「事実」はいかに書かれるべきか

ケースワーカーと呼ばれる人々 ニッポン貧困最前線 (文春文庫)

ケースワーカーと呼ばれる人々 ニッポン貧困最前線 (文春文庫)

ケースワーカーという、戦後の生活保護行政の現場を支えて来たひとたちを主人公に据えたルポルタージュ
大層面白い本ではある。その理由のひとつとして、小説形式の採用が挙げられるだろう。ケースワーカーを主人公に据えた三人称形式で、ケースワークの現場や事件の再現を行っている。取材者である久田恵はプロローグと第四部の終盤、それとあとがきにしか登場しない。著者は作中では一貫して黒子として、取材対象の発言を元に構成した小説の語り手として姿を隠している。

 平成四年十一月の月曜日の朝である。
 午前八時三十分、東京都内のK福祉事務所の出勤してきたケースワーカーの川口等は、ひと息つく間もなく事務机に向かうと、手早く新規ケース(受給世帯)の書類に目を通して電卓を叩き始めた。
 いつもは、仕事開始の八時四十五分までは、頭の中を切り替えるために机に向かって一人、沈思黙考する。これは、仕事に没入するためのいわば儀式みたいなものなのだが、この日ばかりはその余裕もなかった。
『ニッポン貧困最前線』文庫版P22

これは著者が取材した事柄を小説形式で再現しているものと思われるが、どう考えても著者が立ち会ったとは思えない取材対象の回想話でも、こういう案配である。

 昭和六十二年一月二十三日。
 その日、札幌民政局社会部保護指導課長の枝元政肇が、福祉事務所の面接員研修で挨拶をすませて、札幌市役所の三階にある保護指導課の事務所に戻って来たのは、午前十時頃だったろうか。
 外は、この時季には珍しく朝方ちらついていた雪が冷たいみぞれに変わり、どうにもすっきりしない空模様だったが、暖房のきいた事務所内はいつものように明るい光に溢れていた。上着を脱いでワイシャツ姿で机に向かう職員も多く、いつものことながら静けさの中にもおっとりとしてくつろいだ雰囲気が漂っていた。
 その事務所にほっとする思いで一歩入ったとたんだった。
 静寂を破るように電話が鳴った、と枝元は記憶している。
『ニッポン貧困最前線』文庫版P108

自分が居合わせた訳ではない事柄なのだから、もっと禁欲的に描写して欲しいものの、こうした風に小説形式で書いはいけないことはない、とは思う。コンビニに置いてあるペーパーバックの実録漫画の類いはいい時間つぶしにはなる。
ただ、例えば、完全にフィクションである場合に、こういう題材を扱うことのハードルの高さを考えると(行政官の立場から見た生活保護行政のあり方を、小説で描くとなると、途轍もなく屈折した語りが引き出せるだろう。体制と、貧困の現場の狭間という、社会の矛盾点が集約する場所は、近代以降に登場した巨大な官僚システムの中では、個人をより孤立へと追い込むに違いない。そしてそうして書かれた作品というものも存在する。いずれ記事にしたい)、問題提起や事件の真相を謳うノンフィクションでこの形式を選択したことの安直さは否めない。ここでの小説という形式は、読み手に行政官の立場を自己同一化させる為だけに利用されている。そしてそれはある一定の効果をあげているし、成功もしていると思う。

何で体制側かって、行政のケースワーカーと一緒に行動して、彼の行くところに一緒に行くという取材スタイル。「受給適正化」を作家の前でやると思うか?これはビルマに行って現地の軍事政権が用意した「視察」ツアーに参加し、「少数民族は人道的に取り扱われており、道路工事等にも自主的に参加している」とのたまった首藤信彦衆議院議員クラスの愚かな振る舞いである。
こうして教育がなく・怠惰な「下層市民」と向き合い、彼らのために奮闘する行政官たちの姿を描く感動できるお話になっている。現実問題として「適正化」が起きてるのに、それには触れずにケースワーカーたちはまるで講談社のお仕事系漫画の主人公みたく苦悩したりする。マスコミには叩かれ、政府のお偉方は何もわかっちゃいない…ね、これで適当な漫画家つれてくればモーニングとかその辺に乗っていても不思議じゃないでしょ。
http://d.hatena.ne.jp/Tez/20060627/p1

Tezさんがあまりに的確に作品の本質を言い当てているので、屋上屋を重ねるようではあるが、この作品の面白さは、まさにお仕事系漫画の面白さであり、その面白さがいかに危ういものであるか考えさせられるのである。
久田恵の『ニッポン貧困最前線』は四部構成で、取材を元に小説形式に構成し直しているのは主に第一部から第三部。第一部は東京の福祉事務所で、アルコール中毒者や独居老人、ホームレスといったひとたちを相手に、様々なワーカーたちがうんざりするような現実を前に奮闘するもので、最もお仕事系漫画っぽい。第三部では炭鉱住宅だった筑豊を舞台に、適正化や不正受給、特に貧困層暴力団員の関係などが描かれている。どちらも面白く、勉強になる。
で、第二部が非常に問題なのだ。札幌で母子家庭の母親が幼い子ども三人を残して餓死した事件に取材している。マスコミは福祉の問題だと騒ぐが、実は故人の元雇い主の喫茶店オーナーが諸悪の根源。なにせ弟が暴力団員の上、覚醒剤所持で捕まってもいる。その弟は故人とは法律婚事実婚もしてなかったが、深い仲にあり扶養義務があった。だから行政は何も悪くないし、マスコミはこうした事実を報道していない。
第一部ではあんなに扶養義務の厳格な適用である、申請者の親族や別れた夫への「扶養照会」が無意味なばかりか生活保護のハードルを上げていると嘆いてみせ、第三部では適正化の大作戦も行政官の立場からではあるがきちんと描いているのだが、第二部では徹底して関係者のプライバシーを暴き立てることに筆を揮い、適正化の問題も天下りキャリアの前任者の話題として少し触れる程度なのだ。そもそもこの第二部には受給者に体当たりで接する熱血ワーカーも登場せず、札幌市民生局社会部保護指導課の課長が上述の引用のように、深い共感を持って描かれているのみである。
その一方で、第二部でターゲットにされている餓死した母親の元雇い主は、初登場からこのように描写される。

 実は枝元が餓死事件を知る三十分ほど前のことだった。
 札幌市白石区の福祉事務所に中野照子と名乗る中年の女性が、大柄で恰幅のよい二人の男を伴ってやってきたという。
 照子は市内で小さな喫茶店を経営している女性で、男は彼女と同棲中の警備会社の社長とその会社の専務だった。
 彼らはこの時、福祉事務所の面接員を直接呼び出したが、面接員は彼らの側に行く途中、同僚に声をかけられ、仕事についての質問を受けたせいでいくぶん手間取っていた。
 と、カウンターの前の男がいきなり怒鳴りだした。
「なぜ、すぐ出てこないかっ、さっさと出てこい」
『ニッポン貧困最前線』文庫版P110

 抗議は二十分ほど続いた。
 そして、彼らは最後に「このまま許すわけにはいかないからな」と捨て台詞を吐くと、ようやく引きあげていった。
『ニッポン貧困最前線』文庫版P111

これは良からぬヤカラだなと思わせるに十分である。捨て台詞まで吐くとは、まるで吉本新喜劇に出てくる小悪党ですな。
ところで、久田先生はこの時どちらにおられたのですか。
取材を元に、小説という形式によって事実を再現する、というおそらくはリーダビリティの要請によって選択された本書のこの方法が、行政官の目を通した事件を、まるで事実のように再現するという形になってしまっている。
本書が主張する事件の真相はそれはそれとして尊重はしたいが、これらは読者に予断を抱かせる小説技術の悪用ではないだろうか?
それとは別に、ずっこけたのがここ。

 月刊文芸春秋の平成四年八月号に「母さんが死んだの嘘」(久田恵、中川一徳共同執筆)と題する記事が発表された。そこには、亡くなった母親とかかわりがあったと噂されていた中野武が、札幌地方裁判所に提出した上申書が掲載されていた。
『ニッポン貧困最前線』文庫版P193~194

 これで事件の謎がすべて解明されたとうわけではなかったが、五年前の枝元の胸のつかえが少しばかりとれた気がした。その一方で、事実が隠されたままこの事件にふりまわされてきた日々はなんだったのか、との悲哀が胸を満たし、枝元政肇は、この日しみじみと吐息を吐いて雑誌を閉じたのだった。
『ニッポン貧困最前線』文庫版P195

あらこんなところでお会い出来たのですね、先生!
別にこれメタフィクションじゃございませんのことよ奥様。ノンフィクションだっせ。
というわけで、この本は随分バランスが悪い。書かれた内容だけで見ても、他の部分と整合性が取れていない第二部さえなければ……と思うものの、書き方を考えれば、第一部や第三部だって基本的には同じ問題を孕んでいるのではないか、という気もして来る。小説は真実を語るには不向きなものなのだ。剰え、自分の主張を補強する為に私人を悪し様に描き出す必要があるのだろうか。
成る程、筒井康隆笙野頼子が現実の論争相手を俎上に、論争を小説で展開する場合にも論敵を誇張して描いたり、風刺の筆を容赦なく揮うことはある(そして論争相手も勿論プロである)。だが、彼らはそれが飽くまでフィクションであることに自覚的だし、その批評的な眼差しが必要と認めれば、自らを切り刻むことも躊躇わない。それから、これが最も大事なことだと思うが、彼らの論争小説では「勝つ」ことは目的とはされていない(と思う)。筒井康隆笙野頼子は、論争がきっかけであったとしても、一旦小説として書き始めると、作品が要請する目的へと導くことに専念している(と、また思う)。
フィクションとノンフィクションの違いだといってしまえばそれで終わりであるが、久田恵はフィクションだかノンフィクションだかよくわからないものを書いてしまっているのである。そして、フィクションだかノンフィクションだかよくわからないものは、現在我々の周りにうんざりするほど氾濫している。コンビニに置いている実録漫画はその最たるものだし、『ゴーマニズム宣言』が脚色たっぷりに政治主張し始め、それが亜流を生み出し、海外のショッキングな事件を扇情的にドラマで再現するテレビ番組は毎週、複数の局で放送されている。だから、この本だけに目くじらを立てることはないのかもしれない。内容は兎も角、書き方はその程度のものです。
と、話はここで終わらない。
なにはともあれ、久田恵が主張する事件の真相があり、久田恵に「嘘」とまで書かれ槍玉に挙げられている水島宏明の『母さんが死んだ』が一方にあるわけである。

『母さんが死んだ』は社会思想社の倒産で絶版であるが、古書で入手が比較的容易なので助かった。どこかの出版社が出し直さないものだろうか。良書であると思うし、『ニッポン貧困最前線』を読んだことのある方は是非読み比べて欲しい。
まず、『ニッポン貧困最前線』の第二部は、やはりというか、事件直後からの札幌市の主張を補強する形で書かれている。事件から五日後の札幌市議会の厚生委員会で、菜原睦人福祉事務所長はこう答えている。

「亡くなった母親が福祉事務所を訪れたときは、子どもの登校拒否など、生活をどうしたらようかという一般的な生活相談ということで、また相談に来たときは元気そうで、差し迫った困窮の実態はないものと判断されました。したがって……むしろA子さんの個人的な事情で亡くなったものと思われます」
『母さんが死んだ』文庫版P156

