佐藤亜紀『メッテルニヒ氏の仕事』第五部

カールスバート決議からトロッパウ、ライバッハ、さらにヴェローナに至る一連の会議は、メッテルニヒの絶頂期であったと一般にはいわれる。この時期のメッテルニヒが会議を牛耳る様は、ヨーロッパの宰相と呼ぶに相応しい。
ウィーン会議後に現れたヨーロッパ協調は、人類の恩人としてヨーロッパに影響を持ちたいロシア皇帝アレクサンドルの「憲政狂い」や「信心狂い」を、メッテルニヒとキャッスルレーとで宥めることで保たれる。
アレクサンドルにとって、オスマン・トルコの支配から祖国の独立を目論むギリシャ人の外相カポディストリアスの提言通りに、キリスト教国によるヨーロッパ総同盟を結べば、ロシアは五大国の掣肘から解き放たれ、オスマン・トルコの支配下にあるスラヴ系住民の住む土地は切り取り放題となる筈なのだが、そのためにはウィーン体制を擁護するオーストリアとイギリスとを敵に回さねばならない。
1819年から1820年にかけて、ナポレオン戦争後の経済停滞から生ずる社会不安を背景に、ブルッシェンシャフトの学生、カール・ザントによるコッツェブーの暗殺に端を発して、ヨーロッパ中にテロと騒乱とが広がり、それはやがて露土間の緊張、虐殺の応酬へと発展して行く。
キリスト教イスラム教との最終戦争まであと一歩、というところでメッテルニヒ氏はアレクサンドルを思いとどまらせるが、メッテルニヒ氏がアレクサンドルに影響力を行使するにあたって、かなり奇妙な光景が展開する。
自制を求めるメッテルニヒ氏に対し、アレクサンドルは、一連のテロと騒乱は「パリに根城を持つ悪の秘密結社が世界征服を狙って暗躍しているp84」ために起こっているので、「正義の味方ツァーの目を逸らせようという企みp84」に、屈する気はない、と返事をするのだ。
メッテルニヒ氏がそうした陰謀論を吹き込んだせいもあるのだが、この「悪の秘密結社の暗躍」自体が、メッテルニヒ氏とアレクサンドルを結ぶ秘密結社であり、アレクサンドルが取り巻きではなくメッテルニヒ氏に入れ込む良い口実にもなっている。アレクサンドルには、ナポレオンに打ち勝ったという過去の栄光と、五大国の協調という「押し花」を大事に取っておきたいという動機があり、そうするとオーストリアとイギリスはどうしても敵に回せないのである。
こうして、ヨーロッパ協調というか、共犯関係を結びながら、メッテルニヒ氏はオーストリアの利益を、現状維持を引き出す。
だが、この絶頂期にあるメッテルニヒ氏が描かれる章には「死者たち」と題されるのだ。
メッテルニヒ氏の一家は肺が弱く、1820年に十五歳の次女クレメンティーネが結核で亡くなると、その数ヶ月後には、結婚したばかりの長女マリーも身罷ってしまう。メッテルニヒ氏の手紙も、いつもの仕事への嫌悪感を表明するどころか、苦痛を紛らわせるために、あれだけ嫌いな仕事に没頭するという、ただならぬ気配を漂わせるようになる。

 ――破産者が酒場にいり浸るように、ぼくは執務室にいる。全財産を失った苦痛を酒の中に溺れ死なせるように、ぼくは苦しみを紛らわせようと仕事をする。それでもぼくの頭は醒めている。(1820.8.6)
p74-75

 ――ぼくの昼と、夜の一部は仕事に費やされる。ぼくは自分にとって、窓の外を通り過ぎる通行人よりも赤の他人だ。夜、昼の仕事のことを考えながら、ぼくはこの先も生き続けるのだと考えても、まるで生きている気がしない。正確に言うなら、ぼくはぼくの傍らで生きているのだ。(同)
p75

これは疑いようなく鬱状態ではないだろうか。
サラエボで夫ともに暗殺された皇太子妃ゾフィーの実家であるホテク伯の領地で一日を過ごし、後にユダヤ人ゲットーやゲシュタポ刑務所となる要塞のあるテレジエンシュタットで手紙を書いた後、メッテルニヒ氏は百年後の「更地になったオーストリアを夢見るp75」。それは、「ゾフィー・ホテクとその夫君の暗殺とテレジエンシュタットの強制収容所のちょうど間p75」にある。

