佐藤亜紀『小説のタクティクス』

様式の問題

二〇〇六年に刊行された『小説のストラテジー』は小説の目的、「記述の動きによって読み手の応答を引き出すこと」を達成するために、小説を「どう組織化しある形態を与えるのか、どうすればより大きく快を引き起こすことが出来るのか」という戦略を考えるものでした。
『小説のタクティクス』では書名にあるように、戦術を考えます。小説の戦術とは何でしょうか。

 芸術における戦術の問題とは、即ち、様式の問題です。戦略の観点から言えば、作品を形式においていかに充実させるか――どのように十全に感覚への刺激を機能させ、どう組織していくか、が最重要の問題になりますが、戦術的には、今、ここで、何をどのように取り上げるか、その結果どのような形式が可能になるか、が問われることになります。これは完全に同時代的な問題であり、故に常に移ろっていく、様式の変化の問題でもあります。p.26

この様式を考える上で、まず、二つの像が示されます。紀元一世紀に作られたアウグストゥス像と紀元四世紀に作られたコンスタンティヌス像という、ローマ皇帝像です。


http://en.wikipedia.org/wiki/Augustus_of_Prima_Porta


http://en.museicapitolini.org/collezioni/percorsi_per_sale/museo_del_palazzo_dei_conservatori/cortile/statua_colossale_di_costantino_testa

アウグストゥス像は高さ二メートル、コンスタンティヌス像は高さ十二メートルあります。
コンスタンティヌス像の巨大さ及び顔の異様さ、とりわけ顔の造形に関しては「下手」だといいきってみたい誘惑に駆られますが、これこそが様式の違いなのです。

 上手いか、下手か。その問題は常に、どんな作品においても存在しています。ただし、我々が作品の形式を見る時、認識しておかなければならない問題がひとつあります。どんな表現も受容者の前に現れる時には空洞ですが、その空洞を形作るために何かがそこを満たしていたことです。空洞が満たされた状態を、我々は完全には再現することは出来ません。また、再現する必要もありません。ただ、どんなものであっても作品を前にした時にはひとつだけ、肝に銘じておくべきことがあります――作品は表現を生み出した人間の世界の認識から生まれてくること、その認識が違えば、出来上がる作品も当然違ってくるということです。その相違が、様式の相違と呼ばれることになります。
p.25

この二つのローマ皇帝像の違いは、「まだ神に祀られて」おらず「筆頭市民」であるアウグストゥスと「キリスト教をローマの国教とした」コンスタンティヌスの違いであり、元首というものをどう捉えるか、の違いであり、「表現を生み出した人間の世界の認識」の違い、「様式の相違」なのです。
ただしこれらは飽くまでも外観から類推されたものです。
著者は、コンスタンティヌス像の巨大さについて、ギリシャ・ローマ文化圏では巨像は神々の像に多く見られること、コンスタンティヌス像の目の表現については、遠くを見つめるイコンの目、という観察から、様式を導き出しています。
作品と内容の関係は鋳型と鑞型に準えられます。鑑賞者が目にするのは鋳型の方で、鑞型の方は作品の完成とともに溶けてなくなる。故に内容は目的にはなり得ず、従って形式こそが造り手の目指すもの、ということになります。
つまり作品は空洞で、そこに「読解」や「解釈」を流し込むことで、鑑賞者は内容を満たしてやることが出来ますが、作品と完全に一致することはありません。それは同時代の鑑賞者であっても、さらには内容を作り得た立場にある作者自身であっても、作品と内容の一致する部分を把握しているとは限らない。『小説のストラテジー』では、「作品が全て、人間は無」という章で終わっていますが、様式を探る作業でも結局は「作品が全て、人間は無」なのだろうと思います。作品への観察は怠ってはならない。
様式の問題をストラテジー側から見るとこうなります。

どれほど斬新な表現を前にする時も、様式の問題は常に意識しておく必要があります。今まで死角に入っていた社会やそこに住む人々から新しい表現が生まれて来たとしても、要は、従来ある世界と人間との関係とは異なる設定から、異なる意識のあり方がシミュレートされ、異なる語りが生まれて来るに過ぎません。『小説のストラテジー』p.222

