佐藤亜紀『メッテルニヒ氏の仕事』第三部

メッテルニヒには有名な回想録がある。
この回想録という形式はヨーロッパ文化圏ではやや特殊な位置にあり、伝記(日本でいう歴史物のビジネス書にあたるそうな)に飽き足らないビジネスパーソンが、歴史的な業績を残した当事者が語る声に触れ、人生や仕事の参考にするために読むものであるらしい。
しかし、当事者の声とはいっても、それは書き手によって人工的に加工された声である。

 しばしば勘違いなさる方がおられるが、回想録、とはフィクションの一形式である。その辺りが実録を標榜する自叙伝や告白とは異なるところだ。より恥知らずな形式とも、己を心得た形式とも言える。事実に基きながら厳密には事実とは言い難いことを物語るのが回想録であり、もっと言ってしまうなら、事実に基いてフィクションをでっち上げる形式である。恥知らずなのは、そのフィクションがはなはだ書き手に都合よく展開するからであり、己を心得ていると言うのは、どれほど真摯になろうと厳密な事実を自分について語るのはほぼ不可能であること、赤裸だと主張すればするほど、そう呼ばれる仮装をする羽目になることを前提としているからである。
佐藤亜紀『検察側の論告』P217

 回想録の最終的な目的は、同時代の歴史においてなにがしかの役割を果たした「私」が、実はどのような人間であったかを自分の口から語っておくことです。自分が置かれた状況も自分が果たした役割も、全てその観点から記述されます。回想録は歴史研究の資料として扱われることもあるものですが、しばしば内容の真偽が問題にされます。その結果嘘吐き呼ばわりされる者は数知れない訳ですが、実際には、他に証言のある歴史的事実との齟齬や、意図的な、或いは不注意による不正確さも、回想録が吐く最大の嘘ではありません。回想録において最も際どいフィクションは、語りながら語られる「私」そのものです。「私」をどういう人物として記憶しておいて貰いたがっているか――回想録の最大の価値は、むしろそこにあります。
佐藤亜紀『小説のストラテジー』P180

タレイランは回想録で、「豊かな内面の生活を諸般の事情から蔑ろにせざるを得なかった感受性豊かな人物として自分を描き出そう『小説のストラテジー』P181」としているし、メッテルニヒの場合は「義務感から身を粉にして働いた真面目な男『小説のストラテジー』P181」というのが自己イメージだという。尤も、メッテルニヒの場合はこの自己イメージの演出に失敗しており、むしろ私信の自分語りの方が面白い、とされる。
第三部ではまず、メッテルニヒ氏の恋文について語られる。メッテルニヒ氏の恋文は死後公刊されているものが二つあり、メッテルニヒ氏自身も、それらを作品と看做していたという。自らを劇化することに不得手なメッテルニヒ氏ではあるが、その恋文には、そうした欲求が現れているのである。

彼は自分の仕事が――仕事をしている自分が好きではない。計画Aが不首尾に終わり、計画Bに着手する前に、メッテルニヒ氏は自分が人間であることをさらけ出したい。キング閣下を陥れてチロルの叛乱計画を反仏派皇族もろとも粉砕した挙げ句イギリス人からゴルドーニの喜劇の悪役呼ばわりされる傍らでは、不幸な恋愛を感傷小説ばりに歌い上げ、自分の心の所在を確かめておかないと気が済まない。そこまで込みで初めて、メッテルニヒ氏にとってのメッテルニヒ氏という物語は完成する。
文學界』8月号P65

以降、ライプツィヒの戦いを経てパリ入城を目指すまで、サガン大公妃ヴィルヘルミーネ(ヨーロッパ政界のパイプ役を担っている重要人物である。ただし「プロ意識がないP60」)に宛てたメッテルニヒ氏の恋文がふんだんに引用され、メッテルニヒ氏の自己イメージを語る声に、語り手は事実を付き合わせながら、ポリフォニックな中からメッテルニヒ氏の人間像を立ち現れさせる。
まるで男子校のような気風のプロイセンや、二十年ぶりの勝ち戦で覚えた昂揚感、容貌も考え方もキャッスルレーに似ているという不可解な主張を、仕事に対する重圧感と自負心を交えながら、メッテルニヒ氏は手紙に書く。一方で、同盟軍はパリへ着々と進軍する。この途上での惨状を目の当たりにした、メッテルニヒ氏の諦観と決意に満ちた声の強さには瞠目せざるを得ない。

 ――ぼくはトロワにいる。ここにいるのでなければもっときみのことを愛しているだろう。この町は、甘い、幸福な感情を欠片ほども呼び起こさないからだ。今日は前の倍にも増えた人の波に逆らって歩いた。ここにはもう何もない。家の体を為した家も、立っている木も、馬も――死んでいない人も殆どいない。四度も街道で戦闘があったのだ。占領していた人々は残らず殺され、誰も葬りさろうとさえしない。戦争は醜い。全てを汚す。想像力さえ。
 ――地上では、ぼくがけして到達出来ない種類の平和がある。ぼくは残る生涯を、愚者や狂人と戦って過ごすだろう。
文學界』8月号P87

ところで、フランス国内を進む同盟軍がナポレオンの反撃に遭う場面があるのだが、ここでの記述が大変印象的。和平受託の書類を持ったマレを迎えるナポレオンが同盟軍のブリュッヒャーの突出を指摘すると、早期のパリ入城に固執するアレクサンドルが同盟軍総司令部を引っ掻き回している様子が描き出され、次の瞬間には案の定ブリュッヒャーはナポレオンの餌食になっている。恐慌状態に陥る同盟軍総司令部。そしてオーストリアなしでは戦争に勝てないと反省するアレクサンドル、とめまぐるしく動く状況が、怜悧な筆致から鮮やかに語られる。うーん、すごい。

文学界 2012年 08月号 [雑誌]

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佐藤亜紀『金の仔牛』最終回

第三回目の前回で大体半分を過ぎたくらいかな、と見当をつけていたら今回でいよいよ最終回。
前回の終わりで、ニコルはカトルメールに、250株を、相場が100下がる度に買いと売りを同時にやることを指示される。すると250株はそのままに、現金が残る。今回も引き続きこの作業を繰り返し、ニコルはアルノーの補償金をついに確保する。
実はこれの仕組みがよくわからなくて先月号を読み終わった後、電卓を叩いたりもしたのだが、ニコルからこの「売って買って」の方法を買い取ったヴィゼンバック兄弟の説明によると、下がり基調で底を見極められない時に有効な手段であるという。しかも底を見極めて一度に買い付けるよりも、手元に残る現金に加え、株が値上がりをすれば250株がまるまる利益になる。
このミシシッピ株の下がり基調の際に、2240万の資金を投げ打って株を買い支えたアルノーは一躍名を上げ、ミシシッピ会社総裁のオルレアン公にお目通りも叶い、その後ろ盾の元に無事ニコルとの婚礼を挙げる。
というわけでアルノーとニコルは結ばれるのである。目出たい。
ニコルはアルノーに連れ出された経緯や、母親のルノーダン夫人の語る逸話から、当初はファム・ファタル的造形だと推測していた。もしそうならばアルノーは素寒貧になるか車刑になるか肉切り包丁で切り刻まれるかであり、作中に不吉な予兆が鏤められる度に、やはりそういう話なのかと思っていた。アルノーも当初はニコルを評してこうである。

