笙野頼子『硝子生命論』

『硝子生命論』は、『水晶内制度』の前作に位置すると看做されている。『水晶内制度』の中で『硝子生命論』を思わせる小説についての言及があり、建国者に大きな影響を与えた聖典として語られるからだ。『硝子生命論』で示される新国家のヴィジョンも、ウラミズモを暗示したものであり、さらに「そんな世界を『硝子生命論』の続篇で書きます。松浦理英子×笙野頼子『おカルトお毒味定食』P110」と笙野頼子が明言しているのだが、「『硝子生命論』の続篇」とは、『水晶内制度』でまず間違いないと思う。
だが、『水晶内制度』で登場するその小説は「ガラス生体論」であるし、語り手の名前も日枝無性から、火枝無性になっている(このネーミングは稗田阿礼のもじりであろうか。ひえだのあれ、ひえだなくせ。有れ、または在れ、と無くせ……)。つまり、微妙なずれが存在する。このことから、単純に続篇の関係が成り立つとはいい難いのではないか、と読む前から漠然と考えていたのだが、その予想は見事に外れた。
確かに、単純な正続の関係にはない。『硝子生命論』の最後に提示される人形の国は、即、『水晶内制度』に登場する国家ウラミズモというわけではなく、飽くまで、建国の祖、龍子が「ガラス生体論」をバイブルとして作り上げたものである。
そもそも、『硝子生命論』で新たな国家の建国とともに硝子生命となり(或は硝子生命となるために新たな国家を作らせ)、「あの方」と呼ばれるまでになる人形作家ヒヌマ・ユウヒと龍子との直接的な繋がりは、龍子がヒヌマ・ユウヒの作ったイザナミ人形を見た事がある以外は全くない。しかも、龍子に建国への大きなきっかけとなるミーナ・イーザのイメージを与えるイザナミ人形は、ヒヌマ・ユウヒの本分である死体人形ではなく、世間的な評価を得ている表の顔の仕事でしかないのだ。結局、ウラミズモは、『硝子生命論』の世界の核心と全く関係のない人物の手によって、その世界を一旦、翻訳、解釈された上での建国に過ぎない(このことは、政治運動の場で見られる理論と実践の乖離を示しているのだろうか。なお、正続の関係で見る場合、『硝子生命論』と『水晶内制度』の間に『レストレス・ドリーム』を入れると時系列的な意味での繋がりが見えてくるのではないかと思う)。
とはいうものの、そういった設定上の繋がり以上に、この二作品は緊密な関係にある。作品の書かれ方、構造が全く同じなのだ。どちらの作品も四章構成であり、それぞれが照応関係を持っている。
第一章の「硝子生命論」は、一読しただけでは把握が困難だ。語り手が冒頭で一冊の書物になってしまった、と語るように、読者は語り手のたゆたう意識の中に迷い込んだかのような気にさせられる。「かもしれなかった」が多用され(『水晶内制度』P126でも「ガラス生体論」に言及する際に「かもしれなかった」が現れ、『硝子生命論』の一節を切り取ったかのように錯覚させる)、何が事実かも不分明で、時間も、場所も断片となり、濃密な関係を前提とする人物同士の会話が、その文脈から取り外され、無造作に読者の前に差し出される。
この章をどのように書かれているかを説明するのは難しいが、語り手自身によって結末近くで語られているものが簡潔にして妥当だろう。

ユウヒについて、人間ユウヒが、硝子生命を見出すに至った経過を、或いは人間ユウヒの思い出について、かつて私が語り、表したという事自体が時間の順序もそれが語られた足場もばらばらになって、ただ記憶の断片として現れて来た。
P190

『水晶内制度』の第一章、「撃ちてしやまん・撃滅してしまえ」について、佐藤亜紀は『小説のストラテジー』で以下のように指摘する。

別な時間の流れに属する別な状況が折り込まれているからです。複数の時間の流れに属する出来事が入国審査を受ける亡命者/瀕死の重傷者の混乱した意識の中でひとつに縒り合わされて語られているのですが、初読でそこに気が付くのは至難の業でしょう。
佐藤亜紀『小説のストラテジー』P218

