コンラード・ジェルジュ『ケースワーカー』

昨年末、ケースワーカーについて調べていたらこのタイトルのお陰で知ることが出来た。
知っているひとからすればかなりの知名度のある作家、らしいのだが、現在の時点で邦訳されているのは本書のみでそれも絶版(ではなかったようです。入手困難なだけみたいです)という状況なので、日本語(というかネット)では情報が少なく、書評も殆どない。人様の感想を拝見するのが大好きな人間としては大変辛い。
コンラード・ジェルジュは1969年にこの『ケースワーカー』(原題は『訪問者』)でデビューしている。1984年に発表した『反政治』が、「中欧」という立場から、東西冷戦に異議を申し立てたことで、ミラン・クンデラと共に語られることが多いようだ。ハンガリー民主化の一翼を担った自由民主連盟(SZDSZ)の創立にも関わっていたらしく、ハンガリー文化センターハンガリーのニュース欄で、2009年のSZDSZの崩壊について何度か名前が出ている。1933年生まれというから、八十歳近くになってもなお政治の第一線にコミットメントしていることになる。日本だと同世代の大江健三郎小田実をイメージするといいだろうか。政治的発言の影響力はもっと強そうだが。
ケースワーカー』は、作者自身がブダペスト市七区教育課児童保護観察員であった経験が生かされていると思われ、語り手は児童福祉事務課の相談員(らしい。カバーの折り返しにはそう書いてあるが、作中で語り手自身の仕事について具体的に言及はされていないと思う。見落としている可能性もあるが)で、無慈悲な語り口で仕事にまつわるあらゆる事物を語る。
ケースワーカーというタイトルから、ハンガリーの福祉行政が日本のそれと全く同じわけではないと知りつつも、日本の生活保護行政をどうしても思い浮かべてしまう。この作品の、貧困や社会に打ちのめされた人々の弱さの描き方や、行政官の葛藤の様は普遍的な説得力を持っているし、それが国際的な評価を得た理由のひとつであるらしい。
この語り手に特徴的なのが羅列で、人から物から風景から事件からなんでも羅列する。それらの多くには思弁的な配置や装飾が施されており、羅列から生まれる独特のリズム感も相俟ってか、詩的な美しさを感じさせる。

石、板、鉄がここでは、まるで背の低いブリキ箱の中に切って投げ込まれた鶏の足のように、脈絡なく寄せ集められている。色褪せたネームプレート、壁でふさがれた窓、バラバラになったシャッター、欠けたライオンの頭、戸の下の方にこびりついたしみ、小便をかけられた花飾り、どこからかはずれた樋、たるんだ電線、腹わたを裂くようなサイレン、今にも倒れそうな格子にひっそり咲くいちはつ、ゆりの花、無料墓地行きの老人たちの地下室にかかった錆のついた錠前、投げ捨てられたもろこし製の箒、自転車のチェーン、きのこの親木の山に紛れこんだ紙ラッパ、防空壕の入口のコンクリートの出っ張り、銃弾を打ちこまれた窓に応急処置として積まれたむき出しのレンガ、役に立たない壁の張り紙、青紫色のプラカードの文字、カーテンの引かれたショーウィンドー——私はこうした家並が好きだ。過ぎ去った季節や単調な出来事を染みこませて、三〜四世代がその中に棲息している。最初の産業革命の恐竜ともいえる当時の横町は、取手についた副次的な人間の指紋とともに歴史の中に埋もれていき、靴の中の死者の足のように、家族が膨張していっても、うっとりするほど一人一人とは無関係で、かすり傷ぐらいものともせず、訓練された死の苦痛の中で、ただ雨、霜を相手に最後の対話を続けている。
P56~57

モルタルの破片が住人たちの上に落ちてき、汚水が頭の上にふってき、赤ん坊の足が鼠にかじられ、健康な人の足許に病人が排尿する。規律の様々な試み、精神病の父親と一緒に閉じ込められている者、直腸癌の姑を抱えている者、枕の下に肉切り包丁を潜ませる夫を持つ妻。老女の十字架に電流が流れ、身体障害者が窓から落ち、青白のパトカーのサイレン、そして再び平常の日日、住人の一人は淋病患者、二人目はトランペットを吹き、三人目は共同便所に長いこと座りこみ、四人目は宿なし猫、屑、乾いたパンのミミ、壊れたガラスやタイル、ニカワ用の骨や解けたバターを蒐集し、五人目にはのぞきの趣味があり、六人目は密売常習犯、七人目は福音主義を説き、八人目はナイフを投げ、九人目は潰瘍を見せびらかし、十人目はスープをねだり、十一人目は不随の老婦人の体を洗い、牛乳を飲ませ、十二人目は入口に坐りこんで子どもとシャボン玉を飛ばし、十三人目はラフィヤヤシ製の人形に銅ボタンのついた消防夫の服を縫い、十四人目は誰にでも服従し、十五人目は梨の罐詰を瀕死の病人に届けて喜ばれ、十六人目は石炭運びと交換に発情している若者をベッドに迎え、十七人目は梯子に登って、屋根に逃げた九官鳥を掴まえ、十八人目は隣の子どもに乳を吸わせ、十九人目は車椅子の少女に車を持った婚約者が現れるよと予言し、二十人目は薄ばかに対しても自分から挨拶する。
P58~59