――畜生、あの女は贅沢が好きだ。贅沢をさせてやれば幸せなんだ。贅沢をさせてやらなかったら――或いはもっと贅沢をさせてくれる相手を見つけたら、平気でおれを捨てる、そういう女なんだ。雌犬め。
2月号P76

ところが、ニコルはそういう女ではなかった。いや、確かに、一面では「そういう女」ではあるのだ。それも恐ろしくコケティッシュに。

ショコラの香りにニコルは鼻をひくひくさせる。鏡でシュザンヌが髪を結い上げるのを眺めながらショコラに口を付ける。熱過ぎもぬる過ぎもせず、驚くほど滑らかで驚くほど香りがいい。唇に付いたショコラを尖った薄い舌先で嘗めとる。シュザンヌは髪を上品に纏めあげる。誰かが髪を上げてくれるって、何て素敵なんだろう、と彼女は考える。それにあたしって何て可愛いんだろう。
2月号P72

 母親は溜息を吐く。――100万貯まったらほんとに一緒になるの?
 ――なる。そりゃもう絶対だよ。
3月号P197

 そして、結婚式ではルノーダンに向かって舌を出してみせさえするのだ。
 かと思えば、酸いも甘いも噛み分けたような面も見せる。

 アルノーは部屋着を引きずって歩き回る。ニコルはそれを見て悲しくなる。何ていい男なんだろ。それに何て馬鹿なんだろ。
3月号P178

これはもう断然応援したくなるわけである。
ファム・ファタルとはなんぞや、を論ずるに些かならず手に余るが、『マノン・レスコー』がファム・ファタルの元祖だとすれば、あの作品には男を惑わせる運命の女というものは存在せず、ただただ自滅する男がいるだけだと思うし(デ・グリューに出会わなければマノンもあそこまで大変な目に遭わなくてもすんだのではないかしらん)、形式に着目すれば、人物造形の大分違う『カルメン』にせよ、或いはそれらのパロディ的な側面を持つ『ロリータ』にせよ、破滅した男の告白であることは見落とせないし、例えば告白形式ではない『ナナ』は基本的に皆破滅するシリーズの一編であるし……と破滅した男が後から振り返っているからファム・ファタルなのであって、破滅しない男ならばファム・ファタルファム・ファタルたり得ないのではないか、と考えたくもなるが、運命を左右するという点でも魅力という点でもファム・ファタルとしての資格十分のニコルは、男を破滅から救うのである。
ニコルとの結婚後間もなく、アルノーは夢から覚めるがごとく株から足を洗い、カトルメールも一足先にロンドンに河岸を変える。ミシシッピ株は9000で固定され、カンカンポワ街も店仕舞いの様相を見せ始めた頃、パリのアウグスティノ会修道院の地下の納骨堂にもぐりの市場が出来るのである。
これに先立って、破産の噂が流れたのがきっかけでオーヴィリエがマンナイアと共に一旦退場している。そこへ、アルノーが足を洗ったことで、契約が終わったナタンは一度に借金を回収しようとしてオーヴィリエの怒りに触れて殺され、金貸しに800万リーヴルを盗まれたと考えたオーヴィリエは方々の金貸しを荒らして回りはじめる。このオーヴィリエを始末する必要が、ヴィクトール親方をはじめとする泥棒たちの間に生じ、オーヴィリエの首には40万リーヴルの賞金がかかるわけであるが、この賞金をオーヴィリエ自身に株で稼がせようという話で(いや酷い)、このもぐりの市場はいわばオーヴィリエを誘き寄せる罠なのだ。このもぐりの市場作りを任されたゴデは、そんなことは露知らず、カンカンポワ街で行われる取引の十倍を一日でこなし、月の取引が延べで90億リーヴルにものぼる、数字だけで行われる「システム」をはりきって完成させる。この化け物のような代物をコントロールするために、田舎に引きこもっていたカンカンポワの英雄アルノーが引っ張り出され、アルノーに恨みを抱くオーヴィリエは、思惑通りもぐりの市場に誘い出される。
で、実際オーヴィリエはこの市場で40万稼ぐわけである。正確には代理人の蜥蜴が、であるが、この蜥蜴はかつてルノーダンの店に出入りしていたことのある凄腕の空き巣で、ルノーダンの指示を受けている。ルノーダンの目的は、アルノーを破産させること(オーヴィリエがもぐりの市場に持ち込んだ100万リーヴルには出資者を募って集める例の補償がかけられているようだ。100万リーヴルもルノーダンが用立てたのだろう)、それから、この実体のない経済の究極の具現化ともいえるもぐりの市場を破壊することにもあったのではないか。
ルノーダンはこの一連のバブルに対して、一貫して嫌悪感を隠そうとしない。多数の貴族が集まったニコルとアルノーの結婚式でも、ルノーダンだけがひとり居心地の悪さを体験する。株屋らしき者が貴族で、貴族に見えるものがどうも株屋らしいと思ったらやはり貴族で、貴族らしい者が株屋で、と「故買屋の娘と追い剥ぎの」の結婚式には多数の貴族と、貴族に見える株屋が列席している。

お仕舞いだ、世界は壊れちまった、とルノーダンは心中密かに嘆く。P120

娘をアルノーに奪われた僻目があるにせよ、ルノーダンの醒めた眼差しは、貴金属を提出して作った金の仔牛を崇拝する民衆を眺めるモーゼに擬せられるだろうか。金貨銀貨を没収して紙の株券や紙幣をばらまく貴顕紳士を「派手な癲狂院に詰め込まれた瘋癲の群れP120」と評するのが故買屋、というのが何とも面白い。
盛況を見せるもぐりの市場だが、国がミシシッピ株と紙幣の段階的切り下げを発表すると、株価が暴落を始める。財務総監が更迭されたという噂が流れ始めると、蜥蜴は「売って買って」をしだし(ルノーダンがヴィゼンバック兄弟から聞いたのを教えたのだろう)、最終的にルノーダンの指示通り買い集めておいた1500株をここぞとばかりに売り浴びせ、もぐりの市場を崩壊させる。
ルノーはオーヴィリエとの例の賭けを続けており、市場の崩壊はアルノーの破産を意味する。
破産したアルノールノーダンとオーヴィリエが迎える、翌日のルノーダンの家の一場が絶品だ。必然のどんでん返しが起こるのだが、ここぞとばかりにナタンの口調を真似るアンリ、母親がいると思しき方向に手を振るニコル、豹変するルノーダン、肩を落とし退場するオーヴィリエ、と全ての登場人物が絵になっている。何一つとして無駄がない完璧な構図は、第一回目冒頭のルイ十四世治下の時計専門の侍従の逸話のように、この作品が「正確無比な時計」そのものであることを思い起こさせる。

