佐藤亜紀『醜聞の作法』文庫版

『醜聞の作法』の文庫版が出ましたので早速入手しました。解説は渡邊利道さんです。

醜聞の作法 (講談社文庫)

醜聞の作法 (講談社文庫)

渡邊利道さんの解説は時代背景から作品の形式、さらにはテクストの今日性まで、細やかな神経の行き届いたもので、非常に読み応えがあります。
『醜聞の作法』が2010年に発表されて以来、岡和田晃さんが主催された読書会初めとして、様々な読解が試みられて来ましたが、岡和田晃さんが季刊『メタポゾン』2013年仲夏第九号で、『「思想」と「エロス」を分つもの』と題する『醜聞の作法』論を発表されました。
季刊メタポゾン 第9号(2013年仲夏)

季刊メタポゾン 第9号(2013年仲夏)

『「思想」と「エロス」を分つもの』では、冒頭の『ラモーの甥』の本歌取りで、「気のぬけたような様子の、笑顔を作った、目の敏い、しゃくり鼻の娼婦」と描写される部分が『醜聞の作法』では「ああした娘たち」と一括りにされる点に着目し、関谷一彦の『ラモーの甥』での読解、「当時さまざまな人間が集まったパレ・ロワイヤル」から「娼婦が出没したフォワ回廊」へと思考が移行することに、「夢想」が「性的な記述」に移っていることを見るという読解は「深層の意識が「前意識」として記述されたものと理解している」というものであり、翻って『醜聞の作法』では「夢想」と「エロティスム」は意図的に未分化のものとして扱われていることから、そこに巧みに作り込まれた表層を見て取ります。
さらに、「仇っぽい年増」であるパリは神経流体に刺激されることでいつでも「小娘みたいな」パリに早変わりすると「私」はルフォンに語りますが、これは「来るべき回天=革命」のみならず過去から続く「長期的な崩壊」をも射程に収めるものです。
2005.5.13: 日記

で、何で業深かというと、ダーントンの『禁じられたベストセラー』なんか合間に読んでしまったからである。何か面白そうな資料にころころと塗れているな、 この人余生はこれで行くつもりかと思っていたら、いやもう、とんでもないところに行ってしまっている。一口で言うなら、啓蒙思想フランス革命を生んだの ではなく(勿論、今時単純にそう信じている奴はいないが、単純に否定している奴もいない)、もっと長期的な崩壊の上に啓蒙主義はたまたま乗っかっただけだ ――と思う(これが最大のポイントだ)、というのだが、他に味方はいるんですか、異端の説を唱えて学界追放とか大丈夫ですか、ダーントン先生、と思わず言 いたくなってしまう。それともこれはプロレス流の負けたふりなのか。異端説をちゃんと論証してのけて、ふはははは、と笑うと後でちゃんと拍手してくれる奴 を準備してあるのか。

という『禁じられたベストセラー』のダーントンの説の要約に見られる「長期的な崩壊」、そして第十六信のシャンゼリゼに現れる男が語るこの哲学。

 男 去年死んだ厩の常連が言ってた話ですがね、可哀想に、病気が頭に回って狂い死にだったけど、偶に我に返っちゃそう言うんですよ。沈んでる、ってね。そいつも元は学のある奴だった。地面は始終寝返り打っちゃ、上に載ってる物を全部でんぐり返して来たんだと教えてくれたこともあった。で、お前も早く逃げた方がいいぞって言うんです。この地面がお前が考えているよりぐずぐずだ、眠り込んだ地面の上に石灰の薄いうすい板を何千枚も重ねて水を含ませたものが載っていて、その上に皆が住んでいる、そろそろ寝返りを打とうと地面が身動ぎすると、粉々に割れて水の中に沈んじまうから、さっさと逃げ出した方が利口だぞ、ってね。怪我して石切り場から放り出された奴も頷いてましたよ、掘って行くと水が噴き出してきて手に負えないことがある、パリは確かに浮いてるだけだ、おれたちは板切れ一枚底の艀に乗っかってるようなもんだぞ、っね。で、それがいよいよ沈むって訳で。
文庫版P193-194

これらを回天(レヴオリユシオン)という言葉で結ぶ時、読者は表層から感じ取る不吉さや不穏さの根源の在処に思いを致さざるを得ません。
さらに、作中でも名前の挙げられる平民の出である「哲学者」、ダランベールディドロ、ルソーといった啓蒙思想家は「古い学問・知識・イデオロギー・迷信・狂信など、いわば知の暗闇に対して明るい知の光」を投げる「オプティミスト」であり、ルフォンも「オプティミスト」の一人として名を連ねうる筈の人物だ、とした上で、そういった「オプティミスト」たちの影響を受け、結果として「国民国家」の勃興に一役買ったドイツ・ロマン主義たちに、「神経流体」は第六感を証立てるものとして「霊感」を付与したのですが、実際にガルヴァーニ電気を研究したことのあるノヴァーリスの『キリスト教世界あるいはヨーロッパ』は、「フランス革命を一つのモデルとして「パリ」という「年増」に刺激を与える「神経流体」のあり方を模索」する延長線上にある物として、メッテルニヒの書記官となるフリードリヒ・シュレーゲルの未完の小説『ルツィンデ』も同じ方向性を持つ物として紹介されます。
『「思想」と「エロス」を分つもの』は、このように、「表層に留まり、軽やかに動きつづけてこそ、語るに値する歴史の実態が浮上してくる」様子を丁寧に追っています。正直、表層の操作でここまで出来るのかと作者の技巧の極みに思わず背筋がぞくりとしました。
この表層と深層という捉え方は『金の仔牛』の刊行後に書かれた『〜十八世紀の表層〜』によるものですが、十八世紀を扱った作品に当てはまることが作者の言葉によって明らかにされていて、『「思想」と「エロス」を分つもの』でも次の部分が冒頭に引用されています。
『金の仔牛』 著者:佐藤亜紀~十八世紀の表層~() | 現代新書 | 講談社(1/4)

