佐藤亜紀『金の仔牛』新連載

メッテルニヒ氏の仕事』の連載だけで喜んでいたら、まさか平行して連載される作品が他にも出るとは思わなかった。かつてこんなことがあっただろうか。ちょっと記憶にない。至福。
メッテルニヒ氏の仕事』と同じく、歴史を題材にし、地理も時代も近接しているが、当然のことながら書き方や視点が全く違う。やはり書き出しに注目してみる。

 一七一五年、ルイ大王崩御の折、ヴェルサイユ宮殿のそこここでは時計が一斉に四時十五分を打ったと伝えられている。宮中の時には専門の侍従が付いており、日々たゆみなく時計の螺子を巻き時間を合わせていたので、これはさして驚くべきことではなかろう。この時計の精とも言うべき者たちの目に見えない活動が、目に見える世界に、一時間に四度、日に九十六回のささやかな徴のひとつを表した瞬間、廷臣たちの上げる、国王陛下崩御、国王陛下万歳の声に迎えられて、曾孫である齢五歳の皇太子は新王ルイ十五世となった――が、残念なことにこの逸話は、これからお話ししようという物語にさしたる関係はない。
P51

これだけで舞台設定と、「これからお話ししようという物語」の精度が伺える。ルイ十四世治下の宮中での時計専門の侍従について語れる人間がどれだけいるだろうか? そしてそれをさらりと導入に用いる贅沢さ。
舞台はこの四年後、若き追い剥ぎのアルノーが一人で馬車を襲うことから始まる。そこで手にしたのが王立銀行が発行した紙幣だったことがアルノーの運命を大きく狂わせるのである。この紙幣は「事情のある金」が集まる稼業にとっては悩みの種で(銀行に持ち込みたくても持ち込めないのである)、一方ではその「事情のある金」であっても兎に角何がなんでもどうしても欲しい人間というのがいて、多額の仲介料を条件に、アルノーは裏稼業から紙幣をかき集める役目(つまり資金洗浄)を担うことになる。
そんな紙幣をアルノーに示した(というか追い剥ぎの被害者)カトルメールという紳士は、独特の経済哲学を語る。

 ――そう、その先だ。金のなる木の噂を信じて額面100のこの紙切れを120でも130でも、それ以上でも買う馬鹿者が百人いるとしよう。そして君が偶々この紙切れを一枚持っていたとする。それを知ったこの百人はどうするね。
 ――おれのところにやって来て、頼むから譲ってくれと言い出すでしょうね。
 ――そうしたら君はどうするね。
 ――一番高値を付けた奴に売って厄介払いしますよ。誰だってそうするでしょう。
 ――ちょっと考えてみたまえ、それが本当にただの紙切れだったとしても、もし誰かが1000リーブル出すと言ったら、それは実際、金のなる木の種だったも同然ということになりはしないかね。
P56

一瞬、株の話をしているのかと思うが、これはジョン・ロウが発行した100リーブル紙幣についての会話である。王立銀行を設立し、フランスで初めての紙幣を発行したジョン・ロウもまた、株と紙幣を同じように通貨として流通させる野望を持っていた。

 フランス経済を「管理通貨」によって運営するというロウの計画の実行にあたっても、もちろん国の「債務」である紙幣は主役を演じる。「王立中央銀行(バンク・ロワイヤル)」と「ミシシッピー会社」を一体化したロウの帝国を指して、当時の人々は「システム」と呼んだが、実際、それはロウという一人の天才の頭脳によって支配される巨大なシステムであった。そうだとすると、「ミシシッピー株」が「システム」の発行する「負債」であるのと同じように、王立銀行の発行する「紙幣」もまた「システム」の発行した「負債」ということになる。
 実のところ、ロウにとっては「紙幣」と「株式」の違いは、どうでもよい問題で、両者がともに「システム」の「負債」であるという点だけが重要だった。なぜなら、彼は、「株式」もやがて「紙幣」と同じように通貨として流通する時代が来ると信じていたからである。なんと時代を先取りした思想を持っていたことだろう! 「紙幣」だろうと「株式」だろうと、ともかく「システム」の「負債」を大量に発行し、すべてそれによってフランスの経済取引が媒介できるようにする。その上で、経済状況に応じて「負債」の規模を自由に調整し、「金融政策」を実行する、そういうシナリオを彼は抱いていたのである。
竹森俊平『資本主義は嫌いですか』P67~68