 目を覚ましても、まだ顔には笑いが残っていた。誰かが毎日螺子を巻いて時間を合わせている正確無比な時計が朝の四時を打つのをぼんやりと聞きながら、2240万だとさ、と考える。
P128

「システム」とその変奏が数多く登場し、作品自体も極めてシステマティックだといえるが、夢の中にいるかのような、或いは全てが夢だったかのような幻想的な雰囲気もまた持ち合わせている。最後の馬車の中で半睡状態にあるアルノーが聞く蹄の音は、アルノーを夢の中に居続けさせるものなのか、はたまた夢を破る兆しだろうか。

小説現代 2012年 05月号 [雑誌]

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佐藤亜紀『金の仔牛』第三回

 ――ひとつ、訊いていい?
 ――何だね。
 ――それが何かあなたの役に立つの。
 ――勿論だとも。
 ――どんな。
 ――ああいう奴の首には縄を付けておかないと引き回せないからな。
 ニコルは、何だそうか、と言わんばかりに頷く。――だったら安心。
 ――どうして。
 ――あなたを嫌いになりたくないからよ。
 カトルメールは大笑いする。
P583~584

ニコルが、オーヴィリエを半狂乱にしてやるというカトルメールに最後に訊く場面のやり取りは、この作品の交渉の基本姿勢なのかも知れない。めいめいが己の利益になることをなし、調整の結果、それが皆の利益にかなうこと。
オーヴィリエに大口の金を貸しているうちのひとりで、フェリポー(ポンシャルトラン伯ルイ・フェリポー?)の秘書をやっていたことが自慢だというナタンに、ヴィゼンバック三兄弟が条件を飲ませる際にも、ナタンは「――それがあんたらに何の得になる。P590」「――それであんたらは何の得をする。P590」と念入りに訊く。ナタンは、ヴィゼンバック三兄弟の真意を悟ると、破顔一笑する。

 ナタンは満面の笑みを浮かべる。――そりゃあ悪辣だ、人の道を踏み外してるな。あんたらがそこまで性根の腐った知恵を見せてくれるのは二十年ぶりくらいじゃないか。
 ――皆の為だよ。
 ナタンは嬉しそうに咽喉をごろごろ言わせる。――二十年前にも聞いたな。嬉しいね。じゃ25万出してくれ。
P591

ただし、ここでの「皆」にはオーヴィリエという無法者は含まれてはいないのだろう。アルノーが追い剥ぎ時代に出会った仕事仲間のように、正気でない人間には、調整も交渉も通用しない。しかし、ここではそういった正気でない人間を排除するという方向ではなく、いかに利用しつつ無害化するか、で「皆」が一致しているので、オーヴィリエもまたひとつの中心といえる。
しかし二十年前に何があったのかしらん。
さて、ナタンはいつものように、オーヴィリエのために資金だけを用立てるつもりだったのが、ヴィゼンバック三兄弟の訪問を受けて、彼らの提案を取り入れた、今や青天井のミシシッピ株の相場に連動する契約をアルノーに持ちかけるのである。

これまでのアルノーを中心に動いている金の動きをちょっと整理してみる。アルノーはカトルメールから巻き上げた紙幣の100リーヴルを振り出しに、カトルメールのために、紙幣の10リーヴルあたり銀の15リーヴルで交換する仲介役を引き受ける。アルノーは15から一割を取る。
次に、オペラ劇場でニコルを見初めたオーヴィリエが、ルノーダンにニコルの身柄を要求すると、ルノーダンはオーヴィリエに賭けを提案し、オーヴィリエは了承する。
この賭けの中味は、まず、オーヴィリエが10万をアルノーに融資する。これが先のレートに従えば15万になるわけで、オーヴィリエはそこから一割を除いた13万5000を受け取る。その内の1万は賭け金で、アルノーが成功するとルノーダンの勝ちとなり、ルノーダンが受けとる。アルノーが失敗すると、アルノーとニコルの身柄はオーヴィリエの手に落ち、さらにルノーダンはオーヴィリエが失った10万の尻拭いをしなければならない。
オーヴィリエにとってはどう転んでも損をしない賭けなので、融資額を毎月吊り上げ続けることになる。
そこでルノーダンはこの尻拭いの相談をヴィゼンバック三兄弟に相談したところ、その10万の出資者を募ることになり、配当にはルノーダンがオーヴィリエから貰い受ける賭け金1万が充てられる。さらにこの10万は資金運用(アルノーと金)で殖す。
この辺りからミシシッピ株が高騰し始め、カトルメールの勧めでアルノーは株の仕手を手がけるようになる。
一方、ニコルはアルノーが父親の狡猾な罠に嵌ったことを知り、ヴィゼンバック三兄弟に打開策を相談しに行く。ヴィゼンバック三兄弟は、オーヴィリエが出資金の一割を賭け金にするように、ニコルも賭け金を出して出資者を募り、アルノーが失敗した場合の埋め合わせ金の準備を提案する。しかしニコルには手持ちの現金がないのでこの話にはまだ乗れない。

今回、ヴィゼンバックが叩き台を作りナタンが仕上げた新しい契約(ゴデは「全てが、余りにも完璧だ。これほど美しい契約は見たことがないP596」と感嘆する)は、オーヴィリエが100万リーヴルをアルノーに預け、これをアルノーが直接株で転がし、一カ月の間についた株価の最低値と最高値の変動率を、元金に掛けた額を月末にオーヴィリエに払い戻すというもの。払い戻された額はすかさず全てアルノーに預け直される。株価は律儀に1.5倍(丁度当初アルノーが仲介していたレートと同率)ずつ上がり続けるので、100万はあっという間に膨れ上がる上、月初めに暴騰して後、その月中、下落しつづけても株価は上がったと評価されるという、まるで博打のような代物である。すなわち、アルノーがこけるか、オーヴィリエの首が回らなくなるか。
このような状況に追い込まれたアルノーは、流石に逐電を考えながら、カトルメールがどうも自分を窮地に追いやっている黒幕ではないかと見当をつける。すぐさま、いや全ての出所はルノーダンだ、と思い直すが、そのルノーダンは事態が手に負えなくなっていることに呆然とするばかりである。
カトルメールについては未だ多くは語られず、謎の多い人物である。だが、これまでの彼の行動や言動から判断するに、タレイラン的な造形、嘘は吐かないが人は騙す、というタイプのキャラクターではないだろうか。精巧な罠を拵えたりするわけではないし、表立って動いているわけでもないが、ここまで、カトルメールの思惑通りにことは運んでいるように見える。アルノーはカトルメールに踊らされることに自覚的であるし、アルノーが途中までそう考えていたように、やはりカトルメールが一番の大立者ではないのかな。
しかし、アルノーがバセットで100リーヴルから始めて100万を目前に全部すってしまう場面はなんとも不吉な……。