 ――ぼくの人生はどうにもおぞましい時代と背中合わせだ。生まれたのが早すぎたか、でなければ遅すぎた。今の時代では何の役にも立っていないと感じる。もっと早く生まれていれば、その時代ならではのもっと愉快な役割を果たせただろう。もっと遅ければ、再建のために働く事ができる。今日では、虫の食ったぼろ屋を支えて人生を過ごしている。一九〇〇年に生まれていたら、目の前には二十世紀が広がっていただろうに。
p50

大量死の二十世紀を予感させる何とも不吉この上ない符牒の連続に先立って、ブルッシェンシャフトによるヴァルトブルク祭がある。
ザクセン=ワイマールが管理責任者として登用したゲーテフィヒテヘーゲルシェリングらを招いたことで、一躍ドイツ随一のリベラルな大学となったイエナ大学は、自由主義民族主義の牙城になっていた。解放戦争に義勇軍として参加した学生たちが作ったブルッシェンシャフトは、ヴァルトブルク祭でウィーン体制の打倒などとともに、ユダヤ人追放を叫び、ユダヤ系作家の著作も燃やされる。いうまでもなくナチズムの先駆けだ。
メッテルニヒ氏は「ヨーロッパは暫時なら支配できたかもしれないがウィーンは支配できたことはないp46」と語っている。メッテルニヒ氏は多民族国家であるオーストリア帝国を連邦制に移行させるような改革案を提案するが、皇帝フランツはにべもない。
「理性的かつ普遍的な正しい統治」を中央から一括して行うウィーンの啓蒙専制主義にとって、メッテルニヒ氏のような柔軟な啓蒙主義は異端であり、さらにオーストリア帝国ハプスブルク家世襲財産に過ぎず、国政に関与しようにも、皇帝が駄目といったらそれまでだ。出自と相俟って、メッテルニヒ氏はウィーンでは幾重もの意味で余所者なのである。
こうなるとメッテルニヒ氏は、破滅が運命づけられたオーストリア帝国という「虫の食ったぼろ屋を支えて人生を過ごしている」わけで、数十年も柱の上で片足立ちを続けた隠者聖シモンに自らをなぞらえるのも無理はない。
さらにいえば、メッテルニヒ氏にとっての「おぞましい時代」とは、革命が吹き荒れるヨーロッパそのものも指すだろう。
外交官デビューとなったラシュタット会議の折に、メッテルニヒ氏は、革命のヨーロッパから、南洋の島に家族や友人たちと亡命し、自給自足の生活を送りたい、とエレオノーレ夫人に書き送っている。メッテルニヒ反革命の政治家として知られるが、革命の時代が生んだジュリアン・ソレル型の人間について、アレクサンドルにこのように講義している。

際限ない野望と情熱に駆られた人間が教育によって機会を与えられ、ジャーナリズムへ、産業へ、政治へと、自分の世界を無限に広げ、その中で上へ上へと進撃すべく乗り出して来る。常に動き続けることなしには生きていけず、疲れて立ち止まった瞬間に脱落する近代の人間の生き方はまるで、泳ぎ続けないと溺れ死ぬ鮫だ。人口の大半が農業に従事する旧態依然たる社会が行く手を遮るなら、彼はその社会そのものを破壊し、万人に自分と同じように泳ぎ続けることを要求するだろう。
p80

「そこをどけ、俺の場所だ」と説明される革命のメンタリティは、現代でいうネオリベに近いかもしれない(そういえば、おんたこのルーツはウィーン体制を崩壊させた1848年革命の直前に書かれた『ドイツ・イデオロギー』だったりする)。
「何故革命を起こしてはいけないのか、何故君主の主権を暴力で覆してはいけないのか、或いは逆に、何故、君主の主権を貫徹して連邦の枠組みを損なってはいけないのかp69」に、メッテルニヒ氏は良識の権化となり、一々反論するが、それは良識を共有しない者にとっては「くどくて長くて無内容p69」に映る。

 ――そのあり方がそれ自体として了解されている事柄は、人為的な規則の形を纏うとその効力を失う。その時、その事柄の根本的なところが変わってしまう。
 ――自然の力の一部を成すものは、精神の世界のおいても物質の世界においてと同様、人為的な規則にそぐわない。重力や向心力遠心力の法則を、基本的人権のように、人々が認識できるよう宣言した憲章など想像もできない。
p71

キッシンジャーも指摘するように、これは「新しい世界に適応できないオーストリア帝国の慣行を自己弁護するための理屈(『外交』上巻p103)」という側面もあっただろうが、「彼の思想を形成した経験はフランス革命であり、人間の権利を宣言するところから始めて、恐怖政治に終わっている(『外交』上巻p103)」のである。
フランス革命期にはまさに、「人類愛のために人を殺したりするような連中」が跋扈していた。