その「個人的な事情」を、久田恵はわざわざ書き、札幌市当局は『文藝春秋』の原稿コピーを各区役所福祉部にファックスで流し、「「ずっと言えなかったことをようやく書いてくれた……」と部下の前ではしゃぐ幹部もいた『母さんが死んだ』文庫版P374」そうな。
水島宏明と久田恵とで最も鋭く対立するのは、母親が餓死する五年前の昭和五十六年に打ち切られた生活保護の要否判定だ。『母さんが死んだ』では、この時、母親は月に八万円ほど不足する状態で辞退を強制され、足りない部分をサラ金から借りるうちに、生活が破綻して行ったという。
これが久田恵によると、生活基盤は安定していたからこそ自主的に辞退していたのであり、その後生活が破綻したのは暴力団員の男に貢いでいたからだ、ということになる。
両者の主張の違いは具体的な数字にも及ぶ。水島宏明が提示する当時の母親の病院勤務の収入が月七万六千円であるのに対して、久田恵は九万円、児童扶養手当が三万八千二百円(水島)であるのに対して四万五千円(久田)、冬の燃料手当が十万二千九百六十円(水島)であるのに対して十四万円(久田)、唯一、一致するのがボーナスの二十二万八千円(水島)と二十三万円(久田)。これに関しては水島宏明の提示する資料に載っているボーナスが月収の三カ月分(30割)なので、水島宏明の提示する数字の方が整合性があるが、だからといって九万円ではない、ともいえない。他にも水島宏明のいう保護基準が生活扶助、母子加算、多子加算、冬季加算、住宅扶助、教育扶助、期末一時扶助を合算した生活保護需要額で、これが二十万七千十三円、控除を入れると二十三万八千七百三円。久田恵が出すのが国が決めた最低生活費で十七万四千八百二十三円。
なんでここまで数字が食い違うものなのかね。
どちらの主張が正しいのか、わたしにはわからない。判断する材料は正直なところ全くない。
久田恵によれば、「取材者としてなにかに向きあうたびに実感することだが、とりわけ深く対立する問題に関しては、両者の言い分の中間あたりがもっとも事実に近いだろうと、まずは見当をつけてかかるしかないことが少なくない『ニッポン貧困最前線』文庫版P310」そうで、わたしもそのひそみに倣い、水島宏明と久田恵の言い分の中間辺りがもっとも事実に近いだろうと見当をつけてみよう……って、これ、典型的な歴史修正主義の手口じゃございませんこと?
「なにが歴史修正主義の問題なのか」についての私見 - Close To The Wall
久田恵は歴史修正主義者ではないし、書き方に問題はあれ、ちゃんと取材してはいるわけだけど、「両者の言い分の中間あたりがもっとも事実に近い」ことなんて滅多にないと思うけどなあ。取材するならなおさらそんな予断が無意味だと知っていそうですが。
『母さんが死んだ』文庫版のあとがきには水島宏明の久田恵への反論が載っており、年末の要否判定では特別控除が行われるのが普通で、久田恵の主張は特別控除や各種扶助を加えなかった札幌市の判定そのまま、ということらしい。
ここでの久田恵の書き方にちょっと注目してみる。

 テレビ報道や運動団体は、彼女が市営住宅に入居した時、福祉事務所が辞退届を強制して保護を切ったため、百合子が生活に困って借金を重ねるようになった、とさかんに言っていた。
 けれど、それはあまりに生活保護法の中味を知らない言い方だった。昭和五十七年一月、保護廃止当時の百合子の世帯の国で決められた最低生活費は月十七万四千八百二十円だった。
 一方、当時、病院の正職員になった百合子の収入の方は給与が月約九万円、冬の燃料手当が約十四万円、ボーナスが、給与の三ヶ月分で夏、冬各二十三万円ほどあった。
 それ以外に、月約四万五千円の児童扶養手当と月五千円の児童手当があった。子どもの教材費や給食費などが支給される就学援助も受けていた。減免措置で家賃が月二千九百四十円の低額になった。母子家庭等医療助成制度の適用も受けていた。さらに社会保険にも加入し、今後の昇給も見込まれていた。こういった全体の収入状況を考えれば、すでに百合子は自力で最低生活を維持できる状態に達していた。
 保護を廃止する時には、廃止した後の六カ月間の収入状態を計算して、保護の要否の判定をすることになっている。
 百合子の世帯は実質「五千四百円」ほどの不足となっていたが、保護廃止から十カ月後、冬季薪炭費として福祉事務所から七万六千九百十三円が一括支給されており、その頃には収入は最低生活費に達していた。
 そもそも月五千円のために、あれこれ生活指導を受けなければならない保護世帯でいるか、辞退して自由に暮らすか、支給される保護費が数千円になると、「扶助小額辞退」といって保護を辞退する人は少なくないのである。
『ニッポン貧困最前線』文庫版P146~147

これが久田恵が独自に取材して得たものなのか、札幌民政局社会部保護指導課長が「あたかもミステリー小説の謎を解くような心境でP145」綴っている思いなのかは判然としないが、久田恵の主張と受けとっても間違いはなさそうである。
ところで、『母さんが死んだ』では以下のような記事が紹介される。

 123号通知の出た翌昭和五十七年四月六日、地元紙である『北海タイムス』にこんな記事が載った。
「これぞ“真の福祉"全市一、白石の生活保護率ダウン」という大見出しで、「まず幸せを第一に指導 区福祉事務所、安易に申請受けず」と小見出しがついている。
 リード(全文)にはこう書いてある。
「昨年四月には千分比で三一・四と、市内平均の一九・八を大きく上回る全市一の高率を記録していた白石区生活保護率が、ことし一月には二九・八までダウンした。指数が二十九台に下がったのは昨年七月からだが、同区福祉事務所ではこの理由について『別居中の夫と正式に離婚したいが、母子家庭の生活保護費はいくらもらえるかと相談を受けた場合、申請受理では本当の親切とはいえない。夫なり親なりに身の振り方を相談してみなさいと指導した結果による。離婚の手助けをするような安易なやり方は、真の福祉とはいえないのではないか』と、今後もこの姿勢をとっていくことにしている。景気の落ち込みで、生活保護が増える見通しにある中で、福祉の名のもとにこのところ緩みがちだった生活保護をあるべき姿に軌道修正し、真の意味で、“血の通った福祉”を目指そうとするものとして注目される」
 続いて本文――
白石区は市内七区中で、伝統的に保護率の高いところ。菊水地区の老朽住宅街、青葉町、もみじ台等の公営住宅街を抱えているため、低家賃住宅が多い。こうした家の入居には所得制限があるから、どうしても保護率は高くならざるを得ない。……昨年五月の総理府の統計によると札幌市の勤労者世帯の一ヶ月の消費支出は二十二万七百一円。……一方、生活保護を受けている母子世帯の場合、同時点で経済的に支給されるものの年間平均月額が母子三人世帯で十五万六十四円。……この例は小四、小二の児童がいるケースで、このほか給食費、教材費は実費支給されるし、住宅扶助が三万四千九百円加わる。そのうえNHKの聴取費や電気代、ガス代の税分も免除されるから勤労世帯の生活水準と決して引けをとらない。
 従って、所得税の非課税最低限を上回る手取り収入があっても、一銭も税を納めずに済む。たとえば、男女標準四人、両親と小三、四歳二人の子供の世帯は住宅扶助を含め、一カ月十九万八千五百四十二円の収入、年収にすると二百三十八万二千五百四円だ。これに対し、勤労所得だと課税最低限は二百一万五千円。これを超えると税率が八%の所得税。“酷税”を払っている者が、働くことなく保護を受けている者より低い生活をするようにできているのが、生活保護の制度。
 こんなことだから、いったん生活保護を受けると、十年、二十年も受け続けるケースが出やすい。全市の数字をみると、昨年七月現在、生活保護世帯の一六・一%が十年以上。……
 この子が保育園に預けられるようになるまで、せめて小学校低学年の間まで……と保護を受けているうちに、働く意欲を失い、体の不調、傷病を訴えて保護を受け続けることになる。福祉関係者のひとりはこう話してくれた。『それだけでなく、子供の教育に好ましくない影響を与えかねない。子供は親の背中を見て成長するものだから……』と、深い懸念もつけ加えた。
 同区福祉事務所では、今後も最終的に本人が幸せになれるかどうかを、本人に考え直してもらって、その選択にゆだねる方式をとる考えだ。何億円何十億円になるかもしれないが、結果として節税にもつながる。世はあげて、財政再建の時代。この意味からも大いに注目されるところだ」
『母さんが死んだ』文庫版P224~226

論調が瓜二つじゃないですかね、これって。
この記事は、餓死事件が起きる数年前に、適正化を押し進めた厚生省のキャリア出身の甚野弘至白石区福祉事務所所長が、北海タイムスに依頼して書いてもらったものなのだという。そして、母親が昭和五十六年に生活保護の辞退をしたのは、母子寮から、白石区にある市営アパートに転居し、所管が中央区福祉事務所から甚野弘至が所長を務める白石区福祉事務所に移った途端にである。
基本的に、『母さんが死んだ』で水島宏明が問題視しているのは、厚生省が暴力団員の生活保護不正受給事件をきっかけに昭和五十六年に出した「生活保護の適正実施の推進について」という、国の適正化の象徴といっていい123号通知が福祉現場に及ぼした影響である。それは、「相談制度」によって申請受理を阻止する水際作戦と、要否判定では保護受給が継続されるにもかかわらず、辞退届の提出を強いるという、今日でもしばしば報道される生活保護行政の問題点だ(ひょっとして水島宏明がそういった報道の嚆矢だろうか?)。申請者や受給者は法律上当然に保護される権利を奪われているわけである。
久田恵は、扶養義務や資産調査など、法律の厳格な適用がなされると本来保護されるべき受給者の利益が損なわれる場合が少なくない、とする。そこでケースワーカーにはある程度自由な裁量が与えられており、それによって複雑な現場に於いて、柔軟な対応が出来るという。それはそれで尤もな意見ではある。そこで久田恵の本ではパターナリスティックなケースワーカーの姿が「熱血」として肯定的に描き出されるのだが、その「裁量」が、123号通知によって場合によっては「相談制度」となり、正式の書式がない筈の「辞退届」の用紙をケースワーカーが持ち歩くに至る可能性はないのだろうか?
さて、マスコミから激しいバッシングを受けて疲弊していた枝元政肇をはじめとする職員たちは、取材に協力したこともあり、水島宏明が製作した「母さんが死んだ――生活保護の周辺」が自分たちを擁護する番組だと期待していたようだ。その期待が裏切られた枝元政肇の、いかにも胡散臭げなものとして見る番組への目付きがひどい。いちゃもんというか、揚げ足とりのような感想を交えつつ、「事実が歪められ、都合良く真実めかしてこんなふうに報道されていいはずがない『ニッポン貧困最前線』文庫版P170」と、番組そのものが捏造であるかのように主張する。久田恵の本ではデマとして切り捨てられるが、水島宏明も匂わせている札幌市当局の地元メディアにかけた圧力の効果が現れていなくて落胆でもしたのだろうか、と勘ぐりたくもなるが、こんな描写も久田恵の責任だと思うことにする。

 最後は餓死した百合子の次男の声が画面に流れて、視聴者の涙を誘った。
「かあさんは涙が嫌いだったったから僕は泣かなかった。かあさんは苦しみながら死んだ。嫌な気持だけ残して死んだ」
「ほんとうに、嫌な気持だけ残して……」
 枝元は思わず、そうつぶやきたくなった。
『ニッポン貧困最前線』文庫版P171~172