小説現代 2012年 04月号 [雑誌]

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佐藤亜紀『金の仔牛』第二回

メッテルニヒ氏の仕事』には、第一部冒頭で、「これから私が語ろうという人物である」と、「私」という語り手が想定されていることがわかる。この語り手はヨーロッパ半島を俯瞰してみせるパースペクティヴを提示し、状況についての最低限の解説や論評を加え、メッテルニヒ氏の仕事を複眼的に捉えるためにあらゆる角度から対象を見ている。そして語りは語りとして、人物たちの思考に溶け込ましたりはしない。禁欲的かつ透徹な語り口が常に前景化しているのだと思う。メッテルニヒ「氏」という、主に語る人物に対してどこか他人行儀な呼称を採用しているのも、飽くまで歴史上の人物は徹底した他者であることを示しているのかも知れない。
『金の仔牛』でもやはり冒頭部分で「これからお話ししようという物語」と、物語の外に語り手が想定されていることが示されている。この語り手は『メッテルニヒ氏の仕事』の語り手とは違い、物語が進行している中では息をひそめて姿を隠してはいるが、この作品も同じく語り物であることに注意を払ってもいいのではないだろうか。『メッテルニヒ氏の仕事』と『金の仔牛』、この二作品が同時に連載されていることは案外重要な意味があるのではないか。政治と経済、語られる世界の広さ、時間の長さに違いはあれ、共通するのは利害関係者の多さと、利害が一致しさえすれば手を組む姿勢(呉越同舟佐藤亜紀作品の特徴ではあるが)、そして語り手が登場人物を外から眺めている、突き放したような感覚。
ルノーダンの相談を受けた金細工師のヴィゼンバック三兄弟が状況を整理するために図を描くように、第二回開始の時点でも利害関係がかなり複雑化している。しかも、カトルメールの弁護士デゴから、オーヴィリエ公爵の執事「蜥蜴」に至るまで、何らかの思惑を抱いているらしいことまでわかってくる。そして、ニコルが同じくヴィゼンバック三兄弟に相談に行くと、事態はさらに複雑怪奇な様相を見せる。
かつての100リーヴル、それも紙切れの100リーヴルの持ち主がいつしか100万リーヴルの持ち主を現実的な目標として目指すことになっているのだから、事が大きくなるのは当たり前なのだが、「餓鬼」に過ぎないアルノーを中心に膨れ上がって行く様子を描き出す手際の見事さに舌を巻く。しかもこれでもまだプレイヤーが出そろったとはいい難いのである。今後もなんだか増えそうな予感がする。まさにバブルの発生を目の当たりにしている感覚だ。
それに加え、利害関係の力点もまた移動する。ニコルとその父ルノーダンとの、アルノーを巡っての対立が今回の目玉だろう。ルノーダンはアルノーをどうにかして殺してやりたいし、ニコルはアルノーを絶対に殺させたくはないのである。
そこで、ルノーダンがアルノー相手に仕掛けた悪魔的な罠は大規模な投機(というか保険というか金融商品というか)を生み出し、ニコルはそれに対抗して、同じ理路でアルノーがその罠から抜け出せるように安全装置を取り付けようとする。
それがヴィゼンバック三兄弟が描いた図から生まれるのだが、この仕組みを前にすると、オーヴィリエ公爵が作らせたマンナイアという処刑道具は仕組みという点では恐らく単純なものなのだろうと思えて来る。
また、ルノーダンとニコルは親子だけあって(という言い回しは妥当ではないだろうが)行動や思考が一対のものとして扱われている。ヴィゼンバック三兄弟を訪ねる様子も対称的(というかカノン的?)に描かれていて、この辺りはひたすらに巧いとしかいいようがない(ところでニコルが飲み物や食べ物を公爵や三兄弟から勧められても拒否するのは何かの暗示だろうか)。訪れる時間帯の違いから生まれる仕事場の風景の差や、ルノーダンが何の気なしに通ったであろう階段を、ニコルはスカートを手で押さえて降り、昇るときは手で窄める姿は読んでいてそれだけで楽しい。もちろんヴィゼンバック三兄弟の様子も。
とはいえ、次回以降もこのニコルとルノーダンとの関係が中心であるとは思えないのである。
ほんとにこれからどうなるんでしょう。
ちなみに、最後のヴィゼンバック三兄弟の会話の中で、オピタルという名詞が出てくるが、普通名詞としてならば病院であるが、この時代では体制からの逸脱者を矯正する役目があったらしい(ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』にそういう事例が多く載っていた気がする)。『マノン・レスコー』では、一六五六年に創設されたオピタル・ジェネラルにマノンが収監されている。そこは現在ではラ・サルベトリエール病院と名を変え、マノンの井戸なるものが保存されているそうだ。

小説現代 2012年 03月号 [雑誌]

小説現代 2012年 03月号 [雑誌]

佐藤亜紀『メッテルニヒ氏の仕事』第二部

今回は前回からの続きとなる第四章の「タレイランの学校」がタレイランの失脚で終わるのを皮切りに、1809年のアスペルン及びワグラムの戦いから1813年のドレスデンライプツィヒの戦いの直前まで、つまりナポレオンの帝国が絶頂期から凋落の一途を辿る過程がメッテルニヒ氏の仕事となる。
第一部から、君主に付き物のある種の病が語られる。君主病、とそれは呼ばれる。
プロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム三世は臆病極まりないし、ロシアのアレクサンドル一世は恐怖心の持ち主で、オーストリアのフランツ一世には劣等感、それも「自分の無能に打ち拉がれた」とまでいわれる。
これらは各国の歴史や権力のあり方、正統性に由来する。君主はそれに自覚的であるだけに、その性格や行動を強く規定してしまうのである。例えば、フリードリヒ・ヴィルヘルム三世は、プロイセンが伝統的に拡大政策を国是とし、文官も軍人も君主の意向そっちのけでいかに大国にのし上がるか、を強迫観念のように持つ中で、プロイセンが冒険主義に打って出られる程の強国ではないことに自覚的であるが故の臆病である。アレクサンドル一世は、皇帝の廃位や暗殺が日常茶飯事のロシアに於いて、自らも関与していると噂される父親の暗殺によって即位しているがゆえ、その権力の正統性の担保を、自らの才能に求めようとする。それも完全無欠の才能だ。例えばナポレオンをあらゆる面で凌駕しなければ、彼のロシア皇帝としての地位は安全ではないのである。
第二部の終わりまで、現在のところナポレオンの君主病について語られることはないが、ナポレオンの君主としての正統性、何が彼をして君主たらしめているか、がロシア遠征の失敗の後、露になる。