「硝子生命論」では「撃ちてしやまん・撃滅してしまえ」に見られる多声性こそまだ獲得されていないものの、このどちらの章も、「時間の順序もそれが語られた足場もばらばらになって、ただ記憶の断片として現れて」いるのは同じだと思う。
第二章「水中雛幻想」は、ゾエアが人形作家ヒヌマ・ユウヒになるまでが語られる。
抑圧的な郷里から抜け出したものの、進学先の東京の大学生活も救いにはならず、世界との違和感を常に抱いていたユウヒが、大学の卒業を間近に控えたある日、アクアビデオの夢を見る。アクアビデオという不思議な機械に魅せられたユウヒは、卒業後には郷里にまた戻らねばならない中、アクアビデオを求め、東京をさまよう。
当然、夢で見たものだから現実には存在しない。そして、存在しないことをユウヒ自身もよく自覚している。

 アクアビデオ――水の中に何かの映像を映す、例えば、何もない蒸留水の中に、照明や角度でごまかした空想上の生物、或は餌を与えずにすむ映像の海蛇、また水文鎮の景色のような蜃気楼めいた町などが、スイッチひとつで、現れて消える……いや、だがそんな事はとうの昔にそれこそウェルズのタイムマシンか何かと同じ位にSF小説の中に氾濫しているはずで、いやそもそも既にビデオの水中映像やジオラマで実現されていた。彼女が求めたのは、観念を具体化する装置だった。水の中に人形を沈めると生命を持ち、水中で人間として生き始めるという観念。いや、観念というより祈りだったのだろうか。
P68

いよいよ女子学生会館を立ち退かなければならない直前になって、ユウヒは水をたたえた浴槽にプラスチックの人形を沈め、そこへ顔を突っ込み、観念が具体化する幻を見る。
これは読んでいて思わず声が出てしまった。まるで入水自殺だ。
「水中雛幻想」は、語り手が、一冊の書物になる前に「傲慢な姿勢のままで」書いた作品であると記されている。『水晶内制度』の第二章、「わが伴もここに来む・自分の仲間に来てくれ」でも滞在記と断りがあり、作中内で独立したものとして、形式面での共通点があるのかもしれない。だが、『水晶内制度』第三章「ぬえくさの 女にしあえば・なえた草のような女だから」の前半でウラミズモが成立するまでが語られる部分で、龍子の前半生が描かれるのだが、ここで龍子とユウヒを対比することも可能なのではないか。「水中雛幻想」で、孤独の中、狂気と理性の狭間で芸術家としての自己を発見するユウヒの切実さと、「ぬえくさの 女にしあえば・なえた草のような女だから」での、神懸かり的な教祖龍子のどこか上滑りする感じと……。
『硝子生命論』の第三章「幻視建国序説」は、語り手が一冊の書物になるに至った決定的な出来事が語られる。電気仔羊の処刑だ。
その名前の通り、新国家成立のためのスケープ・ゴートにされる電気仔羊だが、その人物描写が興味深い。

 会がお開きになると、電気仔羊は私達に背中を押されるまま、女奴隷に囲まれたハレムの当主のように、傷ひとつない透明なにやにや笑いを浮かべながらおとなしく私達の部屋に入った。主催者の紫明夫人と同じ部屋である事に満足を感じた様子だった。さっそく演説を始めた彼女を私達は自然と囲んでいた。常に勝ち続けていると同時に、常に被害者でありたいという矛盾した演説……。
 ――私はそう、いつもマイナー、選ばれた被害者、純粋で無垢、透明な硝子。
P161~162

「常に勝ち続けていると同時に、常に被害者でありたいという矛盾」とは、後年、「おんたこ」と笙野頼子が名付ける人格類型の萌芽に思えてならない(電気仔羊の人物造形は『母の発達』でもまた生け贄とされるシンディ・ウエハラにも響いているが)。

