佐藤亜紀『メッテルニヒ氏の仕事』第四部

いよいよウィーン会議である。
ウィーンにはパリ条約締結八箇国はもとより、無数の関係者が集まった。

人口二十五万人の都市に、九月だけで一万六千人が到着しつつある。ホーフブルクには賓客として皇帝一人、皇后一人、国王四人、女王一人、皇位継承者二人、公三人、公妃三人、ホーフブルクの外には他に二百十五君主が、ブリュッヒャーの言葉を借りれば「市の日の百姓のように」集まりつつある。外交関係者はパリ条約締結八箇国十九人の全権、教皇を含むそれ以外の君主の代表二十六人。ドイツの関係者はさらに多い。
P67

その「ドイツの関係者」のひとり、ハンブルク自由市の全権ヨハン・ミヒャエル・グライスは暇つぶしにカルデロンの翻訳をしている。

世界 人生の芝居から裸ひとつで戻り、帰り、退場して行け。大層ご自慢の緋の衣はすぐに別の者が着るだろう。容赦なきわたしの手から緋の衣も王笏もそれに栄冠も持ち出してはならん。
国王 あの素晴らしい装飾品をおれにくれたのではなかったか? いちど与えた品物をなぜまた取り上げる?
世界 くれてやったのではない。そうではなく、お前の出番の間だけ貸してやったのだ。おまえが手にしていた国家も威厳も繁栄も返してくれ、次の番の者が待っている。
P76

ここで引用されているのは恐らく『大世界劇場』だと思われる。
ヨハン・ミヒャエル・グライスが『大世界劇場』を訳していたかどうかまでは触れられていないが、ウィーン会議を扱った今回に付されたタイトルが「大世界劇場」。引用部分の内容も含め、これ以上相応しいタイトルはちょっと思いつかない。
一般的に理解されているウィーン会議は、ただでさえ難しいポーランド問題が、プロイセンザクセン併合の問題と絡み、それがヨーロッパの均衡とドイツの均衡にそれぞれ触れるものだったため、各国の利害関係の調整が難航し、プロイセンとロシア対オーストリアとイギリスという組み合わせが出来上がり、そこに正統主義を掲げたタレイランのフランスが割り込む、という図式かと思う。
全体会議を議会のように扱おうとしたキャスルレーは不都合に気付いてやめ、タレイランは逆に議会にすることによって、フランスを先頭とした野党を作り出そうとし、さらには正統主義の原則をねじ込むに至って、ウィーン会議は紛糾必至となり、延期される(ちなみに、キャッスルレーとタレイランのこの場面での対応は、共に議会を知る政治家であることを軸に語られている)。
これがために「会議は踊るが進まない」状態になったとはいうものの、非公式の会議は進む。オーストリアプロイセンバイエルン、ヴュルテンブルク、ハノーファによるドイツ連邦の形を定める規約策定委員会がそれである。
ドイツ問題はポーランド問題と並ぶウィーン会議の課題で、ドイツ問題の処理如何が、ポーランド問題をヨーロッパの均衡のもとに適切に位置づける鍵になる。
シュタインの統一ドイツ構想をライン同盟潰しに使えると踏んだプロイセンのハルデンベルクは、シュタインの構想が色濃い四十一項目の提案書を作る。狙うはオーストリアとのドイツ分割である。
メッテルニヒ氏はプロイセンとドイツ分割をするつもりは毛頭なく、プロイセンオーストリアの間に浮上する第三のドイツ、例えば二十万の軍を動員出来るドイツ連邦を作りたい。
四十一項目は、ドイツ諸邦はもとよりハルデンベルクの部下のフンボルトからも不評で、メッテルニヒ氏はプロイセンの目の前にザクセンをちらつかせつつ、四十一項目をどんどん骨抜きにする。

加えて、メッテルニヒ氏には、極めて独特の方法論がある。
P74

やり取りは口頭で行われる。戦勝四箇国交渉どころか御前会議でもメッテルニヒ氏がこれを好むのは、手続きが簡略化されるというだけではなく(そもそもウィーンに主要国の君主が集められたのは、承認を取るのに一々文書を本国に送って回答を待つ必要がない、という理由による)、相互牽制と小細工の余地を奪って議論の生産性を上げたかったからでもある。百家争鳴大歓迎。そういう点、メッテルニヒ氏は妙に民主的だ。この時には別に思うところもある。収拾が付かないくらいが丁度いい。
P80

バイエルンヴュルテンベルクプロイセンに反対し、彼ら同士でお互いに反対し、委員会の外にはじき出された小邦は彼らに反対し、を誘導P83」する傍らで、メッテルニヒ氏は、「来るべき連邦ではドイツの全君主は平等になるP77」「連邦ではどの国も平等P83」「必ず各国平等の連邦を作るP85」と各国の代表に保証を与え続ける。
手詰まりになったハルデンベルクが相談したのは、ツァーの顧問団であるシュタインであった。シュタインはそこで、規約策定委員会にロシアの圧力をかけようとし、さらには議事録をリークして、小邦を糾合しようとする。だが、戦役中はあれだけドイツの愛国者たちを熱狂させたシュタインの「三十六人の世故い暴君ども」というアジテーションはどういうわけか最早居場所がない。