ジョン・ロウは、この作品の時代背景を知る上で最重要人物であろう。以下、竹森俊平の『資本主義は嫌いですか』からこの人物がこの時代に果たした役割を要約してみる。
スコットランド人のジョン・ロウはフランス王立銀行総裁にして、アメリカの仏領「ルイジアナ」の通商権と開発権を与えられたミシシッピ会社の支配権を握っており、その立場を利用してフランス国債ミシシッピ会社の株式に転換する政策を実行していた。当時のフランスの財政は破綻の瀬戸際に立っていて、一七一四年の公債残高は国民生産の一〇〇%を超え、一七一五年のルイ十四世の死の直前には政府は八〇〇万ルーブルの借り入れをするために、三二〇〇万ルーブルの額面の手形を発行しなければならないほどであった(冒頭の時計にまつわる豪奢な逸話は、このルイ十四世時代の財政危機を仄めかしてもいるのだろうか?)。そこでこのフランス国債を、ミシシッピ会社の株式に転換するにあたって、ジョン・ロウはミシシッピ会社の事業規模を拡大し、それを背景に「人気株」を発行させる。そこで調達した資金で、フランス国債を購入するというわけである(直接、フランス国債ミシシッピ会社の株式と交換することも出来た)。さらに、ミシシッピ会社の株式を市場で消化しやすいように、ジョン・ロウの指揮下にある王立銀行には紙幣をどんどん刷らせる。最終的には、ミシシッピ会社によるフランスそのものの買収まで視野に入れていたという。
大天才とも大ペテン師ともいわれるこのジョン・ロウは、ヨゼフ・シュンペーターが「古今東西の第一級の金融理論家」として高く評価するように、「管理通貨」の確立に於いて希有の思想を持っていた。
さらに、池内紀によると、ジョン・ロウはゲーテの『ファウスト』に出てくるあのメフィストフェレスのモデルにもなった人物でもあるらしい。第二部の、紙幣を発行して帝国の財政を救う場面に、多大な影響を与えたというのだ。

 メフィストーフェレス
およそこの世で、足りないもののないところなどございません。
あすはあれ、ここはこれ、そしてお国にはお金が足りないのです。
お金は床から掻き集めるというわけにはいきませんが、
知恵の力でどんな深いところからでも掘り出せるのです。
鋳造した金貨や粗金のままのやつが、
山の鉱脈からでも、石壁の土台からでも見出されます。
で、そいつを誰が取り出してくるかとお尋ねになりますなら、
天分ある男の天性と精神との力であると申しあげましょう。
ゲーテファウスト』第二部岩波文庫版 相良守峯訳P24

 宰相(おもむろに出てくる)
長生きをしたお陰で、嬉しい目にあうことです。――
ではこの重要な文書をお聴きになり、またごらん願います。
これこそ禍を転じて福となしたものですから。
 (読み上げる)
「知らんと欲するものに遍く布告す。
これなる紙幣は千クローネンに通用するものなり。
その確実なる担保としては、帝国領土内に
埋蔵せられたる無数の宝をもってこれに充つ。
この豊富なる宝をただちに発掘して、
兌換の用に供すべき準備すでに整いたり。」
 皇帝
怪しからぬことが、途方もない詐欺が、行われたらしい。
わしの親書をここに似せて書いたのは何者か。
このような犯罪がまだ罰せられずにいるのか。
 大蔵卿
えがおありのはずですが。ご自身でご署名なされたのですから。
昨晩のことなんです。パン大神となっておいでのとき、
宰相が私どもと一緒に罷りでて申しあげました。
「この立派なお祭りが、また人民の幸福と相成るよう、
ほんのひと筆お願い申しあげます」と。
するとお書きくださいましたので、昨夜のうちに、
奇術師に依頼してさっそく幾千枚も刷らせました。
そして恩恵が遍く万人におよぼされますように、
すぐさま、一枚一枚に捺印いたし、
十、三十、五十、百クローネンの札ができあがりました。
ゲーテファウスト』第二部岩波文庫版 相良守峯訳P96~97

このジョン・ロウが発行した紙幣(金の仔牛?)を巡って、アルノー、カトルメール、故買屋のルノーダン、その夫人、そして娘のニコル、と視点人物を固定せず、戯曲を時折感じさせる形式で物語は進む。全体的に喜劇仕立てなのかと思いきや、最後に不気味で血腥い殿様が登場し、不吉な影がさして、第一回目は終わる。
様々な思惑のもと、誰が仲違いをし、誰が手を結び、そして誰が束の間の勝利を収め、転落の憂き目に遭うのか、という、佐藤亜紀に書かせたら右に出る者はいない世界を予感させる。これは続きが待ち遠しい。
間テクスト性の面でも注意しなければならない点が多くある。カトルメールと同じくらい、いやひょっとすると遥かにアルノーの運命を狂わせた魅力的なファム・ファタル、ニコルは『マノン・レスコー』のマノンを思わせる。マノンは、ミシシッピ会社の総裁でありルイ十五世の摂政でもあるオルレアン公フィリップの名を冠した都市、ヌーヴェル・オルレアン(現在のニュー・オリーンズ)に追放されているのである。
つまり、これはマノン・レスコーを思わせるニコルと、ジョン・ロウをモデルにしたメフィストフェレスを思わせるカトルメール老人との、アルノーを挟んだ世紀の誘惑合戦と見ることが出来るかもしれない。ファム・ファタルメフィストフェレスが同時に目の前に現れたら、なんて考えたこともなかったが、ミシシッピ会社で繋がるこの奇跡。果たしてアルノーファウストになるのかデ・グリューになるのか。或いは……。
タイトルは旧約聖書の『出エジプト記』32章から引かれており、このエピソードも勿論主題に関わるだろう。作中に登場するシャルパンティエのオペラ『アクテオン』も何かを示唆しているのかもしれない。
確実にいえるのは、作者は読者の予想の遥か上を行く極上の展開と結末を用意しているということだけである。

小説現代 2012年 02月号 [雑誌]

小説現代 2012年 02月号 [雑誌]

資本主義は嫌いですか―それでもマネーは世界を動かす

資本主義は嫌いですか―それでもマネーは世界を動かす

ファウスト〈第二部〉 (岩波文庫)

ファウスト〈第二部〉 (岩波文庫)