実録・「おんたこ」とは何か - Close To The Wall

今でこそ、こういった人格類型はネット上で可視化されるようになったが、笙野頼子は、これらの存在にいち早く気付いていて、90年代の初頭から鋭い批評の対象としていた。「おんたこ」を、2000年前後を境とする、国策にまで成り上がったおたく文化批判であったり、反権力という名の権力を行使する左翼批判だと単純に受け止めては(勿論それは重要な論点なのだが)、多くのことを見落としてしまうだろう。さらにいえば、「おんたこ」とは外部切断出来るような、操作可能な「敵」概念でもない。我々の内に潜む「おんたこ」性にこそ戦慄すべきなのだと思う。
さて、電気仔羊の処刑は、「あらゆるタブーを破る事で生まれる国家殺し。P177」の一環なのだが、処刑を目前とした電気仔羊が口にする「透明」という言葉は、『硝子生命論』では重要な意味合いがある。

 透明を許されず透明を志向するもの、透明に生まれながらそれを永遠に失ったもの、そんな特異な硝子だけをユウヒは好んだ。ユウヒにとってはただの透明というのはもっとも許しがたく、硝子の透明度は矛盾の果ての犯罪でなくてはならなかった。
P40

これは、ユウヒの単純な好みだけに留まらない。マイノリティとマジョリティの関係を含んでいる。

 ――男性にも、硝子生命は必要なんだろうか。
 ――いらない、基本的には……(ユウヒは笑った)だって、硝子という言葉を出さなくても、世界中の制度が彼らの硝子を支えているのでしょう。彼らは、透明、と発音しさえすれば透明になれるから透明が苦しくない。有難みもない。
P47

マジョリティは透明な硝子、マイノリティは屈折した透明ではない硝子、という理解が出来るだろうか。これは、「有徴」や「無徴」といったキーワードで考えることが出来るかもしれない。「無徴」のマジョリティは、「有徴」のマイノリティに対して、一方的に名付ける権力を有している。

 こむつかしい ことばで「有徴(ゆうちょう)」って いいますね。医者に たいして、女医という。文学にたいして、女流文学という。医者は「無徴(むちょう)」で、女医は有徴です。「しるしが ついている」ってことです。「ふだが ついている」と いっても いいですよ。無徴のほうは、特徴がないと いいますか、それが標準と いいますか、「余分なラベルが ついていない」。
だれでも ない あなたへ(ベジタリアンには名前がある。では、あなたは?)。 - hituziのブログじゃがー

『水晶内制度』での龍子の主張は、明確にこの事を示している(ただしこれは文末の断り書きにもあるように、語り手の主張でもあるのかもしれない。龍子の主張や神話の創作は、語り手によって改めて語り直されていて、龍子の思想と語り手の思想とが矛盾せずに融合させられている。『硝子生命論』でユウヒが語り手を欲し、そのため語り手が一冊の書物になってしまったことを考えると、ユウヒと龍子を対比させるのは強ち間違っていないかもしれない)。

 男はいつも恣意的に女を見えなくしたりケガしたりする権利を持って生まれて来る。どのような女を売春婦と呼ぶかどのような女を更年期と呼ぶかそれは男が恣意的に決定するし、また別に相手に対する罵倒語を使わなくともただOLとか芸者、と女の労働者を区分けする語を言うだけでも、また女子高生、などとただ呼ぶだけでも言いようによっては女にケガレを押しつけ、その姿を見えなくする効果がある。例えば作家女を女性作家と呼ぶ時、たとえそういう女流よりはましな呼称で呼んだ時でも、男が呼べばその女達は見えなくなる時がある(この三行は神話の序章に私が書き足した)。
『水晶内制度』P128~129

電気仔羊の処刑で中心的な役割を担い、その最中に猫になってしまう双尾金花と猫沼みゆという二人の人形愛者がいるのだが、『水晶内制度』の第三章「ぬえくさの 女にしあえば・なえた草のような女だから」でも、ウラミズモのエリート養成校の卒業記念に男の公開処刑が行われ、そこに二尾金花(ここでも名前の変換が行われている)の孫娘とされる二尾銀花と、猫沼みゆとの関係は示されないものの、その親友である猫沼きぬが登場し、やはり処刑を主導する。