音楽や美術を論じる時に様式の相違を度外視する人間はまずいないように、文学においても様式の問題は意識しておいた方がいいでしょう。異なる場所から出る表現の美は従来の美のようではなく、接する者の美の意識も変化を被る。『小説のストラテジー』p.223

様式の違いから生まれる美に接する際の、鑑賞者の意識の変化は、受動的な態度ではまず得られないでしょう。

背景と文脈を共有する書き手と読み手(カルチュラル・スタディ的に言うなら、西欧的ないしそれに準ずる背景を持つ、一定以上の教育を受けた男性を中心とする、ということになるでしょうが)の馴れ合いではなく、それぞれに多様な背景と文脈を持つ書き手と読み手の間の遊戯的な闘争が出現します。異なる背景や文脈から来る記述を読みこなし、自己の背景や文脈を排除することなく更新しながら解釈を加え、美的なものとして把握することができるか否かが、読み手には常に問われることになるでしょう。
『小説のストラテジー』p.159

 つまりはこういうことになります――ある言語的経験を経てきた人がある状況である語を発する。この言語使用は、厳密に言うなら、この送り手独自のものであって、その意味を完全に共有する者はいない。受け手がその語を読む。その解釈は受け手独自の言語的経験を経て形成された独自の枠組みに照らして為され、送り手が用いていた意味付けからはずれる。
『小説のストラテジー』p.108

 読む、とは、この異質な言語使用と折り合いを付けることでもあります。異質な観念の連鎖、異質な語の繋がり、許容範囲ではあるが自分ではまず使わないであろう滲みのある部分での語の使用、時として、そういう意味に使うことができるのか、そういう関係を組み立てることが可能なのかという発見。そうした言語使用に直面した読者の言語体系は、意図してのこともあるでしょうし、自分でも気が付かないこともあるでしょうが、書き手の言語体系をまるまるではないとしても一部、取り入れ、変質することになります。
『小説のストラテジー』p.111-112

様式を把握する作業も「遊戯的な闘争」の一環、といえるかと思います。

「声」と「顔」

以上で引用した『小説のストラテジー』は、小説とは記述であり、その運動であるとした上で、運動を生み出す語り、ひいては声に焦点を当てています。
作例の検討は『ハドリアヌス帝の回想』、『ロリータ』、『水晶内制度』と続くのですが、声の性質はまず回想録や告白という形式、そしてその声の持ち主のあり方に大きく左右されます。
キケロからマルクス・アウレリウスまでのあいだ、神々はもはやなく、キリストはいまだない、ひとり人間のみが在る」と考えられた時代(十九世紀から二十世紀前半までのヨーロッパの極一部人々の間で共有されていた価値観です)の古典的教養人が思い描いた理想の人間像を持つローマ皇帝としての安定した自己像から静かに語られる回想録『ハドリアヌス帝の回想』、何重にも世界から疎外された「外国人」の、さらにいくつにも引裂かれた自意識によってなされる不断の弁明と自己正当化により無数に分裂していく声が響き渡る告白『ロリータ』、「人間」以下だった者が「人間」として遇されるさかさまの世界で、この世界のお陰で「人間」になれた作家が、「人間」以下だった者を「人間」にするという信念のもと、建国神話を書くものの、「人間」を「人間」以下にする原理は温存されたままの世界で直面する葛藤が、四十年に渡る錯乱状態を引き起こし、狂った時間感覚と隠蔽、緊張と弛緩の果てに交差した声が輝かしく響く『水晶内制度』、と読み進めると、その「声」の持ち主である「人間」の変化に否応なく気付かされます。
『小説のストラテジー』が「声」を扱う物であったとすれば、コンスタンティヌス像を初めとして、『小説のタクティクス』では「顔」が取り上げられます。
ヨーロッパを中心に、現代に通ずる人間観を生み出したルネサンス期の人であるピコ・デラ・ミランドラが『人間の尊厳について』で示した、人間は世界の中で自分の顔を獲得出来るという考え、「世界を観測し、出来事に因果関係と法則性を推定し、それを他の起こりつつある事象に当て嵌め、到達すべき目標を見定めて、そこに行き着くべく介入することが出来るp.49」という、因果律を当然の物とする世界観は、十九世紀のヨーロッパで、極一部のひとたちの間で達成されます。アングルの描いた立志伝の新聞王、ベルタン氏の顔は、まさにその成果です。
一方で、ドラクロワが『民衆を率いる自由の女神』で描いたのは、民衆から固有の顔を剥奪し、階層を示す服装や持ち物でしか個人を認識出来ないという、「国民の創世」のプロパガンダでした。