 ――君らのところでは私が真面目に平和を求めていないと思っているだろうが、私の立場ではそれは難しい。不名誉な講和をすれば、私はお終いだ。昔からある政府で、君主と民草が何世紀もの結び付きを持っているなら、状況に強いられて上手くない条件を受け入れる事もできるだろう。私は成り上がりだ、世論を維持するのに色々しなければならん、私には世論が必要なんだ。そんな種類の和平を公にしてみろ、確かに最初のうちは、喜びの声しか聞こえないだろう。だが直に、政府に対する声高な非難の声が上がって、私は敬意も、人民の信頼も失うだろう。フランス人というのは想像力旺盛なのだ、栄光と、昂揚感が大好きで、移り気なのだ。
 シュヴァルツェンベルクは驚く。ナポレオンは――つまりナポレオンである。一度や二度敗れたところでナポレオンでなくなる訳ではない。二十年の軍事的名声が一度の戦役の失敗でゼロになる、などということは、シュヴァルツェンベルクが軍人であれば尚の事、ありそうにも思えない。ところが、何故かナポレオンばかりかシャンパニーまで、フランスの名声は地に落ち、このままでは国内の支持も怪しいと思い込んでいる。
P62~63

メッテルニヒ氏はナポレオンに理想的な君主像を見出していた。意見や反論は全て情報として処理され、決めるのもナポレオン、責任をとるのもナポレオン、という意思決定システムは、ウィーンやプロイセンの稟議方式や廷臣たちの政局に左右される君主制に比べると、遥かに効率が良く、明快そのものなのだ。その上、ナポレオンのひととなりそのものにも魅せられてもいた。談話を報告書に全文引用してしまうウォッチャーと化してしまうほどで、ナポレオンの帝国の威信と相俟って、他国の君主のような病の兆候は欠片も見出せない。
ところが、1809年のナポレオンは、かつての快活さを失っている。スペインやポーランドタレイランらの反対派、と内憂外患がナポレオンを不機嫌にさせている上に、動員する軍も倍以上に膨れ上がっているナポレオンの戦争は、死傷者も同じように膨れ上がっている。それを目の当たりにして衝撃を受け、これ以上の殺し合いを止めるため、とフリードリヒ・シュタップスという何の背後関係もない十七歳の徒弟がナポレオンに対し暗殺未遂を起こしたことは、この少年に自らの罪を突きつけられた、と語られる。
このナポレオンと、第二部の終わり、マルコリーニ宮の会談で、メッテルニヒ氏は大喧嘩をする。「醒めた理性の世紀が手塩に掛けて育てた人間の粋P71」であるメッテルニヒ氏は、我を忘れて怒る。そして、メッテルニヒ氏が人前で怒ることは滅多にないことなのである。

 ――私は何も譲らん、法的にフランスのものになっているなら村一つ譲らん。裸一貫で王位に昇り詰めた男、砲火を二十年潜ってきた男には弾なんか怖くもない、脅したって無駄だ、命なんか何でもないんだよ、私のも、他人のもな。私の命の値打ちはどれくらいだ? 精々十万の人命程度のものだろう。必要なら、私は百万だって犠牲にする。どうせ君らには何も強制はできない。山ほど戦役を戦っても白星を増やすよう無理強いできただけだ。私は滅びる。王朝も、私と一緒にな。そんなのは私にはどうでもいいことだ。
 自暴自棄、と言う他ない。ただし、ブブナはこの自暴自棄に深く打たれたらしい。それはまさに悲劇の英雄に相応しい自暴自棄であるように、ブブナには思える。言わばナポレオンは歴史を――歴史小説好きが好むような歴史を生きることを望んでおり、その前には帝国も王朝も彼自身も二の次なのだ、と。
 人がその種の戯言を垂れ流すようになった時、もっと簡明で適切な言葉がある――焼きが回った、と言う奴だ。
P66

こういった演説は「歴史小説好きが好むような歴史」小説ならば、恐らくはナポレオンの見せ場にしたであろう。ナポレオンの過剰に芝居じみた振る舞いは、それを一切の脚色なしに写し取ったであろう報告書を元にしても、十分に面白い。いや、面白すぎるほどである。しかし、『メッテルニヒ氏の仕事』では、これは飽くまで「戯言」なのだ。この作品自体の、「歴史小説好きが好むような歴史」小説との距離が明示された箇所ではないかと思う。
この作品の、歴史上の人物の行動のみに焦点を当てたかのような禁欲的な記述は、この時代の人間の思考を再現することを目的としたものではないだろうか。外交や政治を心性面から再現する……ともいえるかもしれない。だから、同時代の史料にないような心理描写や苦悩は当然のように書き込まれず、読者に安直な感情移入を許さない。求められるのは、恐らく、その人物がなぜそのような行動を取るのか、という理解だと思う。
そして、このようにして選択されたスタイルは、メッテルニヒ氏の立場や特性、メッテルニヒ氏の嘘を掬い上げるのを目的とした場合、極めて有効に働くのではないか。
タレイランの「メッテルニヒは始終嘘を吐くが滅多に人を騙さない、私は滅多に嘘は吐かないが、人は騙す」という言葉通り、メッテルニヒ氏は人を思うままに動かすことはしない。メッテルニヒ氏が見せる嘘は、「フランスではフランスの音楽を、ドイツではドイツの音楽を褒めるようになさいP33」という、母からの教えの賜物ではあるのだが、タレイランのように状況を作ったり介入したりするのとは異なり、流動的な状況を前提として、可能な限り交渉に使えるオプションを確保しておきたいという政治、外交スタイルにも起因している。ワグラムの戦いの後での和平交渉で、主戦派のゲンツが「戦闘が終わり、総司令部がエルンストブルンに退いたところでメッテルニヒ氏は徐にトランクを開け、中からフランスとの和平を取り出し、かくてリヒテンシュタイン公がナポレオンのもとに送られたのだP33」と書くように、メッテルニヒ氏は味方からはナポレオンによって送り込まれた和平特使と目されている。だが、メッテルニヒ氏は戦争続行も否定しない。ゲンツにはメッテルニヒ氏の真意が読み取れず、メッテルニヒ氏の嘘の犠牲になったような形なのだが、これは強ち嘘でもない。例えば、主戦派のシュタディオンの慰留を皇帝に進言するのも、皇帝を退位させないための材料として、交渉の結果、主戦派に詰め腹を切らせるのを前提としてのものであるし、皇帝が退位すれば帝国は解体し、軍事的空白になるのを脅す意味でも主戦派の存在は有効な材料なのである。
この和平交渉の顛末は、ゲンツはおろか宮廷もメッテルニヒ氏の真意を理解していなかったことから失敗に終わるのだが、後にメッテルニヒ氏がゲンツに交渉の内容を話しても全く本気にされず、失脚したシュタディオンからさえも「極楽蜻蛉」の「空恐ろしい軽薄さ」故の行動で、自分を追い落とすためという野心があればまだ納得出来る、とまで評されるなど散々なのだが、メッテルニヒ氏の行動がいかに必然的なものだったのか、は交渉の過程を読めばこれ以上ないほどわかるのだ。

文学界 2012年 03月号 [雑誌]

文学界 2012年 03月号 [雑誌]