 電気仔羊はいきなり嘔吐し始めた。その口を金花が透明な爪を立ててこじあけていた。反吐の吐き易そうな喉に新幹線の中で買ってきた雑誌を丸めて私は押し込んでいた。薫子が仮面のような顔に包丁を立てると触れただけでスパッと真っぷたつに切れて中から夥しい絵具のような血液が噴出した。みゆがベッドの上に立って持参した紐で上から首を締めた。濁った音が仔羊の体から漏れて、床の上にはばたばたと大量の巨大な原色の回虫、糞便にまみれた刻んでない糸コンニャクの束が落ちた。反吐に汚れた雑誌を私が抜き取ると、みゆがにゃんにゃんにゃん、と叫びながら硝子文具をひとつずつその頭にぶつけて硬度を試し始めた。が、そんなことぐらいで死ななかった。何度繰り返しても彼女の体からは決して透明でないものが流れ出した。そのため夜を徹して、殺し続けるしかなかった。
『硝子生命論』P165

 赤ちゃんの真っ白な産着でくるまれて捩じれた餅のように上からロープで縛られ、籐だけで出来た車輪を外した巨大な乳母車の上に、彼は載せられているのだった。産着の布は冬のもののように厚く何重にもなっている。その布越しに、時々ブザーのような音が規則的に漏れて、くるまった真っ白な布の端がぴくと震える。おむつをさせていないと言っていたはずの、乳母車の籠編みの目を通してぽたぽたと液体が床に落ちる。その音が遠い雨のように妙に胸にしみ入る。
『水晶内制度』P227

ふたつの処刑には類似点が多いが、違いも多い。処刑される者の排泄行為ひとつとっても、電気仔羊の場合は「透明でないもの」が流れ出すという、失踪したユウヒを呼び出す呪術の成就を左右する要素だし、もし、この殺人でユウヒが現れなければ、さらなる犠牲者を処刑人の中から選ばなければならないのである。一方で、ウラミズモにおける処刑は、『水晶内制度』の語り手が作り出すウラミズモ建国神話とは違う、『硝子生命論』での人形の国の建国神話の反復だと思うが、共同体の成り立ちの確認行為という儀式的意味合いが考えられるにせよ、徹底して無用な虐殺という点でキッチュさが際立つ。
第四章「人形歴元年」では、この殺人の後、語り手が、それまでの世界と完全に決別し、硝子生命となったユウヒに導かれるようにして、人形の国を幻視する。
これは『水晶内制度』も同じで、語り手は第四章「世の尽々に・生命終わるまで」の最後で、凄まじい屈折を抱えながら祖国万歳を唱えるのだが、これは処刑の光景を目の当たりにしたのがきっかけで、日本国との縁が完全に切れてしまったためではないだろうか。
ところで、『硝子生命論』では、この殺人以前に重要なターニング・ポイントが存在すると思う。
ユウヒを偲ぶ会(処刑が行われる会である)に招待された語り手は、会場に向かう途中に立ち寄った喫茶店にあるアンチックドールの前で「世界が大きな、接合する二体のアメーバのように感じられ」、「向こう側に私の知らないそれ故に恐ろしく思える世界」、「こちら側にぼろぼろになってしまって使いものにならず、そのせいでもう今までの馴れや親しみさえ失われてしまった世界」の間にいることを自覚する。そして、ユウヒを偲ぶ会自体が、語り手を陥れるためだけにでっち上げられたものであるという疑心暗鬼を抱えながら、会場へと赴く。出席者は皆仮名で、言動も何やら芝居らしく、ますます語り手は疑念を深めていくのだが、突然、ある考えに思い至る。