 これは視覚芸術の制約によって浮き彫りにされた近代の大きな矛盾でもあります。ルネサンス期に、自分で自分の顔を自由に作り上げることの出来る存在として夢想された「人間」のあり方が、近代においては可能になります――勿論これは依然、特定の文明圏、特定の社会階層、特定の人種性別に生まれ落ちたら、という条件付きではありますが、近代においてそれらは努力次第で克服可能な癌ディキャップだという物語が好んで語られました。しかしそうした夢を実現した機構自体は原理的に、その成員を顔のない存在――この場合は一致のために意図的に顔を捨て去ることを望まれる存在――としている訳です。
p.82

近代国民国家とは「右の手で固有の顔を与え、左の手で剥奪するp.92」ものなのです。
ここで『メッテルニヒ氏の仕事』の以下の部分を思い出しました。

 ――そのあり方がそれ自体として了解されている事柄は、人為的な規則の形を纏うとその効力を失う。その時、その事柄の根本的なところが変わってしまう。
 ――自然の力の一部を成すものは、精神の世界においても物質の世界においてと同様、人為的な規則にそぐわない。重力や向心力遠心力の法則を、基本的人権のように、人々が認識出来るよう宣言の形にした憲章など想像もできない。

 この時、メッテルニヒ氏が論じているのは主権者たち――王たちのことだ。憲法はその地位を定め、その権限を定め、その不可侵を定める。にも拘らず、王たちは或いはその首を失い、或いは追放されて死ぬ。王の主権が自明のものではなくなる時、法の規定は彼らがその基本的な権利(原文傍点)を守る何の役にも立たなかった。物理法則も同様だった彼等の当然の権利は、法で規定されることによって、単に法で定められた権利に変わってしまっていたからだ。これはおそらく今日の主権者たち(原文傍点)にも適応できるだろう。生命と身体と財産に関する当然の権利は、憲法で規定されることで、法によって与えられ法によって奪われる権利に変質する。その時、国民(原文傍点)は、或いは虐殺され、或いは国を逐われることになる。
 そのどこに進歩があるのか、とメッテルニヒ氏は問うている。百年後の、オーストリア帝国が崩壊した後の流血とアナーキーはその答だ。そして実のところ、その後も幾度となく繰り返される流血とアナーキーは、標準的な constitution があるにも拘らず、相も変わらずそれは空手形のままで、未だそれを実体化した constitution は確立した訳ではないことを示している。
文學界』二〇一三年五月号p.71

