キップ・ハンラハン『Vertical's Currency』

『COUP DE TETE』、『Desire Develops an Edge』に続くキップ・ハンラハンのソロ名義作品の第三弾。
このアルバムを制作するに先立って、キップ・ハンラハンは「ソウル・バラードをたっぷりぶち込んで俺たちなりの“スモーキー・ロビンソン”風アルバムにしてやる」と心に決めていたという。
その言葉通り、一曲目から甘美なバラードが聴ける。全二作までのアルバムからの変貌ぶりにまず驚く。

だが注意深く聴くと、複雑なリズムや多彩なパーカッションは相変わらずだ。

キップ・ハンラハンと同じように、ベースのスティーヴ・スワロウも「ベースとなるリズム・セクションを流動的なハンド・ドラムから親しみやすい(ポップスの枠にはまりやすい)トラップ・ドラムに移行して俺たちなりの“売れ線”アルバムにしてやる」と意気込んでいたという。「俺たちなり」という言葉の通り、これはキップ・ハンラハンも共有していた意識だろう。このアルバムに『Vertical's Currency』、直訳すれば「垂直的通貨」、東琢磨によれば「まっすぐ落ちてくるカネ」と意訳されるタイトルを付けるのだから。東琢磨によるライナーにも、ハンラハンのそうした性格が伺われる。

キップがよく使うナイスな表現に「マネー・サウンド」という言葉がある。「カネの音がするサウンド」、つまり音楽ビジネス的に作られた音楽ということだ。

キップ・ハンラハンを今よりずっと断片的な情報でしか知らなかった頃には、キップ・ハンラハンは職人気質の、社会や政治から距離を置いたタイプの音楽家だと勝手に思っていた。緻密に作り込まれた音の印象は勿論、ピアソラをブームとして消費したひとたちの姿もそこに重なっていた。
だが実際には、敬意を表しつつもジョン・ゾーンを「中産階級の音楽」と呼ぶように、強烈な無産階級としての意識がキップ・ハンラハンのミュージシャンとしての人格を形作っている。それは別に彼がマルクス主義者であるとかいうわけではなくて(彼の具体的な思想信条に詳しいわけではないが多分違う)、商業主義への生理的なレベルでの激しい嫌悪感となって現れている。

事実、このアルバムの制作当時、この音楽が、体制側の音楽への重要な一撃となるんじゃないかという雰囲気があった。体制側の音楽というのは産業(金、流通、音楽企業の力とか...)の中にしかありえないなんてことはもちろんわかっていたけれど、なにがしかの一撃をこの音楽がもたらしたとしても一瞬で金のサウンド(音楽)へと必然的に飲み込まれ、編入されしまうのさ(ー事実、その影響は一撃だった。この音楽が制作に関わった連中全員にまたたくまに影響したこと、さらにポップミュージックの中枢にも浸透したことを調べてみてよ)。
誰もが知ってるようにビル・ラズウェルがこの音楽をハービー・ハンコックの『ロック・イット』という金まみれのサウンドに変形するのにそんなに時間はかからなかった。27年たって今、やっと全曲がラブソングだと気がついた。
http://www.ewe.co.jp/ewe_magazine.php

『COUP DE TETE』のライナーに収録されているインタヴューでも、再三このことは述べられている。

そう、権力からの孤立感はあるよ。権力構造からは全く孤立しているもの。巧妙に作られたポップ、マドンナなんかを聞けば、僕達には全く無縁の、手の届かない、お金の推移、お金の流れが聞こえる。実に美しく、実にたくさんの金がキラキラ光りながら流れているのが見える。映画の「タイタニック」を見てるのと同じだ。僕らはスクリーンにただたくさんのお金を見てる。ああいう金や権力は僕達には逆立ちしても入ってこない。ただ権力が目の前を行き過ぎるのを見とれているだけで。「あぁ、美しい」って。

これはまるで『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』に出てくる「お金の川」の話だ。

「おそらく、連中が<お金の川>のたぐいのたわけたものがあるわけはないと目ざめて、せっせと働けば、それほどみじめな暮らしをせずにすむだろう」
「もし<お金の川>がないとすれば、どうしてぼくが今日一日で一万ドルもの金を儲けられます? それも、居眠りしたり、体をポリポリ掻いたり、ときどき電話に出たりするだけで?」
アメリカ人は、まだ自力で財産を築くことが可能なんだ」
「ええ――ただしそれは、その人間がまだ若いうちに、誰かが<お金の川>というもののあることを教えてやったとしての話ですよ。それと、そこにはなんの公平さもないこと、努力や実績主義や正直さなんていうたわごとはすべからく忘れて、ひたすら川のそばへ近づいたほうがいい、ということをね。ぼくならこう教えるでしょう。「金持ちと権力者のいるところへ行って、連中のやりかたを学びたまえ。連中をおだてる手もあるし、おどかす手もある。とにかく、徹底的にうれしがらせるか、徹底的にこわがらせることだ。そのうち、ある闇夜に、連中は自分の唇に指をあて、すこしの物音も立てるなと、きみに言いきかせるだろう。そして、闇夜の中できみの手を引いて、これまでに知られた最も幅広く深い富の川へ連れてゆくだろう。きみはその川岸に割当てられた自分の場所を示され、専用のバケツを渡されるだろう。あとは好きなだけガブ飲みすればいい。ただ、あまり大きな音を立てないように。でないと、貧乏人に聞きつけられるおそれがある」」
カート・ヴォネガット『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』ハヤカワ文庫版P139~140

VERTICAL’S CURRENCY

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