そして、私の頭の中に稲妻のようにある納得が出現した。人間の形をした六体の生き物が食事や会議に使うテーブルを囲んでいる。が、それは六本のホルマリン漬けの標本を浮かべていた瓶に過ぎない。その瓶が一本の紐で、例えば、カメノコや上海蟹を藁で結び付けたもののようにくくり合わされている……それぞれが孤立しているくせに各々の幻想をサナダ虫のように繋げていく事で生じて来る幻想の共同体、死体人形作家のヒヌマ・ユウヒに恋人を与えられて、孤立しながら性愛を解放して暮らす事が出来た人間達はそんな形でしか共存できない。いや、そんなふうにしか私は世界を解釈する事が出来なかった。
 それが判った時、自覚していた。ドアを開けた時、私はもう同時進行で物語の世界に入り込んでいたのだ。
P129

「物語の世界」に入り込んだ時点で、語り手は既に引き返せなくなったのだ。以降、語り手は「物語の世界」で割り振られたかのような役割を、淡々とこなすようになる。
「物語」とは、死体人形を必要とするに至った「物語」であり、死体人形にまつわる「物語」であり、「幻想の共同体」を支える「物語」であり、人形の国の「物語」でもある。

 今まで聞いたこともない物語が、国家の始源となる単純な言葉が私の口を借りてこの空間に放たれ、しかもその言語のひとつひとつの意味は私にはまったく取れなくなってしまっていた。
P184

『硝子生命論』で人形の国が生まれるまでにあらゆる「物語」が動員されるのに対して、ウラミズモでは「物語」は公式では存在しないものとされる。

 この国には公式には「物語」という語はない。例えばストーリーだけを取り出して小説を評価する事を人は蔑む。やむを得ぬあらすじというものがもし出来るならば、それは全人的必然性と呼ばれ、常にストーリーは人間性や動機に従って発生するものという建前なのだ。それ故、神話もまず教祖の苦しみから始まるのだった。
『水晶内制度』P118

これは果たしてどんな意味だろう、と初読時に不思議に思った。底の浅い純文学批判を想起させるものでもあり、その文脈に引きつけて解釈していたのだが、『硝子生命論』で「物語」が果たした意味、さらには、ウラミズモでは人形愛者が分離派として、同性のパートナーが存在する一致派と反目していることを踏まえると、ウラミズモは人形の国ではないことを示すのだろうか。

硝子生命論

硝子生命論

佐藤亜紀『醜聞の作法』

すぐには読まない。
まずは、ぱらぱら捲る。
第一信から第十八信まである。
おお、これは書簡形式であるな。『危険な関係』あたりのパロディかな。
覚え書き、とはなんであろうか。これが第四まである。
そして冒頭から邪悪な語り口。警戒して正解であった。