「生命と身体と財産に関する当然の権利は、憲法で規定されることで、法によって与えられ法によって奪われる権利に変質する。その時、国民(原文傍点)は、或いは虐殺され、或いは国を逐われることになる。」
「顔」と「基本的人権」とは重なる部分も多いものの、飽くまで別物ではあると思いますが、メッテルニヒ氏が見ていたものの意味を考える上でも、「顔」の概念は非常に示唆するものが多いかと思います。
二十世紀に入り、「顔」を巡る近代の矛盾は、一方では「固有の顔の絶対性」、一方では「群れの顔の絶対性」として映画表現に表れます。
アメリカ合衆国ではイデオロギー的な面からも「固有の顔」が当然視されて来ました。スピルバーグは『シンドラーのリスト』でナチスに顔を奪われたユダヤ人たちに、追悼の意味を込めて顔を取り戻させ、『宇宙戦争』で超人的な人間、どんな顔であれ作り上げることを可能にした人間を演じつづけたハリウッドのスター俳優トム・クルーズの顔を群衆の中に紛れこませることで、顔を奪う表現を可能にしたのも、「固有の顔」のイデオロギーがあってこそです。
ソヴィエト・ロシアやナチスの映画監督、エイゼンシュタインの『十月』やリーフェンシュタールの『意志の勝利』には固有の顔はなく、「労働者たち」「兵士たち」、民族といった、試行錯誤の末に個人が獲得していく顔ではなく体制から与えられる顔が画面に登場します。『意志の勝利』はドラクロワの『民衆を率いる自由の女神』と全く同じ特徴を備えています。
このように、映画や絵画に見られる顔の表現を検討した後で、本書は根源的な疑問を投げ掛けます。結局、固有の顔はフィクションではないのか。あったとしてもそれは特定の時代のごく一部の地域のごく一部の階層の人間の間でだけ可能だった話で、実現不可能な、近代国民国家の空約束に過ぎないのではないか。これは一面の真理であるとはいえ、固有の顔の虚構性を全面的に認めてしまうと、我々はソヴィエトやナチスプロパガンダ映画の群衆になってしまいます。
アウグスト・ザンダーの『二十世紀の人間』はその答えのひとつであり、「国家が与えたり奪ったりする以前に存在している人間の固有の顔p98」がそこにはあります。
ただし、その顔は、無限の可能性を秘めた、何にでもなれる顔ではないし、その顔をささやかながらでも作り上げていくには、安定した社会が必要です。
第一次世界大戦に従軍したオットー・ディクスは近代の矛盾が剥き出しに現れる戦場を描いた連作版画『戦争』で、「国家が与えた顔」というものが徹底して虚構であることを、そして世界が決定的に不安定な物だということを暴きました。

 これはひとつの、決定的な損壊の感覚です。ディクスは版画という形で――ある意味庶民的であり、むしろカリカチュアにこそ相応しくさえ思える形式で、リアルというよりはグロテスクな表現を選んでおり、それがこの悪夢に一種の魔術的な色彩を与えています。現実以上に現実的な事柄は時としてそうした形式を取るものです――第一次世界大戦後の表現の一部に対して用いられたのが、マジック・リアリズムという語の最初でした。ただしこれは何もディクスや他の第一次世界大戦経験者が最初という訳ではなく、既に百年前、ゴヤが採用したやり方であることは指摘しておく必要があるでしょう。このリアルならざるリアリズムは、他の、例えば同時代を描いた作品や肖像画においても、ディクスの作品を特徴付けており、その効果もまた同様です――作品において、鑑賞者は、現実においては感知することの出来なかった現実の感触を、味わうことになるのです。
p.106

この決定的な損壊の感覚は、ディクスに先立ち、ゴヤに見られるものです。
ナポレオンのスペイン侵攻は、ヨーロッパ史に初めての継続的なゲリラ戦を齎しました。このゲリラ戦の惨禍は、「フランスの啓蒙主義思想の洗練を受けナポレオンの侵攻を文明化の始まりとして歓迎したであろうp.128」ゴヤを、物語として捉えることの出来ない歴史に直面させることとなります。ゴヤは逮捕者四百人の処刑が描かれた『マドリード、一八〇八年五月三日』を、前日の英雄的な蜂起がテーマの『マドリード、一八〇八年五月二日』のような物語のある歴史画の様式で描くことは出来ず、『戦争の悲惨』のような、ただ「出来事自体としての歴史」としてしか描くことが出来ませんでした。
こうした様式が意味するものは、身も蓋もない世界の不条理さです。
ナチスが退廃芸術として、ディクスに見られるような傾向、決定的な損壊の感覚を元にした表現を弾圧したのは、世界の不安定さを突きつけるこうした表現を、鑑賞者の多くが拒否したのと無関係ではない、と本書は指摘します。
そうした世界を描くのに、小説家はどうしなければならなかったか。