佐藤亜紀『金の仔牛』新連載

メッテルニヒ氏の仕事』の連載だけで喜んでいたら、まさか平行して連載される作品が他にも出るとは思わなかった。かつてこんなことがあっただろうか。ちょっと記憶にない。至福。
メッテルニヒ氏の仕事』と同じく、歴史を題材にし、地理も時代も近接しているが、当然のことながら書き方や視点が全く違う。やはり書き出しに注目してみる。

 一七一五年、ルイ大王崩御の折、ヴェルサイユ宮殿のそこここでは時計が一斉に四時十五分を打ったと伝えられている。宮中の時には専門の侍従が付いており、日々たゆみなく時計の螺子を巻き時間を合わせていたので、これはさして驚くべきことではなかろう。この時計の精とも言うべき者たちの目に見えない活動が、目に見える世界に、一時間に四度、日に九十六回のささやかな徴のひとつを表した瞬間、廷臣たちの上げる、国王陛下崩御、国王陛下万歳の声に迎えられて、曾孫である齢五歳の皇太子は新王ルイ十五世となった――が、残念なことにこの逸話は、これからお話ししようという物語にさしたる関係はない。
P51

これだけで舞台設定と、「これからお話ししようという物語」の精度が伺える。ルイ十四世治下の宮中での時計専門の侍従について語れる人間がどれだけいるだろうか? そしてそれをさらりと導入に用いる贅沢さ。
舞台はこの四年後、若き追い剥ぎのアルノーが一人で馬車を襲うことから始まる。そこで手にしたのが王立銀行が発行した紙幣だったことがアルノーの運命を大きく狂わせるのである。この紙幣は「事情のある金」が集まる稼業にとっては悩みの種で(銀行に持ち込みたくても持ち込めないのである)、一方ではその「事情のある金」であっても兎に角何がなんでもどうしても欲しい人間というのがいて、多額の仲介料を条件に、アルノーは裏稼業から紙幣をかき集める役目(つまり資金洗浄)を担うことになる。
そんな紙幣をアルノーに示した(というか追い剥ぎの被害者)カトルメールという紳士は、独特の経済哲学を語る。

 ――そう、その先だ。金のなる木の噂を信じて額面100のこの紙切れを120でも130でも、それ以上でも買う馬鹿者が百人いるとしよう。そして君が偶々この紙切れを一枚持っていたとする。それを知ったこの百人はどうするね。
 ――おれのところにやって来て、頼むから譲ってくれと言い出すでしょうね。
 ――そうしたら君はどうするね。
 ――一番高値を付けた奴に売って厄介払いしますよ。誰だってそうするでしょう。
 ――ちょっと考えてみたまえ、それが本当にただの紙切れだったとしても、もし誰かが1000リーブル出すと言ったら、それは実際、金のなる木の種だったも同然ということになりはしないかね。
P56

一瞬、株の話をしているのかと思うが、これはジョン・ロウが発行した100リーブル紙幣についての会話である。王立銀行を設立し、フランスで初めての紙幣を発行したジョン・ロウもまた、株と紙幣を同じように通貨として流通させる野望を持っていた。

 フランス経済を「管理通貨」によって運営するというロウの計画の実行にあたっても、もちろん国の「債務」である紙幣は主役を演じる。「王立中央銀行(バンク・ロワイヤル)」と「ミシシッピー会社」を一体化したロウの帝国を指して、当時の人々は「システム」と呼んだが、実際、それはロウという一人の天才の頭脳によって支配される巨大なシステムであった。そうだとすると、「ミシシッピー株」が「システム」の発行する「負債」であるのと同じように、王立銀行の発行する「紙幣」もまた「システム」の発行した「負債」ということになる。
 実のところ、ロウにとっては「紙幣」と「株式」の違いは、どうでもよい問題で、両者がともに「システム」の「負債」であるという点だけが重要だった。なぜなら、彼は、「株式」もやがて「紙幣」と同じように通貨として流通する時代が来ると信じていたからである。なんと時代を先取りした思想を持っていたことだろう! 「紙幣」だろうと「株式」だろうと、ともかく「システム」の「負債」を大量に発行し、すべてそれによってフランスの経済取引が媒介できるようにする。その上で、経済状況に応じて「負債」の規模を自由に調整し、「金融政策」を実行する、そういうシナリオを彼は抱いていたのである。
竹森俊平『資本主義は嫌いですか』P67~68

ジョン・ロウは、この作品の時代背景を知る上で最重要人物であろう。以下、竹森俊平の『資本主義は嫌いですか』からこの人物がこの時代に果たした役割を要約してみる。
スコットランド人のジョン・ロウはフランス王立銀行総裁にして、アメリカの仏領「ルイジアナ」の通商権と開発権を与えられたミシシッピ会社の支配権を握っており、その立場を利用してフランス国債ミシシッピ会社の株式に転換する政策を実行していた。当時のフランスの財政は破綻の瀬戸際に立っていて、一七一四年の公債残高は国民生産の一〇〇%を超え、一七一五年のルイ十四世の死の直前には政府は八〇〇万ルーブルの借り入れをするために、三二〇〇万ルーブルの額面の手形を発行しなければならないほどであった(冒頭の時計にまつわる豪奢な逸話は、このルイ十四世時代の財政危機を仄めかしてもいるのだろうか?)。そこでこのフランス国債を、ミシシッピ会社の株式に転換するにあたって、ジョン・ロウはミシシッピ会社の事業規模を拡大し、それを背景に「人気株」を発行させる。そこで調達した資金で、フランス国債を購入するというわけである(直接、フランス国債ミシシッピ会社の株式と交換することも出来た)。さらに、ミシシッピ会社の株式を市場で消化しやすいように、ジョン・ロウの指揮下にある王立銀行には紙幣をどんどん刷らせる。最終的には、ミシシッピ会社によるフランスそのものの買収まで視野に入れていたという。
大天才とも大ペテン師ともいわれるこのジョン・ロウは、ヨゼフ・シュンペーターが「古今東西の第一級の金融理論家」として高く評価するように、「管理通貨」の確立に於いて希有の思想を持っていた。
さらに、池内紀によると、ジョン・ロウはゲーテの『ファウスト』に出てくるあのメフィストフェレスのモデルにもなった人物でもあるらしい。第二部の、紙幣を発行して帝国の財政を救う場面に、多大な影響を与えたというのだ。

 メフィストーフェレス
およそこの世で、足りないもののないところなどございません。
あすはあれ、ここはこれ、そしてお国にはお金が足りないのです。
お金は床から掻き集めるというわけにはいきませんが、
知恵の力でどんな深いところからでも掘り出せるのです。
鋳造した金貨や粗金のままのやつが、
山の鉱脈からでも、石壁の土台からでも見出されます。
で、そいつを誰が取り出してくるかとお尋ねになりますなら、
天分ある男の天性と精神との力であると申しあげましょう。
ゲーテファウスト』第二部岩波文庫版 相良守峯訳P24