新刊ですので続きを読むで。

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アラン・ロブ=グリエ『快楽の館』

近所の品揃えの悪い無個性な郊外型書店で『快楽の館』の文庫本を見掛けて腰を抜かした。その隣にはル・クレジオの『大洪水』が並んでいる。ヌーヴォー・ロマンなんて忘れ去られたもの、とされた頃に小説を熱心に読んでいた人間からすればこれは大事件である。小説を読むという習慣を忘れて久しいが、知らない内にヌーヴォー・ロマンはすっかり定着してしまったものらしい。
アラン・ロブ=グリエという名に特別なものを感じるようになったのは、筒井康隆の『虚人たち』を読んだ時から、だと思う。
青春時代に彼の愛読者だった多くのひとにとってそうだったように、筒井康隆は何よりも教師(それも熱血、だと思う)であった。『虚人たち』の構想ノートであると思われる「虚構と現実」(『着想の技術』収録)でロブ=グリエはやや批判的に触れられているのだが、そこには筒井康隆の、ロブ=グリエへの対抗意識が見えるような気がして、むしろ興味が掻き立てられた。あのすごい小説を書いた先生が嫉妬する作家とは一体何者なのだろう、というわけである。
当時は講談社文芸文庫に入っている二作しか手に入らない状況だったが(そして現在もその状況はあまり変わってはいなかったのだった。ただ、十年以上絶版にならずに出回り続けていることは定着したとはいえる)、それでも、熱狂するには十分だったし、小説を読む上での基本的な考え、大げさにいえば小説観はアラン・ロブ=グリエのおかげで大分広げられたように思う。
さて、『快楽の館』は、その講談社文芸文庫に収められている『覗くひと』と『迷路の中で』に続く三冊目の文庫であり、執筆年代も一番新しい。といっても1965年の作品だが(今後も他の作品が文庫化されると嬉しいなあ。河出書房から出るなら『消しゴム』か)。
時間が停止した、或は無限に引き延ばされた中で、影絵的に配置された人物がある場面を演じている。近寄ってみると、それは自殺を考えている青年だったり、考え事をしている「アメリカ人」だったりする。かと思うと、どこからか誰かの、言い争う声がする。
その時間は巻き戻され、または早送りされるのだが、同じ配置の場面が再度現れても、その影絵は着色されるとまるで違う人物である。言い争いの声も、発話者が代わり、同じ言葉でも全く違う意味に置き換わる。
停滞し、進み、戻り、また停滞する時の中で、そんなことが何度も何度も繰り返される。こんなことを書くと無教養をさらしそうだが、この繰り返しには殆ど音楽的な快楽があると思う。同じ主題が姿を変えて変奏される時の、あのえもいわれぬ高揚感がそこにはある。
ロブ=グリエは視覚描写に徹底的に拘り、視線派とも呼ばれた作家だが、この作品では、色数が極端に制限されている。
欧亜混血の侍女」キムが着ている恐らくチャイナドレスは、ある時は白、ある時は黒。彼女の連れている黒い犬、中国人の穿く黒いクーヅ、ローレンの白いローブ、白阿片。
モノクロームの世界だな、と思ったが、どうやらこれはネガフィルムの世界のようだ。

しかし、たぶんその日に見た何枚かのカラーのネガ(褐色を主調としたアグファカラーと、パステル・ブルーの色調を持つ日本の富士フィルム)が、やがて私の頭のなかで別の想像上の街々、別の幻影のジャンクに、彫像のように理解不能で誇張的な身ぶりとなって永遠に凝固した別の人物たちになっていったのだろう。
(『映画と小説との二律背反』松崎芳隆氏・訳)
P198

「褐色を主調としたアグファカラーと、パステル・ブルーの色調を持つ日本の富士フィルム」。これはこの作品の舞台である娼館ヴイラ・ブルー、青い館や、麻薬の入った褐色の封筒のことを想起させる。
そして、パステル・ブルーや褐色の世界を基調に、鮮やかな色が配置される。

長い街路には歩廊があり、その太い四角の柱は上から下まで四つの面とも、大きな漢字の縦の看板でおおわれている、黄色のバックに黒、赤のバックに黒、白のバックに赤、緑のバックに白、黒のバックに白といった看板である。
P126

黄が黄金、白が銀色も含むものだとすれば、これらがこの小説に登場する全ての色の筈である。この中でもとりわけ、赤が強調される。
太った男の赤ら顔、赤く塗られた人力車、ハイビスカス、黄色とも赤とも見える長椅子、赤いベンツ、それから、鮮血。
なお、視線といえば、この作品でのアジア人を眼差す視線が、まんま植民地を見る白人、といった趣きなのだが、素でやってるのか、批評的な意図があるのか判断に苦しむ。植民地根性丸出しの白人が醜く描かれていることからも、やはり批評的な意図を汲むべきであろうか?

快楽の館 (河出文庫 ロ 2-1)

快楽の館 (河出文庫 ロ 2-1)