実際のインタビューの文字起こしは以下である。鍵括弧が遺児(当時小学六年生)の言葉。

(お母さんは、どんな人だったのかなあ?)
「お母さんてね、やさしくて……よかったよ。……(衰弱して)寝てたときも、お母さんのほうが声かけてくれて、ぼくたちをなぐさめてくれた……。寂しがるんじゃないよ、とかいってくれて……。だから、寂しくない」
(君は強いんだね……)
「みんな強いていってる……。泣きたかったけどね……母さん、泣くの嫌いだから泣かないようにしようと思って我慢してた……」
(母さん、泣くの嫌いだったのか?)
「泣く人って嫌いだった……。いつも、泣くんじゃないよってなぐさめてくれた……」
(我慢強い人だったんだね。お腹すいていたときも我慢してたんだろうね……)
「我慢したと思う……。苦しそうだった……」
(今でも、ご飯食べながら、そんなこと思い出すことがあるかい?)
「たまに思う。……他の国とかで、ご飯、食べられない人たちのこと思う……」
(お母さん、死ぬかもしれないって思ってなかったの?)
「はい……」
(餓死って聞いて、どう思った?)
「別に……」
(おとなたちに対して思うことはないかい?)
「母さんのまわりにいた人は、やさしくしてくれていたから、いうことはないヨ……」
(お通夜とかお葬式とか……、どんなこと思ってた?)
「やな気持ちとかたくさんあったけど……我慢してました……泣きたいのをこらえて、ちゃんとお葬式に来た人とか見送ってました」
(やな気持ちって?)
「お母さんが寝てて、苦しんでいるときの気持ちとか……。やな気持ちだけ残して、死んでいったのかなって……苦しみながら死んで行ったような気がする」
(何を我慢してたのかな……?)
「…………」
『母さんが死んだ』文庫版P132~133

本人でさえ上手く整理出来ていない複雑な心情から発した言葉を、薄っぺらく要約し(よくもここまで「嘘」っぽく出来るものだと感心する。枝元政肇の「真実めかしてこんなふうに報道されていいはずがない」という言葉と合わせるとこれがどれだけの効果があるかお分かり頂けるだろう)、行政の渦中の責任者のどうでもいい心情(行政官の彼にしてももっと複雑な感情を抱いていたに違いなかろうに)に重ねあわせるこの手つきは流石に反吐が出るといわざるを得ない。この本の全ての場所でこの類いの小説技法が同様の目的のために用いられているとは思わないが、本書の限界を示している箇所ではある。複雑な問題を、複雑なままに提示するというよりは、複雑な問題を単純に編集し、それを物語形式に乗せることで、「世の中って単純じゃないのよね」と単純に考えた気にさせるのである。
例えば、久田恵によって描写される枝元政肇は、札幌の福祉行政の現場を長く勤め上げた叩き上げの人物で、厚生省の123号通知にも粘り強く反対し、受給者のことを第一に考え、より良き福祉行政のことを真剣に考えているのだそうだ。それは事実なのだろう。第四部で紹介される、枝元政肇が久田恵に送った手紙からもそのことは窺える。
ではなぜ、そうした人物がいるにもかかわらず、このような事件が起きてしまうのか?

 一方枝元は、マスコミの取材に応じて、自分を特別な一部の良心的ワーカーという高みに位置づけて、「事件の責任は厚生省や市当局の現場への締め付けにある」などと自己防衛的な発言にいきどおっていた。なぜ自分たちの仲間を守らないのか。なにが起こるか分からないそういう現場に同じく身を置いている自分たちが、仲間を守らなくてどうするのだ。
『ニッポン貧困最前線』文庫版P189

なにやら正論のように紹介される枝元政肇この言葉にしても、ただのお役人の組織防衛論でしかない気がするのはわたしだけだろうか。「事件の責任は厚生省や市当局の現場への締め付けにある」と告発するワーカーを自己防衛的といい、仲間を守れ、と憤っているのだが、この文脈では、「仲間」とは同じ現場のワーカーではなく厚生省や市当局であるとしか読み取れない。それに、当時の枝元政肇は札幌市の民生局社会部保護指導課の課長である。保護指導課長という、各福祉事務所の「お目付役」がこういう発言をしているのに、何の疑問もなく久田恵は、やはり無批判に自分の意見だか行政官の意見だかわからないままに垂れ流す。
久田先生は本当に、どちらにおいでなのですか。両者の言い分の中間あたり? いやいやご冗談を。

 どう見ても、「福祉事務所が殺した」と執拗に言い続け、しかもころころとその場、その場でいうことが変わる中野照子の証言に、一片の疑いも持たずに報道し続けるマスコミの姿勢には納得がいかなかった。
『ニッポン貧困最前線』文庫版P145

「一片の疑いも持たずに報道し続けるマスコミ」というものがあったのかもしれないが、水島宏明の本では元雇い主の喫茶店オーナーの証言の矛盾点に対する疑問や、遺児の為のチャリティーの明るさに対する軽い違和感などが表明されており、少なくともこの批判は当たらない。久田恵はこの元雇い主の喫茶店オーナーの醜聞を書き立て、この人物がいかに信用出来ないかをもって、一点突破式で水島宏明の粉砕を試みているのだが(これもなんか歴史修正主義風味であるなあ)、別に水島宏明は元雇い主の喫茶店オーナーの証言のみによって事件を再構成しているわけではないのである。
むしろ、行政官の証言に全面的に依拠し、それを悲劇のヒーロー風の小説形式に仕立て上げ、一片の疑いも持たずにいるのは久田恵ではないのか。第二部では、そのあまりの徹底振りに、札幌市当局のこの事件に対する姿勢が図らずも浮かび上がって来ている、とさえいいたくなる。
とはいえ、第四部やあとがきで書かれている久田恵の執筆動機などを読むと、共感出来ることも書いてあるし、むしろ同意する点こそ多い。

 こんなふうに保護行政現場で起きた事件をたどっていくと、福祉事務所を加害者として断罪したり、ワーカーの「思いやりや優しさの欠如」といった倫理的な視点からどんなに批判をしても、解決できない複雑な問題がからみあっている様が、その背景から次々と浮かび上がってくる。
 むしろ多くの場合は、受給者との関係をどう作っていくか、というもっぱらケースワーク技術の問題であったり、その時代時代の人々の価値観と保護法の運用のルールとが折り合わずに起きたトラブルが、ついには悲劇的な事件にまで至ってしまったという事例が多く、複雑な心理や感情を持ったさまざまな人間を相手にする仕事の難しさを物語っている。
 こういった現場の複雑混沌とした状況の方は語られないまま、福祉現場の事件が福祉政策を告発する運動的な立場やイデオロギーによる戦略的な視線で、より偏ってより誇張して描かれたものが、マスコミを通じて広められることが多く、あたかも福祉事務所が恐ろしい場所であったり、ワーカーが非人間的であるかのようなイメージが作られがちだった。
 そんなこともあって、本書では、今まで書かれることのなかった福祉事務所のワーカーに照準を合わせて、その立場からの視線と体験を通して、戦後の保護行政を描こと試みてきた。しかし、そのことで、日本の貧困層の権利拡大のために闘ってきた人々の努力を、過小評価するつもりはない。
『ニッポン貧困最前線』文庫版P318~319

水島宏明の『母さんが死んだ』でも、結局「思いやりや優しさ」が大事だ、と結論づけていて、どうも微温的で納得がいかないのは事実である。
しかし、これらの問題意識は、その糞みたいな書き方(ええ、もうはっきりいいます。糞です)のせいで、「複雑な心理や感情を持ったさまざまな人間を相手にする仕事の難しさ」も「現場の複雑混沌とした状況」も、お仕事系漫画以上のものは描けていない。久田恵の描く福祉の現場ではヒラから上つ方まで、表面上はシニカルであったりぶっきらぼうであったり露悪的であっても、心の底では理想を抱く熱血漢である。そうしたひとが組織の中で埋没してしまう陰翳すらない。そりゃあんまりだよ。
だが、『ニッポン貧困最前線』の文庫版解説によれば、この糞みたいな書き方こそが本作には相応しかったものであるらしい(執筆者は特に名は秘すが関川夏央というひとである)。

「正義」がわがもの顔に横行しがちであったこの種の分野での仕事では彼女は当初感じたとまどいをなかなか整理できず、だからこそ長い歳月を完成までに必要としたわけだが、この作品以降は取材用のテープレコーダーを捨て、「社会派」たることを断念したようである。つまり「正義」は相対化されざるを得ず、端的にいえば、なにごとも「いちがいにはいえない」という言葉につきる複雑な世界像と決定的な対面を果たしたということだろう。
『ニッポン貧困最前線』文庫版P333

「取材用のテープレコーダーを捨て」た結果が陳腐な物語化なのだろう。「端的にいえば、なにごとも「いちがいにはいえない」という言葉につきる複雑な世界像」のなんと単純なことか。
関川夏央はこんなことも書いている。

 思えば戦後とはマスコミが猛威をふるった時代であった。一九七四年以降、つまり第一次オイルショック後の低成長期には「マスコミ的正義」は猖獗をきわめたとさえいえた。「公」の責任のみを云々する「告発」は楽で安全な方法であるが、それ自体で完結しがちであり、かつ自分だけは埒外に置きたがる。そして、革新的であることを標榜する大メディアほど易きについた。
『ニッポン貧困最前線』文庫版P330~331

「「公」の責任のみを云々する「告発」は楽で安全な方法」だったという時代がかつてあったとして(まじで?)、「それ自体で完結しがちであり、かつ自分だけは埒外に置きたが」っているのは『ニッポン貧困最前線』も、関川夏央のこの解説も例外ではないと思うのだが。

佐藤亜紀『メッテルニヒ氏の仕事』第一部

――メッテルニヒは始終嘘を吐くが、滅多に人を騙さない。私は滅多に嘘は吐かないが、人は騙す。
佐藤亜紀陽気な黙示録ちくま文庫版P305

繊細極まりない語り口の亡命貴族が語り手の『荒地』を雑誌掲載時に読み終わった時、ああ、こういう理性的で常に正気な人物は政治の世界には向かないし、きっとこの後も政治とは無縁であるか、或は否応なしに政治に巻き込まれて断頭台に送られる羽目になるのだろうな、と陰鬱な気持ちになったものだった。のちにこの作品が『激しく、速やかな死』に収録され、巻末の解題でその繊細極まりない語り口の亡命貴族がタレイランだと知り(ごめんなさい鈍いんです)、作者の途轍もない技巧に声を出して唸った。成る程、この繊細な亡命貴族は紛れもなく後年のあの怪物的な政治家タレイランに違いない。
冒頭の言葉はそのタレイランのものなのだが、『荒地』という作品は、「滅多に嘘は吐かないが、人は騙す」タレイランの真髄というものが余す所なく描かれた作品なのではないか、と考えてみる。『荒地』の語り手は嘘は吐いてはいないが、読み手は騙しているのではないか。タレイランメッテルニヒを相手に披露した説得術(『メッテルニヒ氏の仕事』第一部の終盤でそれは見ることができる)と現れ方こそ違うが、同じメカニズムがあるのではないか……。
とすれば、『メッテルニヒ氏の仕事』では、「始終嘘を吐くが、滅多に人を騙さない」メッテルニヒの姿が描かれるのだろうか。
メッテルニヒ氏の仕事場であるヨーロッパを大陸ではなく半島というスケールで描写する冒頭から、この作品の独特の視点が提示されている。なんとなくフェルナン・ブローデルの『地中海』を連想した。