薄皮一枚の上

ナボコフ全体主義体制をモデルにした『ベンドシニスター』を書くに際して、いかに慎重で繊細な手つきを必要としたか、その超絶技巧が何に奉仕したかを、本書は明らかにします(『小説のストラテジー』での『フィアルタの春』『ロリータ』の読解見られるように、佐藤亜紀さんのナボコフの読みは恐ろしいほどの切れ味です)。
『ベンドシニスター』の冒頭のナボコフ一流の、これ以上ないほど正確無比な描写は、謎に満ちた人称と、作中に導入される「作者」の存在から、これが何重にも周到に切り離された世界の描写であることを解き明かし、「読者にはクルークの心の優しさ(原文傍点)を記憶に留めて欲しい」というナボコフの後書きに見られる主人公「クルークの心の優しさ」とは、ナボコフの愛する文学的記述、「エンマ・ボヴァリーがシードルを飲む時、シャルルの目を通して捉えられる舌の官能性、マフの毛皮に付いた雪片p.137」に他ならず、「そうした記述はあらゆる全体主義体制にとって反革命的なものp.147」であるが故に、作者である「私」がクルークを憐れんで正気を奪い去ると、クルークの私的な世界に適用されて来た文学的な記述は姿を消し、全体主義体制下を描くカリカチュアの世界でクルークは「無残極まりないどたばたp.147」を演じることになります。
ナボコフが愛した文学的な記述、きちんと見てきちんと書くことには安定した世界が必要なのですが、その安定した世界たるや、この有様です。

 世界はとろ火で加熱した牛乳のようなものです。煮え立つ牛乳の上には薄い膜が浮いていて、その上で、多くの人間は安定した生活を送っています。その膜が薮破れてその下の世界に放り込まれた者や、最初から膜の上になどいたことのない者が、きちんと見たことを書こうとした時、膜の上で用いられるきちんとした言葉は役に立ちません。きちんとした言葉で書くことが出来るとすれば、対象の姿を安定した世界の認識に合わせて変形し、その世界で物や事を指し示しているからです。いわゆる、嘘がある、というやつですね。
p.150

薄皮一枚の上、というのが、現在の安定していると考えられている世界のよって立つ場所なのです。
ここでどうしても『醜聞の作法』の哲学者の言葉を思い起こさずにはいられません。

 男 去年死んだ厩の常連が言ってた話ですがね、可哀想に、病気が頭に回って狂い死にだったけど、偶に我に返っちゃそう言うんですよ。沈んでる、ってね。そいつも元は学のある奴だった。地面は始終寝返り打っちゃ、上に載ってる物を全部でんぐり返して来たんだと教えてくれたこともあった。で、お前も早く逃げた方がいいぞって言うんです。この地面がお前が考えているよりぐずぐずだ、眠り込んだ地面の上に石灰の薄いうすい板を何千枚も重ねて水を含ませたものが載っていて、その上に皆が住んでいる、そろそろ寝返りを打とうと地面が身動ぎすると、粉々に割れて水の中に沈んじまうから、さっさと逃げ出した方が利口だぞ、ってね。怪我して石切り場から放り出された奴も頷いてましたよ、掘って行くと水が噴き出してきて手に負えないことがある、パリは確かに浮いてるだけだ、おれたちは板切れ一枚底の艀に乗っかってるようなもんだぞ、っね。で、それがいよいよ沈むって訳で。
『醜聞の作法』文庫版P.193-194

