佐藤亜紀『金の仔牛』第二回

メッテルニヒ氏の仕事』には、第一部冒頭で、「これから私が語ろうという人物である」と、「私」という語り手が想定されていることがわかる。この語り手はヨーロッパ半島を俯瞰してみせるパースペクティヴを提示し、状況についての最低限の解説や論評を加え、メッテルニヒ氏の仕事を複眼的に捉えるためにあらゆる角度から対象を見ている。そして語りは語りとして、人物たちの思考に溶け込ましたりはしない。禁欲的かつ透徹な語り口が常に前景化しているのだと思う。メッテルニヒ「氏」という、主に語る人物に対してどこか他人行儀な呼称を採用しているのも、飽くまで歴史上の人物は徹底した他者であることを示しているのかも知れない。
『金の仔牛』でもやはり冒頭部分で「これからお話ししようという物語」と、物語の外に語り手が想定されていることが示されている。この語り手は『メッテルニヒ氏の仕事』の語り手とは違い、物語が進行している中では息をひそめて姿を隠してはいるが、この作品も同じく語り物であることに注意を払ってもいいのではないだろうか。『メッテルニヒ氏の仕事』と『金の仔牛』、この二作品が同時に連載されていることは案外重要な意味があるのではないか。政治と経済、語られる世界の広さ、時間の長さに違いはあれ、共通するのは利害関係者の多さと、利害が一致しさえすれば手を組む姿勢(呉越同舟佐藤亜紀作品の特徴ではあるが)、そして語り手が登場人物を外から眺めている、突き放したような感覚。
ルノーダンの相談を受けた金細工師のヴィゼンバック三兄弟が状況を整理するために図を描くように、第二回開始の時点でも利害関係がかなり複雑化している。しかも、カトルメールの弁護士デゴから、オーヴィリエ公爵の執事「蜥蜴」に至るまで、何らかの思惑を抱いているらしいことまでわかってくる。そして、ニコルが同じくヴィゼンバック三兄弟に相談に行くと、事態はさらに複雑怪奇な様相を見せる。
かつての100リーヴル、それも紙切れの100リーヴルの持ち主がいつしか100万リーヴルの持ち主を現実的な目標として目指すことになっているのだから、事が大きくなるのは当たり前なのだが、「餓鬼」に過ぎないアルノーを中心に膨れ上がって行く様子を描き出す手際の見事さに舌を巻く。しかもこれでもまだプレイヤーが出そろったとはいい難いのである。今後もなんだか増えそうな予感がする。まさにバブルの発生を目の当たりにしている感覚だ。
それに加え、利害関係の力点もまた移動する。ニコルとその父ルノーダンとの、アルノーを巡っての対立が今回の目玉だろう。ルノーダンはアルノーをどうにかして殺してやりたいし、ニコルはアルノーを絶対に殺させたくはないのである。
そこで、ルノーダンがアルノー相手に仕掛けた悪魔的な罠は大規模な投機(というか保険というか金融商品というか)を生み出し、ニコルはそれに対抗して、同じ理路でアルノーがその罠から抜け出せるように安全装置を取り付けようとする。
それがヴィゼンバック三兄弟が描いた図から生まれるのだが、この仕組みを前にすると、オーヴィリエ公爵が作らせたマンナイアという処刑道具は仕組みという点では恐らく単純なものなのだろうと思えて来る。
また、ルノーダンとニコルは親子だけあって(という言い回しは妥当ではないだろうが)行動や思考が一対のものとして扱われている。ヴィゼンバック三兄弟を訪ねる様子も対称的(というかカノン的?)に描かれていて、この辺りはひたすらに巧いとしかいいようがない(ところでニコルが飲み物や食べ物を公爵や三兄弟から勧められても拒否するのは何かの暗示だろうか)。訪れる時間帯の違いから生まれる仕事場の風景の差や、ルノーダンが何の気なしに通ったであろう階段を、ニコルはスカートを手で押さえて降り、昇るときは手で窄める姿は読んでいてそれだけで楽しい。もちろんヴィゼンバック三兄弟の様子も。
とはいえ、次回以降もこのニコルとルノーダンとの関係が中心であるとは思えないのである。
ほんとにこれからどうなるんでしょう。
ちなみに、最後のヴィゼンバック三兄弟の会話の中で、オピタルという名詞が出てくるが、普通名詞としてならば病院であるが、この時代では体制からの逸脱者を矯正する役目があったらしい(ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』にそういう事例が多く載っていた気がする)。『マノン・レスコー』では、一六五六年に創設されたオピタル・ジェネラルにマノンが収監されている。そこは現在ではラ・サルベトリエール病院と名を変え、マノンの井戸なるものが保存されているそうだ。

小説現代 2012年 03月号 [雑誌]

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