 宰相(おもむろに出てくる)
長生きをしたお陰で、嬉しい目にあうことです。――
ではこの重要な文書をお聴きになり、またごらん願います。
これこそ禍を転じて福となしたものですから。
 (読み上げる)
「知らんと欲するものに遍く布告す。
これなる紙幣は千クローネンに通用するものなり。
その確実なる担保としては、帝国領土内に
埋蔵せられたる無数の宝をもってこれに充つ。
この豊富なる宝をただちに発掘して、
兌換の用に供すべき準備すでに整いたり。」
 皇帝
怪しからぬことが、途方もない詐欺が、行われたらしい。
わしの親書をここに似せて書いたのは何者か。
このような犯罪がまだ罰せられずにいるのか。
 大蔵卿
えがおありのはずですが。ご自身でご署名なされたのですから。
昨晩のことなんです。パン大神となっておいでのとき、
宰相が私どもと一緒に罷りでて申しあげました。
「この立派なお祭りが、また人民の幸福と相成るよう、
ほんのひと筆お願い申しあげます」と。
するとお書きくださいましたので、昨夜のうちに、
奇術師に依頼してさっそく幾千枚も刷らせました。
そして恩恵が遍く万人におよぼされますように、
すぐさま、一枚一枚に捺印いたし、
十、三十、五十、百クローネンの札ができあがりました。
ゲーテファウスト』第二部岩波文庫版 相良守峯訳P96~97

このジョン・ロウが発行した紙幣(金の仔牛?)を巡って、アルノー、カトルメール、故買屋のルノーダン、その夫人、そして娘のニコル、と視点人物を固定せず、戯曲を時折感じさせる形式で物語は進む。全体的に喜劇仕立てなのかと思いきや、最後に不気味で血腥い殿様が登場し、不吉な影がさして、第一回目は終わる。
様々な思惑のもと、誰が仲違いをし、誰が手を結び、そして誰が束の間の勝利を収め、転落の憂き目に遭うのか、という、佐藤亜紀に書かせたら右に出る者はいない世界を予感させる。これは続きが待ち遠しい。
間テクスト性の面でも注意しなければならない点が多くある。カトルメールと同じくらい、いやひょっとすると遥かにアルノーの運命を狂わせた魅力的なファム・ファタル、ニコルは『マノン・レスコー』のマノンを思わせる。マノンは、ミシシッピ会社の総裁でありルイ十五世の摂政でもあるオルレアン公フィリップの名を冠した都市、ヌーヴェル・オルレアン(現在のニュー・オリーンズ)に追放されているのである。
つまり、これはマノン・レスコーを思わせるニコルと、ジョン・ロウをモデルにしたメフィストフェレスを思わせるカトルメール老人との、アルノーを挟んだ世紀の誘惑合戦と見ることが出来るかもしれない。ファム・ファタルメフィストフェレスが同時に目の前に現れたら、なんて考えたこともなかったが、ミシシッピ会社で繋がるこの奇跡。果たしてアルノーファウストになるのかデ・グリューになるのか。或いは……。
タイトルは旧約聖書の『出エジプト記』32章から引かれており、このエピソードも勿論主題に関わるだろう。作中に登場するシャルパンティエのオペラ『アクテオン』も何かを示唆しているのかもしれない。
確実にいえるのは、作者は読者の予想の遥か上を行く極上の展開と結末を用意しているということだけである。

小説現代 2012年 02月号 [雑誌]

小説現代 2012年 02月号 [雑誌]

資本主義は嫌いですか―それでもマネーは世界を動かす

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ファウスト〈第二部〉 (岩波文庫)

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コンラード・ジェルジュ『ケースワーカー』

昨年末、ケースワーカーについて調べていたらこのタイトルのお陰で知ることが出来た。
知っているひとからすればかなりの知名度のある作家、らしいのだが、現在の時点で邦訳されているのは本書のみでそれも絶版(ではなかったようです。入手困難なだけみたいです)という状況なので、日本語(というかネット)では情報が少なく、書評も殆どない。人様の感想を拝見するのが大好きな人間としては大変辛い。
コンラード・ジェルジュは1969年にこの『ケースワーカー』(原題は『訪問者』)でデビューしている。1984年に発表した『反政治』が、「中欧」という立場から、東西冷戦に異議を申し立てたことで、ミラン・クンデラと共に語られることが多いようだ。ハンガリー民主化の一翼を担った自由民主連盟(SZDSZ)の創立にも関わっていたらしく、ハンガリー文化センターハンガリーのニュース欄で、2009年のSZDSZの崩壊について何度か名前が出ている。1933年生まれというから、八十歳近くになってもなお政治の第一線にコミットメントしていることになる。日本だと同世代の大江健三郎小田実をイメージするといいだろうか。政治的発言の影響力はもっと強そうだが。
ケースワーカー』は、作者自身がブダペスト市七区教育課児童保護観察員であった経験が生かされていると思われ、語り手は児童福祉事務課の相談員(らしい。カバーの折り返しにはそう書いてあるが、作中で語り手自身の仕事について具体的に言及はされていないと思う。見落としている可能性もあるが)で、無慈悲な語り口で仕事にまつわるあらゆる事物を語る。
ケースワーカーというタイトルから、ハンガリーの福祉行政が日本のそれと全く同じわけではないと知りつつも、日本の生活保護行政をどうしても思い浮かべてしまう。この作品の、貧困や社会に打ちのめされた人々の弱さの描き方や、行政官の葛藤の様は普遍的な説得力を持っているし、それが国際的な評価を得た理由のひとつであるらしい。
この語り手に特徴的なのが羅列で、人から物から風景から事件からなんでも羅列する。それらの多くには思弁的な配置や装飾が施されており、羅列から生まれる独特のリズム感も相俟ってか、詩的な美しさを感じさせる。

石、板、鉄がここでは、まるで背の低いブリキ箱の中に切って投げ込まれた鶏の足のように、脈絡なく寄せ集められている。色褪せたネームプレート、壁でふさがれた窓、バラバラになったシャッター、欠けたライオンの頭、戸の下の方にこびりついたしみ、小便をかけられた花飾り、どこからかはずれた樋、たるんだ電線、腹わたを裂くようなサイレン、今にも倒れそうな格子にひっそり咲くいちはつ、ゆりの花、無料墓地行きの老人たちの地下室にかかった錆のついた錠前、投げ捨てられたもろこし製の箒、自転車のチェーン、きのこの親木の山に紛れこんだ紙ラッパ、防空壕の入口のコンクリートの出っ張り、銃弾を打ちこまれた窓に応急処置として積まれたむき出しのレンガ、役に立たない壁の張り紙、青紫色のプラカードの文字、カーテンの引かれたショーウィンドー——私はこうした家並が好きだ。過ぎ去った季節や単調な出来事を染みこませて、三〜四世代がその中に棲息している。最初の産業革命の恐竜ともいえる当時の横町は、取手についた副次的な人間の指紋とともに歴史の中に埋もれていき、靴の中の死者の足のように、家族が膨張していっても、うっとりするほど一人一人とは無関係で、かすり傷ぐらいものともせず、訓練された死の苦痛の中で、ただ雨、霜を相手に最後の対話を続けている。
P56~57