 深層が表層より価値があるとは限らない。十八世紀はヨーロッパの歴史においておそらく人間が、いい意味でも悪い意味でも、最も賢明だった時代だが、彼らはそういうものを素早く覆い隠し、足を取られることなく軽やかに動いていくことを知っていただけである。

 彼らがそういう風に動いてくれなければ---最初から無意識だの性の力だのを突き回して再解釈の余地もなく凝り固まった作品しか提供してくれなければ、逆説的ながらグートの舞台は生まれず、「フィガロの結婚」の上演は無限に同じ所を回り続ける繰り返しの中で、今、ここ、から取り残されていただろう。

今回、文庫版を読み直して、とりもなおさず、作者の提供した「薄く軽やかで、しかも堅固な表層」に感銘を受けました。そこで連想したのはマルセル・カルネの作品です。

マルセル・カルネは『天井桟敷の人々』で有名なフランスの映画監督で、愛を軸とした作品群は、魂は通い合っていても二人は結ばれない、というパターンが多いのですが、逆説的に愛の肯定、愛の尊さを歌い上げるものでもあります。
一九四二年のナチ占領下で撮られた『悪魔が夜来る』は、悪魔が人間を絶望させるために使わした二人の手下、アラン・キュニーとアルレッティが、吟遊詩人に扮し、婚礼の儀の行われている城を訪ねることから始まります。そこでは騎士(マルセル・エラン)と城主の娘(マリー・デア)が、城主を始めとする周囲の祝福ムードの中で、政略結婚なのでさして幸せそうでもない様子で宴に参加しているのですが、そこでアラン・キュニーは城主の娘を、アルレッティは騎士を誘惑し、それぞれ成功します。
ですがアラン・キュニーはこれを汚れ仕事と感じている上、マリー・デアとの逢い引きを重ねるうち、マリー・デアと世にも美しい愛を語らうようになります。密会場所の森の泉の水をマリー・デアが両手で掬うと、アラン・キュニーはそれを飲み、口づけを交わすのですが、彼女との愛の成就はマリー・デアの破滅を意味するので、邪慳にしたりもしてみます。
このアラン・キュニーの仕事ぶりに不満を覚えた悪魔が直接指導に来て、アラン・キュニーとマリー・デアとの仲を裂こうと手を尽くし、アラン・キュニーからマリー・デアの記憶を消し去るのですが、思い出の泉で再び出会った二人は、かつてしたようにマリー・デアの手から泉の水を飲ませてもらうと、アラン・キュニーの記憶が蘇り、愛の強さを確かめます。これに激怒した悪魔は二人を石に変えてしまうのですが、石になっても寄り添う二人の心臓の鼓動は動いたまま。誰にもこの愛を妨げることは出来ないのです。
と、以上が良く紹介される『悪魔が夜来る』の粗筋だと思います。
ところでアルレッティは。
プロフェッショナルに徹するアルレッティ(悪魔からは息子(アラン・キュニー)とは違って良く出来た娘と誉められる)は城主までも誘惑し、騎士との間に不仲の種を撒き、両者の決闘へと導き、城主に騎士を殺させます。さらに、婿を手にかけて苦悩する城主を骨抜きにし、城から立ち去る自らの後を城主に追わせ、それからは杳として知れず、という展開を辿ります。
ブーイングの作法』によれば、この映画には、アラン・キュニーの純愛の道と、アルレッティの情欲の道とがあり、純愛譚は虚構の極みの超自然現象起こりまくりの「およそ納得のいかない展開」、情欲の方はといえば愛の奇跡も何もない「ひたぶるに納得の行く展開」で、その二つが、交差しながら進むのです。そして、最後に交差する場面が、悪魔によってアラン・キュニーとマリー・デアが密会する泉の水面に映し出される城主と騎士との決闘です。佐藤亜紀さんはこの瞬間をこう書きます。「この構図の美しさをどう説明したものだろう」。
この指摘には目から鱗の落ちる思いです。そして、『醜聞の作法』で、第十七信で現れる覚え書きの世界と書簡の世界との交差が何故あそこまで感動的なのか、色々考えてみるのですが(これはつまりフーガの形式だ、ルフォンの逃走もあるし、などと)、恐らく同じ構図があるのではないかと思います。
『醜聞の作法』と『悪魔が夜来る』とを比べた場合、覚え書きが純愛の道で、書簡が情欲の道、と考えることも可能ですが(連想したのはそこがきっかけですが)、勿論、単純に当てはめるには慎重にならなくてはなりません。
語り手たる「私」は思想の代わりに娘たちを追い回し、マゼリともいつの間にかよろしくやっているような人物ですが、「私」の神経流体の話にも「尾籠」と応ずるルフォンは、純愛を体現したような人物です。