『ベンドシニスター』はナボコフが英語で最初に書いた長編小説ですが、ヨーロッパ大陸諸国と違い、世界の安定の神話を享受して来た英語圏の人々にとって、スターリン体制下のロシアも、ナチス支配下のドイツもどこか遠い国の出来事であり、そうした人々に向けてナボコフは書かなければなりませんでした(キッシンジャーの『外交』には、アメリカ合衆国は勿論、世界中に植民地を持つイギリスもヨーロッパ大陸の出来事は遠い国のこととしてしまう傾向があることを、キッシンジャーも首を傾げながら指摘しています)。続いて語られる『慈しみの女神たち』と『アメリカン・サイコ』がアメリカ合衆国で引き起こした激烈な拒絶反応は、アメリカ合衆国という国が持つ、「固有の顔」の絶対性のイデオロギーと、その前提である世界の安定の神話故です。
二〇〇六年にフランス語で執筆されフランスで出版された『慈しみの女神たち』は、ナチスに誂えてもらえる高等文官の顔を選択して、自らの「人間」(それは禁忌を犯したいという根源的な欲望ですが)を押し殺す、「凡庸な悪」さえも安定のための仮構に過ぎない語り手マクシミリアン・アウエの回想録です(この人物の冒頭での「兄弟たち」という読者への呼びかけの猛毒は凄まじく、アウエは薄皮一枚の上も下もわかったうえで語り始めている、とされています。この内容に回想録という形式が選択されていることも注意が必要でしょう。回想録については『小説のストラテジー』の『ハドリアヌス帝の回想』を扱った章に詳しいです)。
この『慈しみの女神たち』との類似が指摘される『アメリカン・サイコ』では最早登場人物たちに固有の顔はなく、身に付けた商標の山が個人を作り上げます。登場人物を苛んでいるのは、薄皮一枚の上の安定を維持する「恐怖」であり「悲惨」で、主人公のパトリック・ベイトマンに至っては殺人を犯している間だけ「人間」に戻れる始末です。
薄皮一枚の上の人間性こそ実は非人間性、「凡庸な悪」として描くこれらの作品は、薄皮一枚の上で人間性の神話を作り上げていく「固有の顔」のイデオロギーを信奉する総本山であるアメリカ合衆国では到底受けいられるものではなかったのですが、続く章で語られる『虐殺器官』や『下りの船』が日本のSF業界に引き起こした反応は、これと全く同じものでした。
伊藤計劃が『虐殺器官』でアメリカを通してボスニアと薄皮一枚の上を接続しする一方で、「人間」や「意識」を徹底して「物」として扱い、既存のフィクション/ノンフィクションからなるコラージュで「人間として固有の顔を持たない人の世界p187」を作り上げた手法は、ブレット・イーストン・エリスとの類似が指摘されます。
佐藤哲也は『妻の帝国』で二十世紀の全体主義体制と日本の郊外住宅を接続してみせ、『下りの船』で高等文官たちが差配するテクノロジーの発達した未来で、恒星間宇宙船によって違う惑星に送り込まれる棄民たちの、次の瞬間にはたちまち剥ぎ取られてしまうような移ろい行くいくつもの顔を描きました。
世界を分ける薄皮一枚を扱ったこれらの作品を、何故SF業界が拒絶したか、について本書はSFが未来を空想することから、チェスタトンを引用して答えます。

 チェスタトンが言うように未来を思い描くには、どうしても必要なものがあります――揺るぎない、安定した世界です。今積み上げたものが次の瞬間、当たり前のように雲散霧消している場所、昨日まで適用されていたルールが教は突然に停止され明日はまたどうなるかわからない場所においては、時間の経過とともにどこまでも拡大していったらどうなるか、を考えることはそもそも無意味です。
p.190

世界の安定の神話を自明なものとする者にしか、未来は存在しないのです。
この章では伊藤計劃佐藤哲也がさらされた、そんなSF業界からの無理解な評をいくつも紹介しています。彼等は結局、様式の相違を認識出来なかった、その一点に尽きるだろうと思います。それはひとえに作品への観察不足に求められるべきでしょう。印象派やフォーヴを、「印象派」や「フォーヴ」として腐したような批評家のように、対象をよく観察した評者は恐らく一人もいない(小松左京は『虐殺器官』を何が書かれていたか、わかった上で否定していたかもしれませんが)。ただ、この「様式の相違」が、これまで見て来たようにあまりに世界のあり方、人間のあり方についての、根源的な認識の相違から生まれるものであるために、本書の今日性が、驚くほど際立った印象を与えることになっています。

