いや、そんなふうにしか私は世界を解釈する事が出来なかった。
 それが判った時、自覚していた。ドアを開けた時、私はもう同時進行で物語の世界に入り込んでいたのだ。
P129

「物語の世界」に入り込んだ時点で、語り手は既に引き返せなくなったのだ。以降、語り手は「物語の世界」で割り振られたかのような役割を、淡々とこなすようになる。
「物語」とは、死体人形を必要とするに至った「物語」であり、死体人形にまつわる「物語」であり、「幻想の共同体」を支える「物語」であり、人形の国の「物語」でもある。

 今まで聞いたこともない物語が、国家の始源となる単純な言葉が私の口を借りてこの空間に放たれ、しかもその言語のひとつひとつの意味は私にはまったく取れなくなってしまっていた。
P184

『硝子生命論』で人形の国が生まれるまでにあらゆる「物語」が動員されるのに対して、ウラミズモでは「物語」は公式では存在しないものとされる。

 この国には公式には「物語」という語はない。例えばストーリーだけを取り出して小説を評価する事を人は蔑む。やむを得ぬあらすじというものがもし出来るならば、それは全人的必然性と呼ばれ、常にストーリーは人間性や動機に従って発生するものという建前なのだ。それ故、神話もまず教祖の苦しみから始まるのだった。
『水晶内制度』P118

これは果たしてどんな意味だろう、と初読時に不思議に思った。底の浅い純文学批判を想起させるものでもあり、その文脈に引きつけて解釈していたのだが、『硝子生命論』で「物語」が果たした意味、さらには、ウラミズモでは人形愛者が分離派として、同性のパートナーが存在する一致派と反目していることを踏まえると、ウラミズモは人形の国ではないことを示すのだろうか。

硝子生命論

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