ストーリーめいたものをこの作品から見出すとすれば、終戦後に落ちぶれた、かつてのナチス協力者の夫妻が自殺し、思索的な語り手がただひとり残された「精薄児」(現在では適切ではない用語だとは思うが、邦訳当時の訳文を尊重する)を引き取ることで、状況が変化し、さらに思索を深めるが、思索を深めるだけでは状況は当然改善せず、ついには発狂の恐怖に怯えると、それらの状況は全てが妄想の所産であることが明かされ、「精薄児」は結局事務的に処理されると、長い一日が終わり、語り手はまた明日から反復される日常が始まることを予感しながら、最後の最後で出し抜けに「やって来てくれ」と、全ての来談者に呼びかけ出し、博愛精神を惜しげもなく表明するのである。これらを、まるで人を喰ったような、と思うひともいるだろうし、この上ない誠実さと見ることも可能だ。
作品全体を見渡すと、兎に角逆説と反語が多く、とても一筋縄ではいかない。発表時に賛否両論が巻き起こったそうだが、例えば「精薄児から学ぼう」などといったレトリック(「精薄児」は複雑な苦悩を持ち得ない!?)は、いくらなんでも悪趣味に感じられる。語り手はかつての職についても語る。法廷の検事、刑務所の墓地の調査員、そして「屠殺場」(取材に来た仏教徒の報道写真家はアウシュヴィッツアウシュヴィッツと呟く)。現在の職も入れると、成る程語り手は社会の矛盾点に身を置き続けているわけであるが、ちょっとご都合主義的で図式的に過ぎるきらいもある。
さて、語り手が進んで自らに課す状況が、どうも虚構性が強いものであることは、引き取った「精薄児」の、まるっきり獣のような描写(全身が毛に覆われ、生肉を好んで食べ、二階の窓から脱走し市場を駆け巡る)や、当初の予定通りに「精薄児」を福祉施設に送ろうとする場面で、崖を際限もなくよじ上っていく姿を描いた後、これがやはり妄想であったことなどから、読み進めるうち薄々勘づくことは出来る。「精薄児」を引き取った結果、収入を失った語り手が、「精薄児」の隣で精を出しているのが猿のぬいぐるみの組み立てる内職であるのも、さりげなくこの「精薄児」の種明かしをしているのかもしれない。
さらにいえば、冒頭で、書類棚からかつての来談者たちの思い出の品(その多くは既に死んでいる)を取り出し、その記憶を語る時点から、作品全体に漂う死のイメージと共に、語り手によって事物が再構成されていることを予感することは十分に可能であるのではないだろうか。
ところで、この作品の中にさり気なく挟み込まれている、市街に見られる銃弾の痕についてちょっと気になった。「マシンガンの弾痕によるアバタの地形P56」「銃弾を打ちこまれた窓P56」がそれ。
ブダペストの街並のこの特徴は、現在ではもうないらしいが、冷戦終結前までは生々しく残っていた。

 それから街に出て歩くと、建物の壁が方々でぽつぽつと抉られていた。しばらく考えて漸く、それが弾丸の当たった箇所であることに気が付いた。今では消されてしまったようだが、当時はペシュト側の目抜き通りの壁にさえ弾痕が残っていた。ブダの丘に上がると、九一年にはまだ、何箇所か見ることができた。Moskva ter と地図にあった(今は別の名前になっているかも知れない)三角形の広場から上がる道の弾痕はことに凄まじく、その広がり方と抉られ方でどこから何を狙って撃ったのかがはっきりわかるくらいだった。手持ちのガイドブックには第二次世界大戦末期の弾の痕だとあったが、さて、どんなものであろう。その後も、ご存じの方はご存じだろうが、街の壁に弾丸がめり込みそうな事態がない訳ではなかった。ただし、八六年当時は誰もそれを言えなかった可能性はある。
佐藤亜紀陽気な黙示録ちくま文庫版P276~277

語り手はかつての戦争について、地雷除去作業に従事していた、と語る。ドイツ軍とソ連軍が残していった地雷を除去する作業は、「平和」とまで形容され、第二次大戦末期の激戦であったブダペストの戦いを想起させるものではない。
以下はこの作品の語り手のひそみに習い、ちょっとした妄想である。
福祉行政に携わる人間が、「自分のやっていることは、所詮、体制を維持するためのガス抜きにすぎない」と葛藤を覚えることは珍しくない。前回記事にした久田恵の『ニッポン貧困最前線』にもその類いの話は出てくる。では、その仕事によって維持される体制が、ハンガリー革命がソヴィエトによって鎮圧された後に誕生したものであるとしたら?
上記の引用文は、アゴタ・クリストフを読む上で、そうした「背景」を過度に読み込むことを戒めるものであるが(それはあまりに文学的すぎるのだ)、この作品の虚無的な語り手の無慈悲な仮面の下に、わずかに見せる無垢な感情を理解する上で、念頭に置いておいてもいいような気がする。基本的に、この語り手は素朴なのではないかと思う。
ただ、後に「中欧」を提唱した作家であるから、ソヴィエトとドイツの狭間にあって翻弄された歴史を、刻まれた弾痕(それがいつ刻まれたにせよ)に控えめながら語らせようとしていただけなのかもしれない。

ケースワーカー

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