小説は失効しつつあるのか

虐殺器官』『ハーモニー』『妻の帝国』『下りの船』は、従来の表現からすると、様式の瀬戸際にある作品とされます。ならば新しい様式は、と読者の関心は当然そこに向くのですが、最後の章で語られるのは、表現媒体としての小説の失効についてです。
まず、担当編集者から出された疑問、東日本大震災後の新しい表現の可能性について、著者は、喪失の否認、癒しの優先、忘却しやすさといった日本人のメンタリティは世界の安定性を再確認するだけで、様式の変化は起きないだろうと答えます。
次に、本書で様式の変化を説明する際に、映画や絵画を多く取り上げて来たことに触れ、「特に映画のことを考える時、理解し難い現象が起こってp.207」おり、拡大公開系のような、「極限まで幅広い観客層を対象に、途方もない製作予算を回収できるよう作り上げられる商品(原文傍点)p.208」は、「映像作家が好きな時に好きなように作れるものではなくp.208」関わる人間の多さからすると巨大で「重い表現媒体p.208」であるにも関わらず、表現様式の変化が明白なのです。「表現手段として生きている(原文傍点)p208」といわれます。
一方、小説は「紙とペンや鉛筆と時間さえあれば、誰でも今日にも書き始められるp.208」軽い表現媒体であるにも関わらず、現代の多くの小説の様式はエミール・ゾラの時代で止まり、レーモン・ルーセルより先に進むことはなく、キュービズム以降のミメーシスの崩壊と抽象絵画の出現に追いついておらず(説明せず描写せよ、というテーゼは小説の書き手と読み手に未だ根強く信奉されています)、「ことによると小説は既に死んでおり、あとは模範的な様式の中でどれだけ練り上げられるかだけが問題の、伝統芸能的なものになってしまっているかもしれませんp.209」と述べられます。
この小説の失効については、異論のある人は多いと思いますが、『慈しみの女神たち』や『アメリカン・サイコ』を拒絶したアメリカ合衆国で作られる「商品」としての拡大公開系映画が、様式の変化を絶えず受けていることを考えても、恐ろしいことに、説得力があるといわざるを得ません(『小説のストラテジー』では、拡大公開系の映画はそうした状況を扱いたがらないだろう、としていましたが、二〇〇六年の『小説のストラテジー』出版の前年に『宇宙戦争』が公開されて以降、『アイランド』(二〇〇五年)『トゥモロー・ワールド』(二〇〇六年)『ボーン・アルティメイタム』(二〇〇七年)と続けざまに製作されていることからも、様式の変化がリアルタイムに起きていることがわかります)。

誰よりもまず鑑賞者がそれを拒む

この小説の死、『虐殺器官』や『下りの船』を評者が拒否した例に見られるように、何より読者の怠慢が大きいのではないか、と思います。例えばジャンルという概念は、読者の怠慢を前提にして成立している部分があるのではないでしょうか。ジャンルの宿命とはいえ、「異なる背景や文脈から来る記述を読みこなし、自己の背景や文脈を排除することなく更新しながら解釈を加え、美的なものとして把握することができるか否か」という態度は要求しえず、従って「遊戯的な闘争」は存在せず、様式の把握と美の更新は有り得ないことになります。
こうした鈍感さはSF業界だけか、というと勿論そうではない。

(前略)ただしその「オリジナル」という概念――他の誰のものでもない自分だけの経験と思考から、他の誰のものでもない自分だけの表現を生み出すという概念自体、薄皮一枚の上に安んじて生きることのできる「人間」の特権的な発想だと言えないこともありません。
 こういう発想は、この国では近代の社会に必要な制度一式のひとつとして輸入された文学――「日本近代文学」を担う特殊な高等文官(勿論、私はここで彼らを『慈しみの女神たち』において「凡庸な悪」を生きる高等文官たちの同類として語っていますが)である「作家」と、その崇拝者たちによって形成される幻想の一部です。
p.188

日本の近代文学は高等文官の担う薄皮一枚の上に安住する代物に過ぎないのだとすれば、その系譜に無自覚に連なる場所から生まれて来るものは、どこまで行っても、薄皮一枚の上の人間の神話を再生産し続けることにしかならないでしょう。これは文学にとって致命的であるといえます。
さらに、「小説は、ある意味、全くの「大ドイツ美術」状態だと言っていいでしょう――退廃美術としてパージされた両大戦間当時の現代美術に代わる美術の規範としてナチス時代に推奨された、今となってはキッチュな魅力もないことはない偽十九世紀美術です。p.209」という痛烈な評は、アウシュヴィッツ以後に詩を書くことは野蛮であるという言葉を思い出さざるを得ません。同時代の現代美術を退廃芸術として追放した大ドイツ芸術展が何を隠蔽したがったのか、当時のドイツ国民が何を支持し、ナチスが国民に何を約束したのか、を考える時、薄皮一枚の上に安住した鑑賞者の姿勢がまず問われなければならないように思います。
新しい小説の様式が生まれるか否か、は鑑賞者にゆだねられている、といっても過言ではないのではないでしょうか。

小説のタクティクス (単行本)

小説のタクティクス (単行本)