 広大なユーラシア大陸の西の端に、概ね三角形をした半島が突き出している。底辺は白海から黒海まで約二千キロ、差し渡しはモスクワからリスボンまでで約四千キロだ。より感覚的にこの距離を捉えたいなら、こうなるだろう――春分の日グリニッジ標準時の午前三時三十一分にモスクワの東の地平線上に姿を現した太陽は、四時三十七分にワルシャワ、五時八分にベルリン、五時五十二分にパリで上り、六時三十九分、リスボンの町にその日の最初の光を投げ掛ける。モスクワの地平線に現れた太陽が地球のゆっくりした自転によって地表を東から西へと舐め、リスボンの地平線に到達するまで、約三時間掛かる訳だ。
P10~11

ある「ゲームの規則」が共有されている一地方、としてヨーロッパを巨視的に描く一方で、外交官としてのメッテルニヒを取り巻く状況は限定的に記述される。ナポレオン時代の「華々しい」多くの会戦は、アウステルリッツもイエナもアウエルシュタットもフリートラントも後景に退き、飽くまで新たな状況を作り出す要因に過ぎない。大きな状況を前にした場合の選択肢の少なさや、状況の変化によって齎される新たな選択肢を材料に、まだ若いメッテルニヒは翻弄されながら、懸命に修正を試みる。特にアウステルリッツの前後は紛争を前にした際の外交官の仕事が何なのか、がよくわかる。
また、『荒地』に於けるタレイランがそうであったように、メッテルニヒも後年流布するウィーンの洗練された政治家といった通俗的なイメージを裏切る指摘がなされている。「欲しいものを得る為に自分のものでもないものを他人にくれてやり、奪われた者には自分のものでもないものを与えて代償にP30」するウィーンの流儀は、若いメッテルニヒに外交に嫌悪感を抱かせることになる。実は、メッテルニヒの考えには、土着的、領主的な発想が根底に染み付いているのだ。
佐藤亜紀は、二十世紀の文学ベストにヘンリー・キッシンジャーの著作を挙げ、「別に歴史専攻でもないキッシンジャーがあえてウィーン会議を扱ったのは何故か、政治とは何を目指すべきものだと彼は考え、そこに至るのに何を断念したのか」と問題提起をしている。

大蟻食の生活と意見(18)

そのウィーン会議の主役を題材にした『メッテルニヒ氏の仕事』も、恐らくは同じ問題意識で書かれたものだろう、と想像出来る。完結までにキッシンジャーの本は読んでおきたいなあ。
しかし、佐藤亜紀のいくつかの作品にはナポレオンが登場するのだが、その描かれ方には本当にぶれがない。珍獣的というか。ああ、これが「極めて有能なただのおっさん『陽気な黙示録ちくま文庫版P54」か。

文学界 2011年 11月号 [雑誌]

文学界 2011年 11月号 [雑誌]

激しく、速やかな死

激しく、速やかな死

笙野頼子『幽界森娘異聞』

森娘。森ガールのことではない。
森茉莉の書き残した小説エッセイ書簡を元に、森娘というひとりの人物を描き出す。
偉い偉い明治の文豪を父に持つ森娘だが、森茉莉のことではない。森娘が森茉莉そのものではないことは、作中で繰り返し語り手が主張することなのだが、冒頭の、故人の姿が雑司が谷に現れることが全てを予告している。晩年の森茉莉雑司が谷には縁もゆかりもなく、強いていえば若い頃に目白に住んでいたことがあるものの、それも雑司が谷からはほど遠く、年代も合わない。にもかかわらずなぜ現れたのかといえば、晩年の森茉莉が出版上のルール違反を犯した「ロマンブックス事件」に登場するK社を、語り手が雑司が谷にある講談社と勝手に決め込んだためなのだ。
このように、本作では幾重にもフィクションとしての仕掛けが施されている。評伝ではなく「異聞」なのもそのためだ。だが、冒頭で故人をまるで実在するかのように生き生きと描き出していることからもわかるように、それは決して正確さを追い求めることを放棄した逃げではない。それどころか、ふんだんに鏤められる森茉莉の文章と、語り手がそこから導き出す森娘という存在こそが、なによりも作家としての森茉莉の本質を突いているのだと、読み進めていくうちに思えて来る。なんとなれば「作家は死んだ時その本の中に転生するP30」のである。
語り手は森娘を描き出す上で『贅沢貧乏』を最重要視する。

 もしも「贅沢貧乏」を読んでいなかったら、たとえ文章それ自体がどんなに好きでも「おっとこりゃいかん」でパスした作家。しかしやはりあの文庫のあの部屋の中であの様子の森娘が、あのベッドの上に座って暗い中に、自分で買った洋盃(コップ)「二つ」となーんてこともない硝子瓶と、庇護者達から召し上げてしまった美術品硝子とを一緒くたに並べていて、硝子と褪せた布と虫の死骸とが埃をしずめている間で語る以上は――。

 ――マリアの花瓶は六角形の砂糖壷、ヴェルモットかコカコラの空罎、又は英国製の柚子(ライム)ジャムの罎、なぞであって、硝子製といえるのは、宮野ゆり子が甍平四郎に贈り、平四郎がそれをまたマリアに呉れた(中略)高杯(タンブラア)だけである。

 既に、――知っている人だった知っている部屋だった。だから肉声のその世界が「現実」になるのを待つ気持ちになった。そういう森娘が好みの漢字と自家製の句読点と、新人作家が絶対させて貰えない好みの字遣い全部使って、語ってくれるからちょっと赤面な世界だって向き合ってしまった。聞くしかなかったのだ。彼女が本気の本気で語るならば。
P27~28

砂を噛むような現実を絢爛豪華に変えて行く言葉の魔術師としての森娘の視点は、冒頭で森娘の装いが語り手によって描写される際にも(ではなく本当は〜P7)という形で、副音声として語り手の描写に、(語りの手の声を借りてであるが)絡みついていく。これは、森娘が雑司が谷に現れたことと合わせて、本作の冒頭で行われる重要な主題の提示であるように思う。
この、森娘の独自の美意識で選りすぐられた言葉で虚構の中に現実を構築していく描写は、表面上の違いはあれ、笙野頼子と非常に共通するものがあると思う。個人的には、笙野頼子の恐らく最も「耽美的」な小説のひとつである『硝子生命論』の冒頭を強く連想した。

 例えば上体は少年で下半身は恐竜の硝子死体。ムンクの裸体の腹のように、ごく微かな緑色を帯びて彩色され、ひとつの感情を象徴した影のような、人体型に切られた板状の硝子、手足の骨が厚い肉の下に透けて見えて、ぼんやりと震えている肉塊の硝子、花の種子程の大きさで、手の上に載る、五つ子の少年達の覚めない眠りを表した硝子。首が少年で体が文鳥の手乗り硝子。素材としての硝子などではなく、それは観念の硝子だった。
『硝子生命論』P8

 シャツを通して逆三角形の上体の肩が、骨の線の柔らかさを想像させて盛り上がっていた。手首と二の腕にやや不自然な程に乗った厚い滑らかな肉が、手の異様な長さや頭の小ささと呼応してそれぞれの不自然さを結局カバーしていた。アンバランスに大きく、関節部分が細長く伸びた、少し滑稽にも思える程長い手指は、クレーンのような印象なのに華奢でもある。シャツの胸から少しでた鎖骨は本物の人体と微妙にカーブが異なる。眉間に埋め込まれた小さい灰色のアンモナイトは、部分を拡大した写真でしかその渦巻きが見えず、全身像ではそこから壊れ始めている傷口のようにしか見えなかった。
『硝子生命論』P15

注文者の厳しい審美眼に晒されながら作られる、美少年を模した死体人形、といわれてもこの描写からは通俗的な美少年人形を思い浮かべることは困難だろう。素材からしてどんなものなのかわからない。それでもやはり、間違いなくこの世ならぬ「美しい」人形であるということはわかるのだ。
通俗的な美とは全く違う、美という概念そのものを根本から疑いつつ、それでもなおかつ美しいものを描き出すようなこの描写は、森娘の「「宝石曼荼羅」の金太郎飴P80」とは全く方向性が逆ながらも、「現実」そのものを作り変えていく手つきに共通するものがあるのではないかと思う。
笙野頼子は、自身の描写について、文春文庫版の『タイムスリップ・コンビナート』の巻末対談で、ラリー・マキャフリイにこう答えている。

笙野 工業地帯というのは、どこでもそんなに変わらないのかもしれませんね。
 私も日本の街や商店街を描くとき、気づかぬうちにもともとの風景を歪めてしまっているんです。目の前の景色と自分の思考が刺激しあって反応するとき、ごく自然なフィルターのかかった風景を見るんでしょうね。
マキャフリイ 先日、慶應大学で講演したんだけど、そこでこんな話をした。十九世紀にリアリズム小説が出て来たとき、作家の役割は、文学の中で見慣れないものを見慣れたものに変えることにあったが、一方で、ポストモダン作家のもっとも重要な役割は、見慣れたものを見慣れないものにすることへ移っている。というのも、いまではどんな珍しいものでも、当たり前のように受け入れられてしまうからね。それだけにきみが、見慣れたものを異化するやり方はとても大切だと思う。
笙野 自分ではそれを「もう一つの世界」とか「もう一つの現実」とか呼んでいますけれど。
P168~169

「見慣れたものを見慣れないものにする」二人の鬼才の、それぞれが作り出す「もう一つの世界」「もう一つの現実」が交差する……それが『幽界森娘異聞』の最も目に付く仕掛けではないかと思う。
文庫版解説で佐藤亜紀は、本作の特徴を三つ挙げている。

まず他者の声の積極的な導入によってポリフォニックな言語表現が可能になる。次に、ポリフォニックな語りの結果、複数の視点から眺められて浮かび上がる単一の世界の複数の様態が意識され、そうして描かれる世界は、単一視点によって描き出されるものよりもはるかに複雑で矛盾に満ちた姿を露にする。フロイティズムにせよフェミニズムにせよ何にせよ、単純な「イズム」の絵解きとして作品を捉えたつもりの読解は、この瞬間に無効になるだろう。最後に、この言語表現上の変容は、視点の変容を経て、モノローグでは考えられなかった、自由で堅牢な造形性を実現する。
『幽界森娘異聞』文庫版解説P373

他者の声の積極的な導入、とは評伝形式を借りた森茉莉を初めとする多くの文章の引用であるが、評伝形式と決定的に違うのは、引用の出典が記されていないことだ。作品内に直接に埋め込まれた「他者の声」は、語り手の主張の補強に奉仕するためというよりは、語り手の語りそのものを引き出すための装置として見事に機能する。谷崎潤一郎栗本薫の作品を、森娘とのテーマの共通性や影響関係から論じる章でもそれは変わらない。『痴人の愛』論は後の「おんたこ」に繋がるのだろうし、栗本薫について批判的に言及した章の前後は非常に優れたやおい論になっていて、いくら論じても論じ尽くせないくらいの問題が数多く提起されているのだが、評伝を擬態することでより多くの文章を作品の内に取り入れることが可能となったことで立ち現れる「自由で堅牢な造形性」こそが、この作品の到達点であるといっていい。
以上のように、この上ない複雑な手続きを踏まえた、徹底したフィクションによるフィクションへの言及であるので、森茉莉の伝記的な真実に突き当たることを目的とはしていない。語り手は最後まで「評伝もどきを貫きたかったP210」と念押しする。だが、フィクションなのだから結局真実は薮の中、といった陳腐な言葉で締めくくれるような作品ではない。迷い込んだ薮の中で見つける宝石箱、この宝石箱には本物の宝石が入っているわけではない、のだが、それを本物を遥かに凌ぐ宝石にしてしまうのが森娘だった筈だ。そして、この作品の語り手も。
その薮の中で突如として現れる幻想的な風景を、連載の最終回となる第八章で見ることになる。
長年暮らしていた東京を去ることになる語り手は、最後に森娘の足跡を辿ることにする。森娘行きつけの店だった「スコット」は、電話帳を調べて電話してくれたひとから地図を貰い、伝聞形式ながら店の主人と思しき「年とった声の女の人P210」から定休日まで聞いておきながら、突如見舞われた大雨の中で、なぜかどこにも見当たらない。そして、行き着いた蕎麦屋で森娘の話と「スコット」はもうない、ということを知るのだ。
どこからが虚構で、どこまでが事実なのかが全く判然としないこの幻想的な章は、冒頭で森娘の姿を無関係な土地に登場させた、この作品を締めくくるのにこれ以上ない程相応しい。語り手は森娘がかつて住んでいた部屋を目指しておきながら、意図して逆方向に歩いていたと明かし、「結局本当の森住所は本の中P220」だったと振り返るのだから。

