笙野頼子『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』

その時、作者は、とここまでで二回書いた。第一部と第二部の終わりでである。

というエピグラフ風の書き出しから、三部作の最終巻は幕を開ける。
その第一部と第二部の終わりにはこのように記されている。

 その時笙野頼子は、じゃなくって作者は。

 自分の言葉の暗さにあてられて鬱になっていた。
『だいにっほん、おんたこめいわく史』P199

 その時、作者は——。

 火星人がもしいたら怒るだろうなあ、という恐怖が極限まで達し、背後に幽霊がいるような気さえしてきたので、背中に苔が生えるようなすさまじい気分で、トイレを我慢するしかなかったのだった。
『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』P199

第三部では、この「その時、作者は」が終わりにではなく冒頭に置かれ、本作に於ける主要な構成部分となっている。これまでの幕間的な独白が、最終巻でこの語りを導き出すための布石だったのかと思うと空恐ろしさすら感じる。何せ、その語りの主は天川弁財天と神仏習合した金毘羅なのだ。
天川弁財天とは異形の弁天で、複数の蛇の頭を持つものという。

http://www.geocities.jp/noharakamemushi/Koshaji/Nanki/Tenkawa.html

作者の頭には冒頭の時点で三匹の蛇が生えており、それらはナノレンジャーとも名の連蛇とも命名された、バトルスーツに身を包むレンジャー物の主人公であるとされる。桃木跳蛇、沢野千本、八百木千本がその三匹の蛇、レンジャーである。このナノレンジャーがみたこたち(とついでに笙野頼子)を救うために、作者の作り出したにっほんとウラミズモの世界に送り込まれるのである。
なぜ、笙野頼子の過去作品の登場人物が、ここでレンジャーとなって、みたこたちの救出に向かうのか。
第二章で、マルクス・エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』によって、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』が批判の過程で矮小化される手つきが、「おんたこ」そのものであり、「おんたこ」の起源はここにあるという、重要な指摘がなされる。

マルクスを全部読んだ専門家ならばそんな事はないと言うかもしれない。しかし四半世紀文章を書いてきてずっと苦しんできた事の原因がこの本一冊の中にあった。ずっと書いてこなかったらこんな「偉い人」の本にここまで文学的な読みは出来なかっただろう。
P81

この指摘の基礎となるものが、「四半世紀文章を」「ずっと書いて」来たことであり、桃木跳蛇、沢野千本、八百木千本を主人公とする作品群だろう。「おんたこ」が跋扈する世に送り込まれるのは、その「四半世紀」の歴史を背負った人物たちでなければ駄目だったのだ。
それともうひとつ、これまでの笙野頼子の作品と、近作を接続する試みでもあるのではないだろうか。
『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』「ひとりで国家と戦う君だけに愛を」によれば、笙野読者には「笙野の言葉だけを好き」という、「言葉だけ派」が存在するそうだ。彼らは、近年の笙野作品の闘争的な面に懐疑的であるという。
ところで、笙野作品とは、日常生活における不条理から差別的な社会構造を見抜くのがその特色のひとつではなかっただろうか。

 その上、国家の輪郭が見えにくい時代、このネオリベと批判分析する時に役に立つのは実は身の回りの困った事や小さな事なのだ。というか逆に言えば文学の身辺雑記から世界経済が語り起こせるくらい「分かりにくい」世の中になっているのである。身の回りのひっかかる事を笙野はずっと書いてきた。いつか本人も気がつかぬままにそれが大きいところに抜けたのである。
『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』「ひとりで国家と戦う君だけに愛を」P208

