佐藤亜紀『金の仔牛』第三回

 ――ひとつ、訊いていい?
 ――何だね。
 ――それが何かあなたの役に立つの。
 ――勿論だとも。
 ――どんな。
 ――ああいう奴の首には縄を付けておかないと引き回せないからな。
 ニコルは、何だそうか、と言わんばかりに頷く。――だったら安心。
 ――どうして。
 ――あなたを嫌いになりたくないからよ。
 カトルメールは大笑いする。
P583~584

ニコルが、オーヴィリエを半狂乱にしてやるというカトルメールに最後に訊く場面のやり取りは、この作品の交渉の基本姿勢なのかも知れない。めいめいが己の利益になることをなし、調整の結果、それが皆の利益にかなうこと。
オーヴィリエに大口の金を貸しているうちのひとりで、フェリポー(ポンシャルトラン伯ルイ・フェリポー?)の秘書をやっていたことが自慢だというナタンに、ヴィゼンバック三兄弟が条件を飲ませる際にも、ナタンは「――それがあんたらに何の得になる。P590」「――それであんたらは何の得をする。P590」と念入りに訊く。ナタンは、ヴィゼンバック三兄弟の真意を悟ると、破顔一笑する。

 ナタンは満面の笑みを浮かべる。――そりゃあ悪辣だ、人の道を踏み外してるな。あんたらがそこまで性根の腐った知恵を見せてくれるのは二十年ぶりくらいじゃないか。
 ――皆の為だよ。
 ナタンは嬉しそうに咽喉をごろごろ言わせる。――二十年前にも聞いたな。嬉しいね。じゃ25万出してくれ。
P591

ただし、ここでの「皆」にはオーヴィリエという無法者は含まれてはいないのだろう。アルノーが追い剥ぎ時代に出会った仕事仲間のように、正気でない人間には、調整も交渉も通用しない。しかし、ここではそういった正気でない人間を排除するという方向ではなく、いかに利用しつつ無害化するか、で「皆」が一致しているので、オーヴィリエもまたひとつの中心といえる。
しかし二十年前に何があったのかしらん。
さて、ナタンはいつものように、オーヴィリエのために資金だけを用立てるつもりだったのが、ヴィゼンバック三兄弟の訪問を受けて、彼らの提案を取り入れた、今や青天井のミシシッピ株の相場に連動する契約をアルノーに持ちかけるのである。

これまでのアルノーを中心に動いている金の動きをちょっと整理してみる。アルノーはカトルメールから巻き上げた紙幣の100リーヴルを振り出しに、カトルメールのために、紙幣の10リーヴルあたり銀の15リーヴルで交換する仲介役を引き受ける。アルノーは15から一割を取る。
次に、オペラ劇場でニコルを見初めたオーヴィリエが、ルノーダンにニコルの身柄を要求すると、ルノーダンはオーヴィリエに賭けを提案し、オーヴィリエは了承する。
この賭けの中味は、まず、オーヴィリエが10万をアルノーに融資する。これが先のレートに従えば15万になるわけで、オーヴィリエはそこから一割を除いた13万5000を受け取る。その内の1万は賭け金で、アルノーが成功するとルノーダンの勝ちとなり、ルノーダンが受けとる。アルノーが失敗すると、アルノーとニコルの身柄はオーヴィリエの手に落ち、さらにルノーダンはオーヴィリエが失った10万の尻拭いをしなければならない。
オーヴィリエにとってはどう転んでも損をしない賭けなので、融資額を毎月吊り上げ続けることになる。
そこでルノーダンはこの尻拭いの相談をヴィゼンバック三兄弟に相談したところ、その10万の出資者を募ることになり、配当にはルノーダンがオーヴィリエから貰い受ける賭け金1万が充てられる。さらにこの10万は資金運用(アルノーと金)で殖す。
この辺りからミシシッピ株が高騰し始め、カトルメールの勧めでアルノーは株の仕手を手がけるようになる。
一方、ニコルはアルノーが父親の狡猾な罠に嵌ったことを知り、ヴィゼンバック三兄弟に打開策を相談しに行く。ヴィゼンバック三兄弟は、オーヴィリエが出資金の一割を賭け金にするように、ニコルも賭け金を出して出資者を募り、アルノーが失敗した場合の埋め合わせ金の準備を提案する。しかしニコルには手持ちの現金がないのでこの話にはまだ乗れない。

今回、ヴィゼンバックが叩き台を作りナタンが仕上げた新しい契約(ゴデは「全てが、余りにも完璧だ。これほど美しい契約は見たことがないP596」と感嘆する)は、オーヴィリエが100万リーヴルをアルノーに預け、これをアルノーが直接株で転がし、一カ月の間についた株価の最低値と最高値の変動率を、元金に掛けた額を月末にオーヴィリエに払い戻すというもの。払い戻された額はすかさず全てアルノーに預け直される。株価は律儀に1.5倍(丁度当初アルノーが仲介していたレートと同率)ずつ上がり続けるので、100万はあっという間に膨れ上がる上、月初めに暴騰して後、その月中、下落しつづけても株価は上がったと評価されるという、まるで博打のような代物である。すなわち、アルノーがこけるか、オーヴィリエの首が回らなくなるか。
このような状況に追い込まれたアルノーは、流石に逐電を考えながら、カトルメールがどうも自分を窮地に追いやっている黒幕ではないかと見当をつける。すぐさま、いや全ての出所はルノーダンだ、と思い直すが、そのルノーダンは事態が手に負えなくなっていることに呆然とするばかりである。
カトルメールについては未だ多くは語られず、謎の多い人物である。だが、これまでの彼の行動や言動から判断するに、タレイラン的な造形、嘘は吐かないが人は騙す、というタイプのキャラクターではないだろうか。精巧な罠を拵えたりするわけではないし、表立って動いているわけでもないが、ここまで、カトルメールの思惑通りにことは運んでいるように見える。アルノーはカトルメールに踊らされることに自覚的であるし、アルノーが途中までそう考えていたように、やはりカトルメールが一番の大立者ではないのかな。
しかし、アルノーがバセットで100リーヴルから始めて100万を目前に全部すってしまう場面はなんとも不吉な……。

小説現代 2012年 04月号 [雑誌]

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