幽界森娘異聞

幽界森娘異聞

幽界森娘異聞 (講談社文庫)

幽界森娘異聞 (講談社文庫)

キップ・ハンラハン『Vertical's Currency』

『COUP DE TETE』、『Desire Develops an Edge』に続くキップ・ハンラハンのソロ名義作品の第三弾。
このアルバムを制作するに先立って、キップ・ハンラハンは「ソウル・バラードをたっぷりぶち込んで俺たちなりの“スモーキー・ロビンソン”風アルバムにしてやる」と心に決めていたという。
その言葉通り、一曲目から甘美なバラードが聴ける。全二作までのアルバムからの変貌ぶりにまず驚く。

だが注意深く聴くと、複雑なリズムや多彩なパーカッションは相変わらずだ。

キップ・ハンラハンと同じように、ベースのスティーヴ・スワロウも「ベースとなるリズム・セクションを流動的なハンド・ドラムから親しみやすい(ポップスの枠にはまりやすい)トラップ・ドラムに移行して俺たちなりの“売れ線”アルバムにしてやる」と意気込んでいたという。「俺たちなり」という言葉の通り、これはキップ・ハンラハンも共有していた意識だろう。このアルバムに『Vertical's Currency』、直訳すれば「垂直的通貨」、東琢磨によれば「まっすぐ落ちてくるカネ」と意訳されるタイトルを付けるのだから。東琢磨によるライナーにも、ハンラハンのそうした性格が伺われる。

キップがよく使うナイスな表現に「マネー・サウンド」という言葉がある。「カネの音がするサウンド」、つまり音楽ビジネス的に作られた音楽ということだ。

キップ・ハンラハンを今よりずっと断片的な情報でしか知らなかった頃には、キップ・ハンラハンは職人気質の、社会や政治から距離を置いたタイプの音楽家だと勝手に思っていた。緻密に作り込まれた音の印象は勿論、ピアソラをブームとして消費したひとたちの姿もそこに重なっていた。
だが実際には、敬意を表しつつもジョン・ゾーンを「中産階級の音楽」と呼ぶように、強烈な無産階級としての意識がキップ・ハンラハンのミュージシャンとしての人格を形作っている。それは別に彼がマルクス主義者であるとかいうわけではなくて(彼の具体的な思想信条に詳しいわけではないが多分違う)、商業主義への生理的なレベルでの激しい嫌悪感となって現れている。

事実、このアルバムの制作当時、この音楽が、体制側の音楽への重要な一撃となるんじゃないかという雰囲気があった。体制側の音楽というのは産業(金、流通、音楽企業の力とか...)の中にしかありえないなんてことはもちろんわかっていたけれど、なにがしかの一撃をこの音楽がもたらしたとしても一瞬で金のサウンド(音楽)へと必然的に飲み込まれ、編入されしまうのさ(ー事実、その影響は一撃だった。この音楽が制作に関わった連中全員にまたたくまに影響したこと、さらにポップミュージックの中枢にも浸透したことを調べてみてよ)。
誰もが知ってるようにビル・ラズウェルがこの音楽をハービー・ハンコックの『ロック・イット』という金まみれのサウンドに変形するのにそんなに時間はかからなかった。27年たって今、やっと全曲がラブソングだと気がついた。
http://www.ewe.co.jp/ewe_magazine.php

『COUP DE TETE』のライナーに収録されているインタヴューでも、再三このことは述べられている。

そう、権力からの孤立感はあるよ。権力構造からは全く孤立しているもの。巧妙に作られたポップ、マドンナなんかを聞けば、僕達には全く無縁の、手の届かない、お金の推移、お金の流れが聞こえる。実に美しく、実にたくさんの金がキラキラ光りながら流れているのが見える。映画の「タイタニック」を見てるのと同じだ。僕らはスクリーンにただたくさんのお金を見てる。ああいう金や権力は僕達には逆立ちしても入ってこない。ただ権力が目の前を行き過ぎるのを見とれているだけで。「あぁ、美しい」って。

これはまるで『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』に出てくる「お金の川」の話だ。

「おそらく、連中が<お金の川>のたぐいのたわけたものがあるわけはないと目ざめて、せっせと働けば、それほどみじめな暮らしをせずにすむだろう」
「もし<お金の川>がないとすれば、どうしてぼくが今日一日で一万ドルもの金を儲けられます? それも、居眠りしたり、体をポリポリ掻いたり、ときどき電話に出たりするだけで?」
アメリカ人は、まだ自力で財産を築くことが可能なんだ」
「ええ――ただしそれは、その人間がまだ若いうちに、誰かが<お金の川>というもののあることを教えてやったとしての話ですよ。それと、そこにはなんの公平さもないこと、努力や実績主義や正直さなんていうたわごとはすべからく忘れて、ひたすら川のそばへ近づいたほうがいい、ということをね。ぼくならこう教えるでしょう。「金持ちと権力者のいるところへ行って、連中のやりかたを学びたまえ。連中をおだてる手もあるし、おどかす手もある。とにかく、徹底的にうれしがらせるか、徹底的にこわがらせることだ。そのうち、ある闇夜に、連中は自分の唇に指をあて、すこしの物音も立てるなと、きみに言いきかせるだろう。そして、闇夜の中できみの手を引いて、これまでに知られた最も幅広く深い富の川へ連れてゆくだろう。きみはその川岸に割当てられた自分の場所を示され、専用のバケツを渡されるだろう。あとは好きなだけガブ飲みすればいい。ただ、あまり大きな音を立てないように。でないと、貧乏人に聞きつけられるおそれがある」」
カート・ヴォネガット『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』ハヤカワ文庫版P139~140

VERTICAL’S CURRENCY

VERTICAL’S CURRENCY

笙野頼子『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』

その時、作者は、とここまでで二回書いた。第一部と第二部の終わりでである。

というエピグラフ風の書き出しから、三部作の最終巻は幕を開ける。
その第一部と第二部の終わりにはこのように記されている。

 その時笙野頼子は、じゃなくって作者は。

 自分の言葉の暗さにあてられて鬱になっていた。
『だいにっほん、おんたこめいわく史』P199

 その時、作者は——。

 火星人がもしいたら怒るだろうなあ、という恐怖が極限まで達し、背後に幽霊がいるような気さえしてきたので、背中に苔が生えるようなすさまじい気分で、トイレを我慢するしかなかったのだった。
『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』P199

第三部では、この「その時、作者は」が終わりにではなく冒頭に置かれ、本作に於ける主要な構成部分となっている。これまでの幕間的な独白が、最終巻でこの語りを導き出すための布石だったのかと思うと空恐ろしさすら感じる。何せ、その語りの主は天川弁財天と神仏習合した金毘羅なのだ。
天川弁財天とは異形の弁天で、複数の蛇の頭を持つものという。

http://www.geocities.jp/noharakamemushi/Koshaji/Nanki/Tenkawa.html

作者の頭には冒頭の時点で三匹の蛇が生えており、それらはナノレンジャーとも名の連蛇とも命名された、バトルスーツに身を包むレンジャー物の主人公であるとされる。桃木跳蛇、沢野千本、八百木千本がその三匹の蛇、レンジャーである。このナノレンジャーがみたこたち(とついでに笙野頼子)を救うために、作者の作り出したにっほんとウラミズモの世界に送り込まれるのである。
なぜ、笙野頼子の過去作品の登場人物が、ここでレンジャーとなって、みたこたちの救出に向かうのか。
第二章で、マルクス・エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』によって、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』が批判の過程で矮小化される手つきが、「おんたこ」そのものであり、「おんたこ」の起源はここにあるという、重要な指摘がなされる。

マルクスを全部読んだ専門家ならばそんな事はないと言うかもしれない。しかし四半世紀文章を書いてきてずっと苦しんできた事の原因がこの本一冊の中にあった。ずっと書いてこなかったらこんな「偉い人」の本にここまで文学的な読みは出来なかっただろう。
P81

この指摘の基礎となるものが、「四半世紀文章を」「ずっと書いて」来たことであり、桃木跳蛇、沢野千本、八百木千本を主人公とする作品群だろう。「おんたこ」が跋扈する世に送り込まれるのは、その「四半世紀」の歴史を背負った人物たちでなければ駄目だったのだ。
それともうひとつ、これまでの笙野頼子の作品と、近作を接続する試みでもあるのではないだろうか。
『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』「ひとりで国家と戦う君だけに愛を」によれば、笙野読者には「笙野の言葉だけを好き」という、「言葉だけ派」が存在するそうだ。彼らは、近年の笙野作品の闘争的な面に懐疑的であるという。
ところで、笙野作品とは、日常生活における不条理から差別的な社会構造を見抜くのがその特色のひとつではなかっただろうか。

 その上、国家の輪郭が見えにくい時代、このネオリベと批判分析する時に役に立つのは実は身の回りの困った事や小さな事なのだ。というか逆に言えば文学の身辺雑記から世界経済が語り起こせるくらい「分かりにくい」世の中になっているのである。身の回りのひっかかる事を笙野はずっと書いてきた。いつか本人も気がつかぬままにそれが大きいところに抜けたのである。
『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』「ひとりで国家と戦う君だけに愛を」P208

個人的には、近年の笙野頼子の闘争的な部分は『レストレス・ドリーム』の延長線上にあると思うし、『レストレス・ドリーム』の時点で、すでに「大きいところに抜け」ていたと感じている。桃木跳蛇や沢野千本がそれぞれの歴史を背負いながらも違和感なく「だいにっほん」の世界で活躍しているのは、これがただのカメオ出演的なファンサービスではなく(ファンとしては当然、おっ、おっ、とはいいいましたけどネ)、作者の執筆の歴史が導き出した必然なのだと思う。
さて、「だいにっほん」三部作は第一部から語りの文学としての側面が色濃く現れていたが、本作でもその傾向は顕著だ。というか、この作品に至って、「語り」が主役になってしまっていると思う。
それが「金毘羅としての視点、権現としての語り」である。神仏習合したハイブリッドな語り、金毘羅視点の語り。
「宗教文学の神視点と私小説の俺視点を微妙にずらしながら両方使う話法P19」というそれは、金毘羅の語りがメインの第一章と第二章では告白や回想という形式を駆使し(第一章の時点で、第三章以降の事柄も回想してしまうのである。第一部と第二部で「その時、作者は」と書かれるのが終局部であるように、第三部でも、「その時、作者は」は全てが終わった時点から書かれている)、縦横無尽にあらゆることを語り倒すのだが、「みたこ」たちに「みたこ天国」を用意して、作中から「みたこ」たちを回収するのは「神視点」から行われる行為だろうし、第三章以降の、ナノレンジャーがにっほんに送り込まれる顛末に於いて、「金毘羅としての視点、権現としての語り」の「おんたこ」世界での実践を見ることが出来るかもしれない。20代の桃木跳蛇と、30代の沢野千本との緊張感のある対話なども、「フォイエルバッハ的自己内他者をずらずら登場させて、密室的ではない内面ワールドを語るP19」金毘羅としての視点が達成し得た成果だと思う。
そして、金毘羅としての語りと相似形を描くのではないかと思うものがある。第四章で見られる、いぶきの火星人落語である。
『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』で、いぶきは自らを殺害される瞬間の記憶を失ったまま、語ることへの困難さを抱えていたのだが、ついにその記憶が蘇り語られる。それも祭りの日に自らの記憶に引き込まれ、生き直してしまうという形で、なおかつ、火星人落語の究極芸、「最高峰取って食う芸」(習合して優位性を奪われることを「取って喰われるP16」と表現していることと関係があるだろうか?)によって、語られるのである。