個人的には、近年の笙野頼子の闘争的な部分は『レストレス・ドリーム』の延長線上にあると思うし、『レストレス・ドリーム』の時点で、すでに「大きいところに抜け」ていたと感じている。桃木跳蛇や沢野千本がそれぞれの歴史を背負いながらも違和感なく「だいにっほん」の世界で活躍しているのは、これがただのカメオ出演的なファンサービスではなく(ファンとしては当然、おっ、おっ、とはいいいましたけどネ)、作者の執筆の歴史が導き出した必然なのだと思う。
さて、「だいにっほん」三部作は第一部から語りの文学としての側面が色濃く現れていたが、本作でもその傾向は顕著だ。というか、この作品に至って、「語り」が主役になってしまっていると思う。
それが「金毘羅としての視点、権現としての語り」である。神仏習合したハイブリッドな語り、金毘羅視点の語り。
「宗教文学の神視点と私小説の俺視点を微妙にずらしながら両方使う話法P19」というそれは、金毘羅の語りがメインの第一章と第二章では告白や回想という形式を駆使し(第一章の時点で、第三章以降の事柄も回想してしまうのである。第一部と第二部で「その時、作者は」と書かれるのが終局部であるように、第三部でも、「その時、作者は」は全てが終わった時点から書かれている)、縦横無尽にあらゆることを語り倒すのだが、「みたこ」たちに「みたこ天国」を用意して、作中から「みたこ」たちを回収するのは「神視点」から行われる行為だろうし、第三章以降の、ナノレンジャーがにっほんに送り込まれる顛末に於いて、「金毘羅としての視点、権現としての語り」の「おんたこ」世界での実践を見ることが出来るかもしれない。20代の桃木跳蛇と、30代の沢野千本との緊張感のある対話なども、「フォイエルバッハ的自己内他者をずらずら登場させて、密室的ではない内面ワールドを語るP19」金毘羅としての視点が達成し得た成果だと思う。
そして、金毘羅としての語りと相似形を描くのではないかと思うものがある。第四章で見られる、いぶきの火星人落語である。
『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』で、いぶきは自らを殺害される瞬間の記憶を失ったまま、語ることへの困難さを抱えていたのだが、ついにその記憶が蘇り語られる。それも祭りの日に自らの記憶に引き込まれ、生き直してしまうという形で、なおかつ、火星人落語の究極芸、「最高峰取って食う芸」(習合して優位性を奪われることを「取って喰われるP16」と表現していることと関係があるだろうか?)によって、語られるのである。

 どこかかから聞こえているはずの自分の、いぶきの口調が変わった。というよりその声音になった時いぶきは「神」になっていた。自分を殺した男の口まねをして、いぶきは淡々としているのだ。それでもその男ににているのだ。これこそは父師匠さえも生涯に何回かしか演ずる事がなかった、「自分をひどい目に遭わせた人間の真似をしながら、淡々と語って人を笑わせる」という火星人落語の究極芸だった。「最高峰取って食う芸」である。
P164

現在進行形で生き直す視点と、淡々と語る言葉の交差する中で、いぶきは殺されてしまう。
「神」になっていた、とは神の視点を手にしているということだろうか。この「最高峰取って食う芸」に、金毘羅としての語りの一形態があるのかもしれない。
ところで、雑誌「インパクション」で、『金毘羅』に対し、なにも金毘羅でなくともウルトラマンでもいいのではないか、という批判がなされたという。

 こうなのだ、なる程! と私は思った。つまりこの批判者も宗教や歴史から隔てられているのである。金毘羅は信仰だ。歴史的過程をその作品の中で露にしている。しかしウルトラマンは顔等、縄文遮光器土偶にも仏像にも見えなくないけれど、その土俗的歴史性、由来をまったく隠されている。
P22

「何よりも、ひとりの人間をウルトラマンに例えるという事はひとりの人間からその歴史と風土を奪う事なのだP21」と、金毘羅は説く。
一方、火星人も同じく歴史を奪われた存在だ、とおんたこは嘯く。

 そうそう火星人とは何かを今教えよう。それはただ歴史を奪われたものだということだよ。火星人神話なんかない。君はこれでだいにっほん史の中に戻って来たんだよ。こうして正しい歴史に君は回帰した。
P167

第二部の終わりに記された、「火星人がもしいたら怒るだろうなあ、という恐怖が極限まで達」っすることとは、ある集団を歴史を奪われたものとして描いてしまったことに対する、歴史と風土を奪われることの痛みを知るからこそ生まれた恐怖心でもあったのだろうか。
歴史を奪われた存在を描くことが、誰かの歴史を奪うことをそのまま意味はしない。例えば、『水晶内制度』に於いて、ウラミズモは女尊男卑の国として、新たな差別の構造、笙野頼子流にいえば「見えない存在が見えるようになる」代わりに、新たな「見えない存在」を作り出しているが、作品としてそのことが肯定されているのかというと、全く違うだろう。語り手は様々な制約の元で十全に見えない、語れない中で、見ようとし、語ろうとする。そこから生まれる凄まじい葛藤の末の「祖国万歳」なのである。ある事象が小説内に現れたとして、それがどういう意味を作品中で持つのか、慎重に考えてみる必要がある。
そもそもにっほんは、