 私 女を口説く時、君はどうやって口説く。
 彼 そんな機会はなかったよ。
 私 じゃ、女が君を口説く時はどうだ。
 彼 口説かれたことはないよ。
 私 じゃ一体、アンネットがあれほど君に献身的で、君がマゼリもろともアンネットにあれほど献身的なのは何故だね。
 彼 何となく知り合って、何となくそうなったのさ。
 私 まさか。
 彼 本当だ。
 私 じゃ君らはお互いにお互いを口説いたんだろう。私は、女を口説く時には付け回す。声を掛ける。はね付けられる。そうこうしているうちに誰かは肉からず思ってくれるだろうという訳だ。ところが君はどうだ。女と目が合う。言葉を交わしている。君は女に会いにいく。女は君に会いに来る。そうなればどんなに恐ろしいお荷物を抱えていようと物の数にも入らないだろう。何て幸せな境遇だ!
 彼 ああ、アンネット。
文庫版P91-P92

ルフォンの書く覚え書きが純愛なのはその反映だと考えれば成る程と頷けるのですが、そんなルフォンと、「私」は常に対話をします。覚え書きと書簡の関係だけではなく、書簡の部分にもそういった無数の「対話」がある。
そうした「対話」がルフォン自身の表層をひっぺがす場面があります。
まず、第八信で自宅に戻ったルフォンを襲った悲劇を見てみましょう。ルフォンは行方をくらませたアンネットとアンリエットを探して、マゼリとアンネットの友人たちを訪ねて回るのですが、そこで彼女たちは皆、ルフォンに優しい態度を取り、家に入るよう勧めます。ですがルフォンは「何を言われたのか見当も付」かず、「すれっからしの婆さんの意地悪だ。それだけさ」といい、「困惑」し、「後退」ります。
このルフォンを鈍い男と評する「私」に、マゼリは厳しく言い放ちます。

 マゼリ そりゃあんたの見立て違いさ。重々承知に決まってるだろ。あいつは見掛けほどの朴念仁じゃない。ただ、わかっててわからないふりをするのがあの男の手なのさ。
P142

 マゼリ あの男と何としてでも一緒になりたい、添い遂げたい、なんてのは、おつむのとろいうちの娘くらいのものさ。弁護士先生の妻とくりゃ奥様だ、とか、何かあらぬ夢を見ちまったことは別にしてもね。うちのルフォンが入る場所は、基本的には二番手三番手だよ。あの男はそれがよくわかってる。たまたま今日は誰も来ない、とかそういう晩に、無邪気な顔して、やあ今晩は、というのが、自分にとっちゃ一番似合いだとよく知ってるのさ。そういう意味じゃ、あれも詰まらないなりに頭のいい男だ。けどたまさかそういう好機に行き当たっても、他に用事があるんで時間を潰していられないとしたら? 後を繋いでおくのが吉だろ。でも、わかって断ったら後が繋げない。だから朴念仁面して何を言われたかわからないふりをするんだよ。
文庫版P142-143

 マゼリ そういう男なの。血が冷たいのよ。
文庫版143

これらはただの穿ち過ぎでも憎まれ口でもなく、ルフォンの表層だけを見る「私」と違って、マゼリはルフォンの表層の意味を暴き立てているものだと思います。モーツァルトのオペラを解釈する演出家の姿勢に似ているといえるかもしれません。
この後の展開を考えると(アンネットとマゼリ不在の家にセレストが収まっています)、マゼリの言葉が真であったと判断せざるを得ないのですが、マゼリといえどもルフォンが塀を登ったりするまでは予測出来ませんでした。
ただし、それは小説の冒頭部分で予告されていることを明らかにするのが、ブログRoseRootさんです。
Solo: 佐藤亜紀『醜聞の作法』
『醜聞の作法』の「でんぐり返し」は冒頭の時点ですでに始まっていたという素晴らしい洞察です。そうした磁場、力が最初から与えられている。ということは、「でんぐり返し」は作品を貫く「運動」であるともいえるかもしれません。覚え書きと書簡の「でんぐり返し」、パリの街の「でんぐり返し」、ルフォンの「でんぐり返し」。
RoseRootさんはルフォンが道化へと「でんぐり返る」瞬間を捉えていますが、神経流体に対する刺激がきっかけになって、という考え方も出来そうです。
久しぶりに町に戻ったルフォンを前に「私」が神経流体の話をする第七信、個人の中で起こる神経流体の震盪が、男女間の話へと広がり、ついにはパリ全体に及び、回天(レヴオリユシオン)を起こすのです。この震盪は、起こした本人にも増幅されて戻って来ます。ルフォンとて例外ではなかったでしょう。