「然り、われわれはあえて主張する、われわれは多くの汚れた血を流したが、それはひとえに人道と義務のためである……諸君が諸君ら自身の意志によって証明しないかぎり、諸君らがわれわれにゆだねた雷電を、われわれは断じて棄てないであろう。その時までわれわれは間断なくわれわれの敵を打ち倒すことを継続するであろう、われわれは最も完全に最ももの凄く迅速に敵を撲滅するであろう」
シュテファン・ツワイク『ジョゼフ・フーシェ』高橋禎二・秋山英夫訳 岩波文庫p70-71

ジョゼフ・フーシェはサン=クルーの風見といわれる通り、別段、共和主義的熱情があったわけではない。彼が「リヨンの霰弾乱殺者」として名を馳せた時、それは穏健派と看做されて人気を失わないよう、ことさらに過剰な振る舞いをしただけだった。フーシェが虐殺を正当化した言葉も、当時人気の言説の最も過激な口真似だったに違いない。

 この時、メッテルニヒ氏が論じているのは主権者たち――王たちのことだ。憲法はその地位を定め、その権限を定め、その不可侵を定める。にも拘らず、王たちは或いはその首を失い、或いは追放されて死ぬ。王の主権が自明のものでなくなる時、法の規定は彼らがその基本的な権利(原文傍点)を守る何の役にも立たなかった。物理法則も同様だった彼らの当然の権利は、法で規定されることによって、単に法で定められた権利に変わってしまっていたからだ。これはおそらく今日の主権者たち(原文傍点)にも適応できるだろう。生命と身体と財産に関する当然の権利は、憲法で規定されることで、法によって与えられ法によって奪われる権利に変質する。その時、国民(原文傍点)は、或いは虐殺され、或いは国を逐われることになる。
p71

基本的人権が実体を持たず、空手形に過ぎないconstitutionであるとすれば、それは自由に剥奪出来るものになる。メッテルニヒ氏が思い描いた百年後の世界に、その最も端的な答えはあるし、それは現代まで解決されているとはいえない。
かくして、メッテルニヒ氏にとっては気が滅入ることばかりなのだが、イギリスでもキャッスルレーの精神状態が危うい。
メッテルニヒ氏とキャッスルレーとの相性の良さは、初対面の、キャッスルレーが英語しか喋れない上に、大陸の状況をろくに把握してもいないにも関わらず何故だかわからないが意気投合した時以来で、露土問題でアレクサンドルを宥めるときの言葉も、阿吽の呼吸で、五大国協調と、悪の秘密結社を持ち出す程だ。
仕事の重圧と議会対策で神経をすり減らしているキャッスルレーを目撃したリーヴェン夫人は「まるで幽霊みたい」とメッテルニヒ氏に書き送る。だが、それでも自殺する程とまではいいきれない。
直接のきっかけは匿名の主からの脅迫状が、自身の同性愛絡みの醜聞を流すと脅している、と信じ込んでしまったことにある。

 八日、キャッスルレーは田舎の屋敷のあるノースクレイにいる。散歩に出たキャッスルレーを案じて秘書が後を追い、キャッスルレーを励まそうと、旅行に出れば気分も変わる、外交の馴染みにも会える、と言うと、キャッスルレーは顔を両手で覆い、妙にゆっくりとこう答える。
 ――他の時ならそれも楽しみと思えるだろう。だが、私はここで使い潰された、完全に使い潰されたんだ。この上そんな重責にはとても耐えられない。
p90

「妙にゆっくりと」「私はここで使い潰された、完全に使い潰されたんだ」と答えるキャッスルレーの姿を想像するだけで背筋が凍る。ここまで救いようがない言葉は、仕事嫌いのメッテルニヒ氏でさえ手紙には書いてはいない。
キャッスルレーと馬が合ったのはメッテルニヒ氏くらいなもので、誰もが、打ち解けず堅苦しい、という印象を受けたそうだ。シャトーブリアンはそこに外交官としての職業病を見ている。
そういえば、メッテルニヒ氏がプロイセンホモソーシャルバンカラ気風に辟易としていたことを思い出す。ある種のマチズモとの相性の悪さ、というか、そういったものがメッテルニヒ氏とキャッスルレーとを結び付けていたのかな、とも思う。個人的にはフンボルトが宿屋でやっていたことのほうがよっぽどスキャンダラスに思えるんだけどな。

文学界 2013年 05月号 [雑誌]

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