この、後世、何もなかったかのように語られることになる一箇月半の間に、「ナポレオン体制は終わった」は終り、そういうアピールはぞっとするほど流行遅れになっていたのだ。
P89

しかも、議事録にはロシアに関する言及が一切見当たらず、介入する口実を見出せない。
シュタインのリークは思惑とは裏腹に、プロイセンバイエルンヴュルテンベルクの野心の大きさを小邦に知らせることになり、小邦はこぞって規約策定委員会へ正式な抗議を突きつける。
この抗議に対する、「連邦はここに集まる五箇国のものではなく、ドイツの全君主のものであり、とすれば彼らにも要求どおり等しい主権を与えなければならないP89」とのメッテルニヒ氏の返答が、これまでの入念な下拵えの元、威力を発揮する。オーストリアはいつしか連邦の庇護者としての確固たる立場を手に入れているばかりか、ドイツ問題とポーランド問題を切り離すことにも成功しているのである。
これは「師匠」であるところのタレイランウィーン会議でやろうとした、不平分子の先頭に立つことの規約策定委員会版、と見ることが出来るだろうか。ただし、タレイランと決定的に違うのはメッテルニヒ氏の「極めて独特の方法論」であり、キッシンジャーによれば、メッテルニヒは防御の姿勢を常に最強の態勢と呼んでいたという。今後も、メッテルニヒ氏のこの「極めて独特の方法論」は見ることになると思う。
ウィーン会議は極めて貴族的な雰囲気なのだが、どこか喜劇的でもある。
「会議は踊るが進まない」という名言を残したリーニュ候は、ウィーン会議の最中に死去するが、その直前に、女性との逢い引きを目撃されている。彼は「踊る会議の表層を老骨に鞭打ちどこまでも楽しんだ生粋の十八世紀人P92」であり、その葬送は神聖ローマ帝国の象徴的な葬儀と語られる。
メッテルニヒ氏はハルデンベルクと書簡の暴露合戦を展開し、イギリスの快男児チャールズ・スチュワート(後にトロッパウとライバッハでイギリスのオブザーバーとして参加したスチュワートと同一人物だと思うが、だとすれば滑稽な役回りをこれからも演じることになりそうだ)は期待通りの醜態をさらすし、秘密警察はゴシップを掻き集め、一般市民も独自に仕入れた目撃情報や噂をカフェで披露する。アレクサンドルとメッテルニヒ氏の対立をオーストリア皇室は密かに楽しみ、メッテルニヒ氏は仕事の傍らやはり恋愛に心を砕くが、アレクサンドルとの三角関係まで生まれてしまう。
そして、この中で踊らなかったプロイセン、男性同盟の気風をもつ軍事国家が(メッテルニヒ氏がわからないと嘆いたフンボルトの趣味を思い出してみるといいかもしれない)敗北を喫するのである。

フンボルトから、仕事は些事(バガテル)で些事(バガテル)が仕事、と愚痴られたメッテルニヒ氏だが、実際には夜会や舞踏会を楽しむどころではない。メッテルニヒ氏の、些事が仕事、は多くの場合、抗議や催促からの逃げ口上だ。他の代表やその部下たちが繁くそうした社交の場に現れるのは非公式な立場の表明や意見の交換や意思統一のためであり、それは特に、公式には否定しているが現実問題として敗戦国であり戦勝四箇国の会合から排除されたタレイランの周辺で激しい。それもまた仕事の延長だ。つまりは実際、些事は仕事だった訳で、プロイセンの大敗北の原因は、その些事を侮ったことだ、とも言えるだろう。
P98

極めつけは、プロイセンに対してザクセン併合で満足出来ない分を、ウェストファリアで埋め合わそうとする話だ。人口当たりの生産性が違うから、との理由で、ポーランドの人口をウェストファリアの三分の二で計算するのだが、その単位が「魂」(アーム)なのだ。で、ポーランド人の魂はウェストファリアの三分の二、とかやるわけである。カルデロンから引用される一節を何度も読み返したくなるような「非道」で「無慙」な話だが、ウィーン会議に参加し、人柄の良さで皆の心を虜にしたデンマーク王は、戦争中には両陣営からひどい扱いを受けながらも新規の領土は手に入れられず、魂は一つも手に入れられなかった、と自嘲する。

人柄が幾ら良くても魂は分けたり取ったりするのが君主であり、政治家だ。上手に分けたり取ったりすればするほど腕利きと言われる。こんな仕事は嫌いだ、性に合わない、嫌悪感しかないと幾ら言っても、メッテルニヒ氏は否応なしにその一人ではある。三分の二勘定に関しては言い出した張本人だ。
P96~97

しかもこの時代の政治家は現代の政治家と違って遥かに繊細な生き物なのである。メッテルニヒ氏の心中、いかばかりか。

文学界 2012年 11月号 [雑誌]

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