佐藤亜紀『メッテルニヒ氏の仕事』第一部

――メッテルニヒは始終嘘を吐くが、滅多に人を騙さない。私は滅多に嘘は吐かないが、人は騙す。
佐藤亜紀陽気な黙示録ちくま文庫版P305

繊細極まりない語り口の亡命貴族が語り手の『荒地』を雑誌掲載時に読み終わった時、ああ、こういう理性的で常に正気な人物は政治の世界には向かないし、きっとこの後も政治とは無縁であるか、或は否応なしに政治に巻き込まれて断頭台に送られる羽目になるのだろうな、と陰鬱な気持ちになったものだった。のちにこの作品が『激しく、速やかな死』に収録され、巻末の解題でその繊細極まりない語り口の亡命貴族がタレイランだと知り(ごめんなさい鈍いんです)、作者の途轍もない技巧に声を出して唸った。成る程、この繊細な亡命貴族は紛れもなく後年のあの怪物的な政治家タレイランに違いない。
冒頭の言葉はそのタレイランのものなのだが、『荒地』という作品は、「滅多に嘘は吐かないが、人は騙す」タレイランの真髄というものが余す所なく描かれた作品なのではないか、と考えてみる。『荒地』の語り手は嘘は吐いてはいないが、読み手は騙しているのではないか。タレイランメッテルニヒを相手に披露した説得術(『メッテルニヒ氏の仕事』第一部の終盤でそれは見ることができる)と現れ方こそ違うが、同じメカニズムがあるのではないか……。
とすれば、『メッテルニヒ氏の仕事』では、「始終嘘を吐くが、滅多に人を騙さない」メッテルニヒの姿が描かれるのだろうか。
メッテルニヒ氏の仕事場であるヨーロッパを大陸ではなく半島というスケールで描写する冒頭から、この作品の独特の視点が提示されている。なんとなくフェルナン・ブローデルの『地中海』を連想した。

 広大なユーラシア大陸の西の端に、概ね三角形をした半島が突き出している。底辺は白海から黒海まで約二千キロ、差し渡しはモスクワからリスボンまでで約四千キロだ。より感覚的にこの距離を捉えたいなら、こうなるだろう――春分の日グリニッジ標準時の午前三時三十一分にモスクワの東の地平線上に姿を現した太陽は、四時三十七分にワルシャワ、五時八分にベルリン、五時五十二分にパリで上り、六時三十九分、リスボンの町にその日の最初の光を投げ掛ける。モスクワの地平線に現れた太陽が地球のゆっくりした自転によって地表を東から西へと舐め、リスボンの地平線に到達するまで、約三時間掛かる訳だ。
P10~11

ある「ゲームの規則」が共有されている一地方、としてヨーロッパを巨視的に描く一方で、外交官としてのメッテルニヒを取り巻く状況は限定的に記述される。ナポレオン時代の「華々しい」多くの会戦は、アウステルリッツもイエナもアウエルシュタットもフリートラントも後景に退き、飽くまで新たな状況を作り出す要因に過ぎない。大きな状況を前にした場合の選択肢の少なさや、状況の変化によって齎される新たな選択肢を材料に、まだ若いメッテルニヒは翻弄されながら、懸命に修正を試みる。特にアウステルリッツの前後は紛争を前にした際の外交官の仕事が何なのか、がよくわかる。
また、『荒地』に於けるタレイランがそうであったように、メッテルニヒも後年流布するウィーンの洗練された政治家といった通俗的なイメージを裏切る指摘がなされている。「欲しいものを得る為に自分のものでもないものを他人にくれてやり、奪われた者には自分のものでもないものを与えて代償にP30」するウィーンの流儀は、若いメッテルニヒに外交に嫌悪感を抱かせることになる。実は、メッテルニヒの考えには、土着的、領主的な発想が根底に染み付いているのだ。
佐藤亜紀は、二十世紀の文学ベストにヘンリー・キッシンジャーの著作を挙げ、「別に歴史専攻でもないキッシンジャーがあえてウィーン会議を扱ったのは何故か、政治とは何を目指すべきものだと彼は考え、そこに至るのに何を断念したのか」と問題提起をしている。

大蟻食の生活と意見(18)

そのウィーン会議の主役を題材にした『メッテルニヒ氏の仕事』も、恐らくは同じ問題意識で書かれたものだろう、と想像出来る。完結までにキッシンジャーの本は読んでおきたいなあ。
しかし、佐藤亜紀のいくつかの作品にはナポレオンが登場するのだが、その描かれ方には本当にぶれがない。珍獣的というか。ああ、これが「極めて有能なただのおっさん『陽気な黙示録ちくま文庫版P54」か。

文学界 2011年 11月号 [雑誌]

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激しく、速やかな死

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