モルタルの破片が住人たちの上に落ちてき、汚水が頭の上にふってき、赤ん坊の足が鼠にかじられ、健康な人の足許に病人が排尿する。規律の様々な試み、精神病の父親と一緒に閉じ込められている者、直腸癌の姑を抱えている者、枕の下に肉切り包丁を潜ませる夫を持つ妻。老女の十字架に電流が流れ、身体障害者が窓から落ち、青白のパトカーのサイレン、そして再び平常の日日、住人の一人は淋病患者、二人目はトランペットを吹き、三人目は共同便所に長いこと座りこみ、四人目は宿なし猫、屑、乾いたパンのミミ、壊れたガラスやタイル、ニカワ用の骨や解けたバターを蒐集し、五人目にはのぞきの趣味があり、六人目は密売常習犯、七人目は福音主義を説き、八人目はナイフを投げ、九人目は潰瘍を見せびらかし、十人目はスープをねだり、十一人目は不随の老婦人の体を洗い、牛乳を飲ませ、十二人目は入口に坐りこんで子どもとシャボン玉を飛ばし、十三人目はラフィヤヤシ製の人形に銅ボタンのついた消防夫の服を縫い、十四人目は誰にでも服従し、十五人目は梨の罐詰を瀕死の病人に届けて喜ばれ、十六人目は石炭運びと交換に発情している若者をベッドに迎え、十七人目は梯子に登って、屋根に逃げた九官鳥を掴まえ、十八人目は隣の子どもに乳を吸わせ、十九人目は車椅子の少女に車を持った婚約者が現れるよと予言し、二十人目は薄ばかに対しても自分から挨拶する。
P58~59

ストーリーめいたものをこの作品から見出すとすれば、終戦後に落ちぶれた、かつてのナチス協力者の夫妻が自殺し、思索的な語り手がただひとり残された「精薄児」(現在では適切ではない用語だとは思うが、邦訳当時の訳文を尊重する)を引き取ることで、状況が変化し、さらに思索を深めるが、思索を深めるだけでは状況は当然改善せず、ついには発狂の恐怖に怯えると、それらの状況は全てが妄想の所産であることが明かされ、「精薄児」は結局事務的に処理されると、長い一日が終わり、語り手はまた明日から反復される日常が始まることを予感しながら、最後の最後で出し抜けに「やって来てくれ」と、全ての来談者に呼びかけ出し、博愛精神を惜しげもなく表明するのである。これらを、まるで人を喰ったような、と思うひともいるだろうし、この上ない誠実さと見ることも可能だ。
作品全体を見渡すと、兎に角逆説と反語が多く、とても一筋縄ではいかない。発表時に賛否両論が巻き起こったそうだが、例えば「精薄児から学ぼう」などといったレトリック(「精薄児」は複雑な苦悩を持ち得ない!?)は、いくらなんでも悪趣味に感じられる。語り手はかつての職についても語る。法廷の検事、刑務所の墓地の調査員、そして「屠殺場」(取材に来た仏教徒の報道写真家はアウシュヴィッツアウシュヴィッツと呟く)。現在の職も入れると、成る程語り手は社会の矛盾点に身を置き続けているわけであるが、ちょっとご都合主義的で図式的に過ぎるきらいもある。
さて、語り手が進んで自らに課す状況が、どうも虚構性が強いものであることは、引き取った「精薄児」の、まるっきり獣のような描写(全身が毛に覆われ、生肉を好んで食べ、二階の窓から脱走し市場を駆け巡る)や、当初の予定通りに「精薄児」を福祉施設に送ろうとする場面で、崖を際限もなくよじ上っていく姿を描いた後、これがやはり妄想であったことなどから、読み進めるうち薄々勘づくことは出来る。「精薄児」を引き取った結果、収入を失った語り手が、「精薄児」の隣で精を出しているのが猿のぬいぐるみの組み立てる内職であるのも、さりげなくこの「精薄児」の種明かしをしているのかもしれない。
さらにいえば、冒頭で、書類棚からかつての来談者たちの思い出の品(その多くは既に死んでいる)を取り出し、その記憶を語る時点から、作品全体に漂う死のイメージと共に、語り手によって事物が再構成されていることを予感することは十分に可能であるのではないだろうか。
ところで、この作品の中にさり気なく挟み込まれている、市街に見られる銃弾の痕についてちょっと気になった。「マシンガンの弾痕によるアバタの地形P56」「銃弾を打ちこまれた窓P56」がそれ。
ブダペストの街並のこの特徴は、現在ではもうないらしいが、冷戦終結前までは生々しく残っていた。

 それから街に出て歩くと、建物の壁が方々でぽつぽつと抉られていた。しばらく考えて漸く、それが弾丸の当たった箇所であることに気が付いた。今では消されてしまったようだが、当時はペシュト側の目抜き通りの壁にさえ弾痕が残っていた。ブダの丘に上がると、九一年にはまだ、何箇所か見ることができた。Moskva ter と地図にあった(今は別の名前になっているかも知れない)三角形の広場から上がる道の弾痕はことに凄まじく、その広がり方と抉られ方でどこから何を狙って撃ったのかがはっきりわかるくらいだった。手持ちのガイドブックには第二次世界大戦末期の弾の痕だとあったが、さて、どんなものであろう。その後も、ご存じの方はご存じだろうが、街の壁に弾丸がめり込みそうな事態がない訳ではなかった。ただし、八六年当時は誰もそれを言えなかった可能性はある。
佐藤亜紀陽気な黙示録ちくま文庫版P276~277

語り手はかつての戦争について、地雷除去作業に従事していた、と語る。ドイツ軍とソ連軍が残していった地雷を除去する作業は、「平和」とまで形容され、第二次大戦末期の激戦であったブダペストの戦いを想起させるものではない。
以下はこの作品の語り手のひそみに習い、ちょっとした妄想である。
福祉行政に携わる人間が、「自分のやっていることは、所詮、体制を維持するためのガス抜きにすぎない」と葛藤を覚えることは珍しくない。前回記事にした久田恵の『ニッポン貧困最前線』にもその類いの話は出てくる。では、その仕事によって維持される体制が、ハンガリー革命がソヴィエトによって鎮圧された後に誕生したものであるとしたら?
上記の引用文は、アゴタ・クリストフを読む上で、そうした「背景」を過度に読み込むことを戒めるものであるが(それはあまりに文学的すぎるのだ)、この作品の虚無的な語り手の無慈悲な仮面の下に、わずかに見せる無垢な感情を理解する上で、念頭に置いておいてもいいような気がする。基本的に、この語り手は素朴なのではないかと思う。
ただ、後に「中欧」を提唱した作家であるから、ソヴィエトとドイツの狭間にあって翻弄された歴史を、刻まれた弾痕(それがいつ刻まれたにせよ)に控えめながら語らせようとしていただけなのかもしれない。

ケースワーカー

ケースワーカー