 どこかかから聞こえているはずの自分の、いぶきの口調が変わった。というよりその声音になった時いぶきは「神」になっていた。自分を殺した男の口まねをして、いぶきは淡々としているのだ。それでもその男ににているのだ。これこそは父師匠さえも生涯に何回かしか演ずる事がなかった、「自分をひどい目に遭わせた人間の真似をしながら、淡々と語って人を笑わせる」という火星人落語の究極芸だった。「最高峰取って食う芸」である。
P164

現在進行形で生き直す視点と、淡々と語る言葉の交差する中で、いぶきは殺されてしまう。
「神」になっていた、とは神の視点を手にしているということだろうか。この「最高峰取って食う芸」に、金毘羅としての語りの一形態があるのかもしれない。
ところで、雑誌「インパクション」で、『金毘羅』に対し、なにも金毘羅でなくともウルトラマンでもいいのではないか、という批判がなされたという。

 こうなのだ、なる程! と私は思った。つまりこの批判者も宗教や歴史から隔てられているのである。金毘羅は信仰だ。歴史的過程をその作品の中で露にしている。しかしウルトラマンは顔等、縄文遮光器土偶にも仏像にも見えなくないけれど、その土俗的歴史性、由来をまったく隠されている。
P22

「何よりも、ひとりの人間をウルトラマンに例えるという事はひとりの人間からその歴史と風土を奪う事なのだP21」と、金毘羅は説く。
一方、火星人も同じく歴史を奪われた存在だ、とおんたこは嘯く。

 そうそう火星人とは何かを今教えよう。それはただ歴史を奪われたものだということだよ。火星人神話なんかない。君はこれでだいにっほん史の中に戻って来たんだよ。こうして正しい歴史に君は回帰した。
P167

第二部の終わりに記された、「火星人がもしいたら怒るだろうなあ、という恐怖が極限まで達」っすることとは、ある集団を歴史を奪われたものとして描いてしまったことに対する、歴史と風土を奪われることの痛みを知るからこそ生まれた恐怖心でもあったのだろうか。
歴史を奪われた存在を描くことが、誰かの歴史を奪うことをそのまま意味はしない。例えば、『水晶内制度』に於いて、ウラミズモは女尊男卑の国として、新たな差別の構造、笙野頼子流にいえば「見えない存在が見えるようになる」代わりに、新たな「見えない存在」を作り出しているが、作品としてそのことが肯定されているのかというと、全く違うだろう。語り手は様々な制約の元で十全に見えない、語れない中で、見ようとし、語ろうとする。そこから生まれる凄まじい葛藤の末の「祖国万歳」なのである。ある事象が小説内に現れたとして、それがどういう意味を作品中で持つのか、慎重に考えてみる必要がある。
そもそもにっほんは、

——ないー、ないー、れきしてき、しゃかいてき、しょかんけいのー、まえにはー、いのちなどないー、
P142

という言説が罷り通る地獄なのだ。
「おんたこ」にとって、だいにっほん史以外の歴史はただ歴史を奪われたもの、とてつもなく軽いもの、正しい歴史に回帰するべきもの、なのである。歴史的、社会的、諸関係の前には、奪われた歴史さえないのだ。
こうした、究極的に「宗教や歴史から隔てられている」状態に置かれているのが、火星人なのである。そもそも、近代以降に生きる我々も、大なり小なり「宗教や歴史から隔てられ」「歴史と風土を奪」われている存在ではないか。
そこへ、いぶきの力強い言葉が突き刺さる。

 ——火星人とは、歴史を奪われた人のことだと、おんたこは言いました。だから火星人などいない。火星人は地球人と何ら差はないのだと。なぜなら地球人の中にこそ火星から来たものがいるのだからと。
 大きく言えば、地球の歴史は火星の歴史でもあるという事でした。そしてうちどもにはもともと地球人であったものもいるそうです。そう言えばそもそも火星になんて誰も行った事がない。でもそれでもうちどもは火星人なのだ。
 ひとつの社会の中で暮らしている人間からそこでかつて暮らしていたという痕跡を奪い、そうして作られたものが火星人という神話なのだ、とあいつは言ったのです。だからそれは火星人神話ではなくて火星人という神話に過ぎない。火星人などいない、と、そして笑いました。俺は笑い返す。
P221

 火星人に歴史がないとしても、火星人はいないという事はない。それが大切な神話への道です。また火星人とそう呼ばれた名を叩き返す事も火星人の証拠です。同時に火星人だと認めてやれば相手が困る時にそう言ってやるのも、俺達の自由で、その時に俺達は火星人です。そして火星人にされた人はひとりひとり、おんたこのいばって作った王道のおんたこ史を書き換えてやればいい。迷惑を受けたものはめいわく史を書けばいい、おげれつに悩んだものはおげれつ記を書けばいい、死んでけと思ったものはしんでけ録を書けばいい。その中に共通の言葉があれば、俺たちは火星人でなくとも火星的団結をしているのだ。それが俺たちのばらばらな火星人神話です。それにもしかしたら本当に火星の歴史があってそれをおんたこが隠しているだけかもしれないのだ。だったらそれも掘り起こす。火星人と言われれば言われる程昔の話や自分がやられた事を書き残せばいい。
P222

これは火星人を作り出し、「火星人がもしいたら」と考える「作者」に向けられた言葉でもあるのだろうか、と想像する。いぶきは「笙野頼子」に対して一貫して否定的な姿勢を崩さなかったのだから、「作者」に対して応答したとしても、不思議はない。
阿修羅または煉獄界のウラミズモと地獄界のにっほんは、最早自動運動させるしかないほど手の施しようがなく、みたこたちは作者の脳内にある「みたこ天国」に回収されることとなる。「後味の悪い救いP51」と金毘羅も書くように、これは成る程、絶望的な話ではあるかもしれない。ただ、「みたこ天国」が空想画であるにせよ、それがあるとないとでは大違いであるとも書く。

 しかしそんな世界本当にあるだろうかこれから出来るだろうか、出来るはずはない。とは思っていた。そんなのただの女の空想画ですやろ、といわれそうだと。しかし、この空想画があるとないとでは大違いだった。認識する事で救われるものは全人生のうちの何分の一、それでもそれさえももしなければ、人は何をどうしたってるっきり救われないのである。しかしもし救いとはこういうものだという認識があれば、ごく普通の無事ライフを送ったときそれが発動して安らかな精神と休息が得られるかもしれない。すくなくとも一瞬でも世界に向ける眼差しは明るいしその認識が世界を変える可能性はある。
P50~51

この作品に於ける、金毘羅としての視点、語りにも、同じようなものを感じる。「おめでとうありがとう三部作制覇の君に特典「映像」を」で、ポストモダンの名著『千のプラトー』を用いて金毘羅視点、権現文学を丁寧に解説しているのだが、かくも絶望的な世界であるにも関わらず、作品は決して絶望的ではないのは、金毘羅としての視点、語りが齎す認識のおかげ、ではないかと思う。それは人々が、いぶきの火星人神話のおかげで希望を持つようなものかもしれない。

 天使の千の手を背中に背負って、広場に降り立ったグリーンスネークは確かに神の遣いのように見えた。緑にピンクの疣のあるみたこの遣い女という予言にそれは少し似ているようにも見えたから。というよりいぶきが無事に戻ってきて、火星人神話というまったく未踏のものを自分達と関連付けたので、正気でいる死者達や最後まで活動家として側に来てくれる生者達は希望を持ったのだ。
P223~224

だいにっほん、ろりりべしんでけ録

だいにっほん、ろりりべしんでけ録

笙野頼子『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』

前作の『だいにっほん、おんたこめいわく史』で首つり自殺した埴輪木綿助の死霊は、妹を探し求めていた。その妹であるいぶきは、職員として面接を受けに行った火星人遊郭でなんらかの形で殺されており、兄と同じく死者として蘇っている。まことにおんたこの世である。
いぶきは死者たちの語りによる自分史と「笙野頼子」による評論が載るパンフレットを片手に、S倉の駅前を逍遙している。
この時代、2060年には「おんたこ」が完全に権力を掌握し、その極端な「ネオリベ」的中央集権政策の結果、S倉のような地方は「ぐさぐさ」になって、挙げ句には死者が蘇る世の中になってしまっている。
死者は国家から邪魔にされたものとも説明され、国家、特に「おんたこ」に対して何らかの恨みを持っている者も少なくない。火星人遊郭で死んだ遊郭の少女たちはその最たるものだ。
S倉の隣には、利根川の橋を隔てて『水晶内制度』に出て来た女人国ウラミズモがある。ウラミズモからやってくる密売人が売る美少女フィギュアに、火星人遊郭で死んだ遊郭の少女たちの魂が入ると、生命を吹き込まれたように動き出す。
この、小さくて動く、魂のある美少女フィギュアは「おんたこ」にとっては至上の価値がある。禁制品にも関わらず買い求めて来る「おんたこ」に、美少女フィギュアの中に入った彼女たちは復讐をする。
いぶきは、その「フィギュア入り」を支援するために、遊郭の少女たちが集まる死者のための相談所へ赴くのだが、いぶきは遊郭の少女たちと違って、蘇ってはいるものの、確固とした目的をもっているわけではない。兄の木綿助のように熱心なみたこ教徒でもなく、死者であるため居場所もなく、常に彷徨っている。死者の友人といっても「おたい」と名乗る、前作で「笙野頼子」に憑依した浄泥しかおらず、その関係もお互いがお互いを馬鹿にするような微妙なものだ。
そもそも「いぶきは誰を見ても馬鹿だと思うタイプP75」で、「一面しか見ていないP75」。
この、いぶきの孤独な、落ち着く場所のない不安定な立ち位置と性格が、小説に独特の緊張感を齎す。
それはパンフレットの、「笙野頼子」の書いた評論パート、政治的言語との「対話」でも発揮される。駅前で婦人に突き飛ばされ、ばらばらばらになったパンフレットを、いぶきが拾い集めるシーンでの「対話」は、作中の白眉だ。

 あっ! でもここはなんだか「判る」! 一枚目は。
P51

 P41 アダム・スミスが見えざる手の中に経済を委ねるのが最良の方法と説いた時には、その自由な経済、個々人の欲望に任せるという事は実は必要悪だった。だが、それは少しずつニュアンスを変えてきた。ネオリベラリズムとは只の欲望ではない。正義面の自己都合なのだ。世界資本の怪物が美徳の仮面を付けているのである。
P52