——ないー、ないー、れきしてき、しゃかいてき、しょかんけいのー、まえにはー、いのちなどないー、
P142

という言説が罷り通る地獄なのだ。
「おんたこ」にとって、だいにっほん史以外の歴史はただ歴史を奪われたもの、とてつもなく軽いもの、正しい歴史に回帰するべきもの、なのである。歴史的、社会的、諸関係の前には、奪われた歴史さえないのだ。
こうした、究極的に「宗教や歴史から隔てられている」状態に置かれているのが、火星人なのである。そもそも、近代以降に生きる我々も、大なり小なり「宗教や歴史から隔てられ」「歴史と風土を奪」われている存在ではないか。
そこへ、いぶきの力強い言葉が突き刺さる。

 ——火星人とは、歴史を奪われた人のことだと、おんたこは言いました。だから火星人などいない。火星人は地球人と何ら差はないのだと。なぜなら地球人の中にこそ火星から来たものがいるのだからと。
 大きく言えば、地球の歴史は火星の歴史でもあるという事でした。そしてうちどもにはもともと地球人であったものもいるそうです。そう言えばそもそも火星になんて誰も行った事がない。でもそれでもうちどもは火星人なのだ。
 ひとつの社会の中で暮らしている人間からそこでかつて暮らしていたという痕跡を奪い、そうして作られたものが火星人という神話なのだ、とあいつは言ったのです。だからそれは火星人神話ではなくて火星人という神話に過ぎない。火星人などいない、と、そして笑いました。俺は笑い返す。
P221

 火星人に歴史がないとしても、火星人はいないという事はない。それが大切な神話への道です。また火星人とそう呼ばれた名を叩き返す事も火星人の証拠です。同時に火星人だと認めてやれば相手が困る時にそう言ってやるのも、俺達の自由で、その時に俺達は火星人です。そして火星人にされた人はひとりひとり、おんたこのいばって作った王道のおんたこ史を書き換えてやればいい。迷惑を受けたものはめいわく史を書けばいい、おげれつに悩んだものはおげれつ記を書けばいい、死んでけと思ったものはしんでけ録を書けばいい。その中に共通の言葉があれば、俺たちは火星人でなくとも火星的団結をしているのだ。それが俺たちのばらばらな火星人神話です。それにもしかしたら本当に火星の歴史があってそれをおんたこが隠しているだけかもしれないのだ。だったらそれも掘り起こす。火星人と言われれば言われる程昔の話や自分がやられた事を書き残せばいい。
P222

これは火星人を作り出し、「火星人がもしいたら」と考える「作者」に向けられた言葉でもあるのだろうか、と想像する。いぶきは「笙野頼子」に対して一貫して否定的な姿勢を崩さなかったのだから、「作者」に対して応答したとしても、不思議はない。
阿修羅または煉獄界のウラミズモと地獄界のにっほんは、最早自動運動させるしかないほど手の施しようがなく、みたこたちは作者の脳内にある「みたこ天国」に回収されることとなる。「後味の悪い救いP51」と金毘羅も書くように、これは成る程、絶望的な話ではあるかもしれない。ただ、「みたこ天国」が空想画であるにせよ、それがあるとないとでは大違いであるとも書く。

 しかしそんな世界本当にあるだろうかこれから出来るだろうか、出来るはずはない。とは思っていた。そんなのただの女の空想画ですやろ、といわれそうだと。しかし、この空想画があるとないとでは大違いだった。認識する事で救われるものは全人生のうちの何分の一、それでもそれさえももしなければ、人は何をどうしたってるっきり救われないのである。しかしもし救いとはこういうものだという認識があれば、ごく普通の無事ライフを送ったときそれが発動して安らかな精神と休息が得られるかもしれない。すくなくとも一瞬でも世界に向ける眼差しは明るいしその認識が世界を変える可能性はある。
P50~51

この作品に於ける、金毘羅としての視点、語りにも、同じようなものを感じる。「おめでとうありがとう三部作制覇の君に特典「映像」を」で、ポストモダンの名著『千のプラトー』を用いて金毘羅視点、権現文学を丁寧に解説しているのだが、かくも絶望的な世界であるにも関わらず、作品は決して絶望的ではないのは、金毘羅としての視点、語りが齎す認識のおかげ、ではないかと思う。それは人々が、いぶきの火星人神話のおかげで希望を持つようなものかもしれない。

 天使の千の手を背中に背負って、広場に降り立ったグリーンスネークは確かに神の遣いのように見えた。緑にピンクの疣のあるみたこの遣い女という予言にそれは少し似ているようにも見えたから。というよりいぶきが無事に戻ってきて、火星人神話というまったく未踏のものを自分達と関連付けたので、正気でいる死者達や最後まで活動家として側に来てくれる生者達は希望を持ったのだ。
P223~224

だいにっほん、ろりりべしんでけ録

だいにっほん、ろりりべしんでけ録