 あっでもやっぱり判らんこの二枚目になると!
P53

 P42 私が驚いたのは確か十年以上も前、マスぞえ要イチの徹夜討論番組での発言である。アダム・スミス市場経済を肯定した、という言い方だけでそれが必要悪であるという事をスルーしていたのだ。それももう随分昔の話である。生放送であるからか、と一応は思う。
 が、――。
 見えざる手と言った時、その手は誰の手だ。神の手か、その神はキリストか。神のない国、だいにっほんで、無限に肯定されるその自由経済、市場原理を良きものと判断しているその主体は、はたしてその主語は誰なのか、それは、おんたこだ。左翼面のネオリベ。というよりはロリリベ。この国のネオリベはロリ的である。

 そこでいぶきは、――。

 だっ、とまた一気に判らなくなる。

 なんだ! また! 宗教じゃないか! 神、紙、神、紙、もう、うんざりだ!
P54~55

この評論パートを書いている「笙野頼子」は、読者と称するウラミズモの人間に世話をされる生活を送っていて、コーヒー(ウラミズモ特製の薬物入りだろう)を飲まされては、ウラミズモの意向に沿う政治的文書を書いている。『水晶内制度』で火枝無性が置かれていた立場とほぼ同じだ。そこで書かれた政治的文書(ノンフィクションとはいうが、「笙野頼子」は現実が判らないのである)が、「だいにっほん、ろんちくおげれつ記」である。これはいぶきが持っていたパンフレットの評論パートを含むのだろうし、ここでの主張と同じものは地の文でも散見される。
とはいえ「笙野頼子」もウラミズモに唯々諾々と従っているわけではないのは火枝無性と同じで、ウラミズモの人間がいない隙を狙って、こっそり藤枝静男論を書こうともしている。
ウラミズモのにっほんにおける活動は非合法なものとされているのだが、「おんたこ」に見捨てられた地方では、ウラミズモは公的機関の行事にまで食い込んでいる。そこでは、みたこ教の儀式を装って、フィギュア入りを主導しているのである。ここで注意したいのが、ウラミズモもみたこ教を収奪しようとしている点だ。
「百合子は熱狂のままに舞台で叫んだだけだという事になっていた。でも、いつのまにか、様々な用語が入って、あっという間にそれはセコく理論化されているのである。P116」とあるように、百合子が絶叫していただけの言葉が、政治的に解釈され、ウラミズモの神話に利用されているのだ。
いぶきと「笙野頼子」の書く評論パートとの「対話」に見られるように、これらの、「おんたこ」や「ウラミズモ」の政治的な力との絶え間ない緊張感が、この作品の基調であるように思う。それは、死者たちの語りもまた例外ではない筈だ。
作中で、死者たちのオーラル・ヒストリーは「だいにっほん、おんたこめいわく史」とされる。「蘇ってきた人が肉声で語り、死者の声で作った史書P10」であり、いぶきは火星人パートを受け持つことになっている(能の複式夢幻能で、死者が蘇り、死に様を語ると共に、自身の供養を頼むという定型があるが、そこからヒントを得たのだろうか)。
ただし、死者達の語りには信用がおけない、とは繰り返し述べられる。

 死者の語り、それはネット以上のうさん臭さである。まず、自分でそこに葬られていたと称していても本当かどうかが確かめようがない。霊の世界なら嘘は吐き放題だし。仮に本人に悪意がなかったとしても、例えば、よそから飛んで来た明治時代かなんかの行き倒れの魂が古墳に入り込んで、自分でそこの主と信じてしまっている可能性もある。いわば狂人ブログのプロフィールのようなものとしての霊の、神の来歴なのだ。
 昔の死者になる程記憶違いはあるし、何分自己申告のまま他人の無念なども引き受けるし、自己語りはどんどん華麗になって行く。古い程死後に「育って」しまっているため、いろいろ錯綜したものを引きずっていて、分かりにくい。
 そもそもいぶきだって知らないで、というかいつしか何かを誤認して自分について喋っているかもしれないのである。
P82

 自己語りとは言え死者のそれは各時代を並べれば壮大になる。ただし、正確かどうか。それ故いぶき達の議論は、図書館から借りて来た本や、死者の遺族達が保管している本人達の遺品の教科書位にしか活字的根拠がない。集まるデータは結局どれも全部語りもので、主観の世界だし。
P131

 人前に出ると浄泥は気持ち悪いしなをつくり、声はむしろ太くなり鼻から息が出ている。しかもいいつも経歴が違っている。二つ市の時に殺された事は何度語っても、変わらないけれど、特に出自については話が変わる。髪が長くて自慢にしていたとしきりに言ったが蘇ってきた時は髪はなかったそうだ。生えてしまうと、そう言っている。
 最初はK光院の中で育ったと言っていたはずだ。面白いからと言って、みたこの歴史に嘘を混ぜるのかといぶきは嫌になる。
P137

この傾向は、死者に特有の性質に由来している。

 死者の世界では「誰からどう見えるか」という事は大切である。本人の思いが余程強くない限り、人は見られたものになってしまうから。最悪の話、ものすごく強い死者が暗示に掛かりやすい死者に「お前は鳥だ」と言ったら飛んで行ってしまう。
P75

こういった中で、いぶきは語ることへの困難さを抱えている。

「だいにっほん、おんたこめいわく史」は自己語りなので、自分の事をちゃんと言わなくてはいけなかった。自分の受けた迷惑が世界に通ずるようにしないとみたこの役には立たないと言われていた。しかし練習の間にいぶきが何か人々が期待しているのと違う事ばかり言ってしまっていた。
 地球人が火星人に先入観をもっている、おんたこがどうとか言う前についそこを語る。また、家族の事で大切な事はあるがそれがどうしても自己語りにとどまってうまく行かない、例えば他の女性や少女のあり方と自分の存在やスタンスが繋がっていかない。
 そもそも、「うちどもは女性として」という言葉をなんとか語りに入れようとしても出来ないのだった。
P192

いぶきは、小説の終盤で、試みに自己を語ってみるものの、どうも語りに納得出来ない。そこで、誰も聴いていないことを確認して、嘘の語りを始める。

 ――父は私の方が跡継ぎに向いていると思ったようでした。
 嘘であった。言ってみたかったのだ。語りの稽古より何か気持ちのいい事を語りたくなったのだ。というかふと言ってみた。
 ――もしいぶきが本気でやれば火星人落語は変わるだろうと父、名人埴輪木綿造が言ったのです。本当です。そう言えばもともとむいていましたし。それに、いつかは、火星人落語の神髄である火星神話に素人ながら挑戦してみたいと言うのが、うちども女性としてのうちども女性の志望であり、この火星人神話の起源というものを!
 いぶきは少しずつ調子が出始めた。だって「うちども女性」というサービスフレーズがするっと出たから、どうして嘘を混ぜるとこううまく行くのだろう。
P198

ここで、唐突に現れた浄泥に「――へたくそっ、へたくそっ、おんたこよりあつかまし!P199」と罵倒されてしまう。
これら死者の語りを、信用出来ない語り手の問題に引きつけてしまうのは、恐らく適切ではない。もっと違う問題なのではないか。
とりわけ、いぶきは、火星人遊郭で殺されており、その殺された様を、どうしても思い出せないでいるのである。

 人は語りえない過去を、物語に加工する能力がある。短い言葉で表せば、神話化・寓話化、すなわち物語化である。「昔むかしのお話」を語り継ぐ中で、そのお話の内包するような、人間という存在の残酷さは影を潜める。代わりに、神秘世界が導入され、「私たちが体験することのない外部のお話」としてパッケージングされる。そうして、フェアリーテールとして、語りえない過去を、共同体で共有するのである。

 しかし、この構造は、事後的に近代・現代人が発見したものだ。「本当は怖いおとぎ話」として、フェアリーテールは解体され、その外部の文脈とつなぎ合わされて、前近代人の文化として再構成され、分析される。

 私がここで問題にしたいのは、フェアリーテールは真実を薄めた「まがいもの」である、ということではない。フェアリーテールは、先に述べたような構造を熟知して用いられた、過去を忘却するためのたくらみではない。誰に教えられたわけでもなく、世界各地で、多くの昔の人が、共同体で過去を共有しようとしてきた営みの中で、物語化の技を編み出してきたということである。そこには、近代ナショナリズムの謀略はない。

 ナショナリズムは物語化と結託し、その力を強めることが多い。それへの警戒の目配りは重要である。*2しかし、そのことは物語化=ナショナリズムという問題とはまったく別物である。それを踏まえながらも、岡さんは、いかに物語(とりわけ小説)がナショナリズムに取り込まれてるのか、ということを論じている。
岡真理「記憶/物語」 - キリンが逆立ちしたピアス

勿論、虚構の中の死者の語りと、ここでの語りの問題を、全く同じものとして扱う事は出来ない。だが、同じく嘘が混入される浄泥の語りと、いぶきの語りの違いを考える上で、非常に示唆に富んでいると思う。
浄泥が、屈託なく語りに虚構を混ぜるのに対して、いぶきが混ぜる虚構には、政治的な意図がある。「「うちども女性」というサービスフレーズ」というのがそれだ。
浄泥が、「おんたこよりもあつかまし!」といぶきに半畳を入れる理由は、この部分、政治的な「サービスフレーズ」にあるのではないか。この「サービスフレーズ」の背後にあるのは、「おんたこ」であり、「ウラミズモ」でもある。近代的な記憶の物語化である。
この作品は、政治的な主張を「笙野頼子」にさせる一方で、死者達の語りの政治的な言語への回収に対して、常に批評的な姿勢を崩さない。近代以降の、ナショナリズムに通ずる記憶の物語化は、抑圧の道具として、個人の内面を圧殺するだろう。そういったものに対して、作家としての笙野頼子は一貫して闘って来た筈だ。
そして、本編は、次のように閉じられる。

 その時、作者は――。
 火星人がもしいたら怒るだろうなあ、という恐怖が極限まで達し、背後に幽霊がいるような気さえしてくたので、背中に苔が生えるようなすさまじい気分で、トイレを我慢するしかなかったのだった。
P199

ここで作者が恐れる「火星人」とは、架空のマイノリティーであり、近代以前の神仏習合のメンタリティを指すものであり、また、近代と共に日本が獲得し、周縁化した植民地の記憶も刻まれているだろう。

 火星人の背後に横たわる植民地のイメージ。もちろん、火星人とは、架空のものとして設定された記号にほかなるまい。だが、明らかに、現実として存在し、日本語のなかで語られ、表象されてきた植民地のイメージを借用することで成り立っているといわざるをえない。それは、あるはずなのにない、という欠如として示されている。むろん、日本/にっほんという国家の問題を扱っている小説が、植民地の問題を無視して描くべきものを描いていないと、「書かれていないもの」をめぐって批判することもできようが、ことはそう単純ではないように思われる。むしろ、火星という記号が喚起する植民地のイメージが、あるはずなのにないもの、として批評的に読解されるという、小説テクストが生成する問題について、検討するべきではないだろうか。
内藤千珠子・火星のない火星人

 死者に対する義侠心は、時に傲慢で、しばしば誤りもする。しかし、それを〈正しく〉批判することで、〈なかったもの〉の顕現をさらに抑圧したいのでなければ、このような複雑さは不可欠な手続きであろう。みたこの教師が容易におんたこに転向してしまうように、また、その教師を裏切り者と憎むおんたこの教祖タコグルメ本人も、自らの行いが演技かどうかの判断がつかないように、疑いを知らない義侠心こそ要注意だからである。マイノリティー化されてきたものの歴史を掘り起こそうとするとき、同じ問題を抱える研究が、その一元的な表現法によって、意図せず本気の捏造に陥る場合があることを考えるとき、小説表現ならではの力を感じさせられるものでもある。
小平麻衣子・死者を騙ることの不適切さ

そもそも、フィクションは、真実を語るものではない。ましてや、虚構の死者たちに語らせることなど、なにひとつとして真実ではあり得ない。
だが、作者は、「火星人」に対して恐怖を覚えるほどに、彼らに対して誠実であろうとしている。しかし、「火星人」を政治的に過度に理想化し、「おんたこ」に虐げられる無辜な民としてしまうのは、彼らの内面を奪ってしまうことなのだ。或は、あり得るかもしれない理想的な姿を、過度に忌避することもまた、「火星人」を不当に貶め、同じく内面を奪ってしまう行為かもしれない。つまり、「あるがまま」の「虚構」の「死者」たちに、可能な限り寄り添い、語らせるしかない。
笙野頼子は、なんという困難に立ち向かおうとしているのだろう。

だいにっほん、ろんちくおげれつ記

だいにっほん、ろんちくおげれつ記

笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』

「だいにっほん」三部作と称される作品の第一作。
「おんたこ」という、明治に始まる近代の精神が、新自由主義を信奉する左翼とオタクの手によって徹底的に押し進められ席巻している近未来の日本が舞台である。
「おんたこ」とは、例えばこのように説明される。

 第一党の癖にマイノリティを称する。それがおんたこの正義なのだ。それ以外の正義のあり方を知らないのだ。
P19

 おんたこは明治維新あたりから既に旧にっほん、つまりかつての日本の水面下では発生していたのである。とはいえ明治の元勲即おんたこかというとそれは違うと思う。例えば伊藤博文などあからさまなロリペドであるもののおんたこではなかった、なぜなら天皇を「玉」と呼んだりして国家操作に自覚的な悪人だったから。また山県有朋など露骨な少女芸妓殺しペドであったと言われているが、でも別にロリやペド即おんたこというわけではない。つまりロリでなくとも、例えば明治の家父長や大戦時の無責任上官等からはおんたこの匂いがするのである。また確か三十年以上も前この小説の初出誌の新人賞から、漱石を論じて、江藤淳にいろいろ言われつつデビューしてきたマスコミ屋の某評論家など例えば、国木田独歩の「風景」を論じた時のその蛸壺的世界観と歴史観において、立派なおんたこというわけであった。日本終焉期の小泉純一郎などもやはり保守の分際で何か改革者ぶり、靖国参拝もひょうたんなまず的で、要は典型的なおんたこである。
P39~40

 ふん、そんなの別におんたことやらに拘わらず数を頼んだ人間は全部そうじゃないか、などと言ってはいけない。つまり先程も述べたように、彼らは自分たちを「少数派、抑圧される、齢未熟なぼくたち」と定義しているのである。四十過ぎたってずーっとぼくである。つまり、自分たち以外の「マイノリティ」を許さないのである。
P43

 そうです。こいつらって実は左翼の皮かぶったネオリベなんですわ。

 つまりおんたこがロリかペドかとかそういう話ではないのですわ。要するに独特な意識のあり方こそおんたこだという……。
P165

その「おんたこ」の首領であるアメノタクグルメノミコトが書記長を務める「知と感性の野党労働者会議」または「知と感性の野党労働党」略して「知感野労」が、正式名称アメノタコタラシ教団、愛称みたこ教団を弾圧し解散に追い込むところから小説は始まる。
みたこ教団は神仏習合的な宗教であるとされる。元来、江戸時代には神仏習合ではあったのだが、明治以降の神仏分離によって、国家神道的な道を歩んで来たこの教団を、「おんたこ」が権力を握った時代に、野之百合子が大改革を加え、キリスト教と仏教とを混淆したのである。祈りの言葉「ナーメンダ」は、「アーメン」と「ナムアミダ」を組み合わせたものだ。
この弾圧は、明治政府が進めた神仏分離のアナロジーだろう。これは、第三章で、明治政府による神仏分離によって権現が去った後に現れる新たな神が「おんたこ」そのものであるところからも、明確に意図されているものと見ていいと思う。
この新たな神が操る言説が典型的な「おんたこ」話法で、その気持ち悪さは絶品である。

 ――寒いとは何だろう。寒いということはない、ただオレ様にはなんの関係もないお前の寒さだけがある。うどんとはなんだろう、うどんなどというものはない。我々はむしろうどんの代わりにナメクジをお前に食らわせるだけの親切さを持たなければならない。まむしとはなんだろう。それはうなぎを飯にまぶしたものととらえてはならない。我々は本物の蛇をまむしを、えっえっえっえ、本物の、まむしを以てこの不毛な無意味な社の魂の怨恨を葬り去り、虐待をつきぬける明るさをくれてやらねばならないっ。えっえっえっえっえっ。
P114

 ――子供とはなんだろう、子供などない。それは資源である。我々はむしろ十二歳の少女を立派に使える性的商品として計算に入れるだけの冷静さを持つべきだ。子供の内面は無である。内面に意味などない。外面は「りっぱにおんなじゃのう、えっえっえっえっ」である。
P115

 ――国民に内面はない。ただ国家だけがある。なぜなら国家の前に我々は無であり。圴一であり、商品であるからだ。全て商品だ。そしてここがどこでもなく、私が誰でもなく、私に内面がない以上、この二つ市に○○する自由とは国家から保証された自由なのであるっ。なぜならば経済効率を考えた時、女の商品下限年齢は三歳だっていいからである。
 われわれはむしろ幼女強姦者の内面を殲滅し空洞化するのである。そしてそれにとって代わり、このように国民全体の均一化をはかることで自由な空洞としての不毛な幼女商品化に身を委ねるのである。そして、選ぶのだっ。優雅に、華麗に、駆け抜けるのである。えっえっえっえっえっ。
P116

脱構築だの価値観の相対化だのの果てに現れる超国家主義市場原理主義。現実でも、ポストモダン相対主義を自称する学者や言論人がせっせと地ならししている果てに待ち受けるのが、この地獄であると自覚している人間がどれだけいるだろうか。
みたこ教団中興の聖母とされる野之百合子は元は野田百合若という男性のフュージョンドラマーである(そういえば『なんとなく、クリスタル』のフュージョンキーボード奏者、淳一も世代的に多分同じだ)。

 そんな百合子のバックをつとめるナーメンダパーカッションは、百合子の崇拝者からなる女性十名の打楽器集団であった。元々ピアノの先生等素人ばかりなので、歌錦と百合子の訓練で一曲仕上げるのに一年というような人々であった。ドゥドゥ・ニジャエ・ローズが妻や娘からなるグループを指揮しているのをヒントにして、百合子がドラムの楽譜を書き、自分のフレーズを練習させた。その前面で彼女は踊り狂い、踊りが佳境に入って、百合子がスカートを脱いでしまうのを契機にナーメンダは即興演奏に入る。
P65

ドゥドゥ・ニジャエ・ローズという名前に、アフリカン・ミュージック好きとしては思わずにやりとする。

Doudou N'Diaye Rose - Rose Rhythm

百合子のキャラクターとパフォーマンスは、政府をその音楽で過激に挑発し続け、ナイジェリア国内でカラクタ共和国という独立国を作り、政府軍に蹂躙されたフェラ・クティにも近いかもしれない。

FELA KUTI live! - Don't Gag Me - Je nwi Temi 1971

フェラ・クティ - Wikipedia

このように、百合子の音楽はアフリカン・ミュージックに影響を受けた、リズム重視のダンス音楽なのだが、一方で、「おんたこ」が出す、「すっちゃんすっちゃん」という音がある。

「すっちゃんすっちゃん」は人でなくすぞよ。自我をなくすぞよ。山の中の山中で心の虚ろを内面の空洞にしてしまうぞよ。すっちゃん、すっちゃんは野狐の悪意ぞよ。呂利蛸の脱糞ぞよ。所有より消費というあしき世になるぞよ。関係より欲望のおんたこ地獄となるぞよ。「すっちゃんすっちゃん」は悪しき踊りなるぞ。国家目線なるぞ。国家目線で土俗を語るものは見ていりゃれほれそのうち、頭のてへんからの、竹ぼうきが生えるぞよ。マス・イメージーは金と世間なるぞ、それは五番柳田を「すっちゃんすっちゃん」にして、栄光の巨人をばダラクさせるぞよ。
P49

巫女の最後の託宣から生み出されたこれは、『レストレス・ドリーム』の寺院が発する歪んだテンポと同じものではないだろうか。
百合子がドラマーであり、「すっちゃんすっちゃん」に反逆するのも、同じくドラムとメトロノームのテンポで歪んだ世界を打ち破った桃木跳蛇を思い起こさせる。
さて、この作品のテーマ性は汲めども尽きないのだが、最大の魅力は、変幻自在、緩急自在の語りにこそあると思う。
ドストエフスキーの複数の登場人物が、狂ったような長広舌を何ページにも渡り捲し立てて、ジェットコースター的な快楽を読むものに与えるが、この作品はドストエフスキーのそういった部分(ドストエフスキー作品の魂といっていいだろうか)を取り出し、さらに過激に洗練させたものだと思う。
その語りはたったの三行で五十年の時間の経過を可能にしてしまう。なんという離れ業。

 笙野はもう幻想と現実の区別が付かなくなってしまっていた。
 人から「正常、まとも」と言われたくて戦いを続け、ついに「電波じゃなかった」と誤解が解けた時、その解放感に耐えきれず狂ってしまったのだ。

 それからたったの三行で五十年近い歳月が流れた。どうしてかそれは、笙野がもう元に戻らなかったから。

 みなさんこの三行の間が五十年開いています。段差に落ちないようご注意くださいませ。
P119

五部構成の中で、語りはさらに複数の声の主に分かれ、ポリフォニックな構成は、ますますドストエフスキーを彷彿とさせる。
この多声的な構造を可能にした仕掛けのひとつとして、「口寄せ」に注目したい。いずれの章でも、誰かの言葉を借りて語る行為が見られる。

第一章では、ウラミズモに追放されるみたこ教団の巫女が(恐らく第三章に登場する「笙野頼子」と同一人物であろう。そこでは、この儀式自体、「笙野頼子」が昼の間に見る「妄想」とされていて、作品を非常に複雑にしている)託宣を受ける。

第二章では百合子がみたこ教団を乗っ取る際に、神の言葉を啓示する。

第三章では「笙野頼子」が「おたい」と名乗る比丘尼に憑依される。

第四章では、火星人でみたこ信者の埴輪木綿助の死霊による「おんたこ」の口ぶりを真似た火星人落語が披露される(「死霊」だとか、ドストエフスキーに影響を受けた埴谷に通じる「埴輪」だとか、首つり自殺だとか、ドストエフスキーを連想してしまう)。

第五章では古墳の主「御霊」がネットユーザーに憑依して手に入れたネットスラングで語る。語り手が誰かに憑依し、そこから語りの形式を手に入れる。前章と合わせて、語り口がかなり技巧化されている。

第一章では巫女が、第二章では百合子が降霊の儀式を準備した結果、第三章以下で比丘尼、埴輪木綿助、御霊が呼び出された……と見ることも可能だろうか。
上記以外にも様々な声が登場し、作者の声までも所々その姿を覗かせる。哲学や政治思想、ペドフィリアまでを動員し、ダイナミックな記述を生み出しているこの作品は、ドストエフスキーの小説が現代の日本に相応しい形式を備えて蘇ったかのようである。

だいにっほん、おんたこめいわく史

だいにっほん、おんたこめいわく史