音楽で読む『なんとなく、クリスタル』

『なんとなく、クリスタル』はブランド小説と揶揄されたそうだが、実際は音楽タイトルのほうが遥かに多く、洋楽カタログ小説といったほうが事実に近い。
しかし、登場するファッションブランドの多くは今もなお残っているが(定着した、というべきか)、音楽ははやり廃りが激しい上、個人的に1980年頃となるとジョン・ゾーンキップ・ハンラハンといった当時のニューヨークのアンダーグラウンドシーンか、ワールドミュージックくらいしかフォローしていないので(実にありふれた音楽の聴き方である)、同時期にアメリカのヒットチャートを賑わした類いの「洋楽」は恥ずかしながら殆どわからない。
その上、まだレコードの時代なので、後にCD化されても、アナログ時代と同じように出回るものでもなく、中古屋で安く手に入れるのも難しい。
かつてならそこで、さようなら、クリスタルたちとなったわけだが、今はYouTubeというものがある。AORといえばスティーリー・ダンマイケル・フランクスくらいしか知らなくても、おかげで一通り確認することが出来た。
そして驚きの事実。
結構良い曲が多い。
なんとなく聴いて耳に気持ちのいい音楽を集めてこれ、というなら結構センスがいいと思う。
音楽オタクはライナーを貪り読んでは無駄な知識を仕入れ、共演ミュージシャンから辿って意外な人脈に突き当たってはさらに人脈を広げ、収集地獄のドツボに嵌るというのに。果てはカンタベリーロックの系統図を作ったりするというのに。
ただ、田中康夫は註でバイオグラフィーでミュージシャンを評価していたりするので、気持ちのいい音を云々、というのは実態とはちょっと違うんではなかろうか。

Willie Nelson - Moonlight in Vermont

冒頭の第一曲目。なんとこの小説はウィリー・ネルソンから幕を開ける。
由利が起き抜けにつけたFENから流れる。

On e On - Stephen Bishop

続いてFENから流れるのはスティーヴン・ビショップ
メロウな曲が続くので、由利は朝から調子が出ないと思っている。

Kenny Loggins Wait a Little While

そこで由利は「ハップ」になれる曲として、ケニー・ロギンズを挙げる。
これ、悪くないけど朝からかかってたらどうかなあ。

Paul Davis - I go crazy

由利はこの曲に合わせてアイ・ゴー・メランコリー、アイ・ゴー・グルーミーと思う。
ここで、この小説は音楽のタイトルや歌詞でその時の登場人物の心理描写、もとい説明をしようという仕掛けが明かされている。あまりに直球過ぎて上手く機能しているとはいい難いが。

Antonio's Song - Michael Franks

『アントニオの歌』は大好きです。UAもカヴァーしてますね。

IN MEMORY OF KENNY RANKIN

ケニー・ランキンはマイケル・フランクスと共に、雨の日に聴くとメランコリーになる曲として挙げられる。

Bob Seger - Against the Wind

FENから流れる曲はポール・デイヴィスからボブ・シーガーへと移る。
この間に由利のとりとめのない話がだらだら続いているので、不意にFENに戻って驚く。田中康夫はこういうことをやるから油断出来ない。現在ー過去ー現在と時制を往来させる手法は、回想パターンとしては大変オーソドックスだが、田中康夫は描写に濃淡をつけず、現在と同じ密度で過去も描かれるため、なんだかベタっとした感触になる。

Robert Palmer-Every Kind Of People

UKのミュージシャンはこれが初出。

Ashford And Simpson - Solid

モータウン出身アーティスト。モータウン系のアーティストの国内盤はカタログ落ちしないという神話がかつてあったらしいが、2000年代に入るとマーヴィン・ゲイですら入手困難盤があった。最近復刻ブームでまた持ち直してきてるのかな?

Kool And The Gang - Too Hot

クール・アンド・ザ・ギャングはメンバーがネイション・オブ・イスラムで、70年代にはどす黒いジャズ・ファンクをやっていたのに80年代にはこのようなポップミュージックになった。時代の変化だなあ。

エアプレイ airplay She Waits For Me

いかにもAORな曲。淳一を待つ由利が聴くのがShe Waits For Meというチョイスは実に素朴。基本的に一事が万事この調子である。
ここまでがFENのセットリスト。

The Dramatics "In The Rain"

ここから過去のディスコでかかっている曲。
これはいい。SEがミュージック・コンクレートっぽい。

TURN OFF THE LIGHTS BY TEDDY PENDERGRASS(WITH LYRICS)

テディ・ペンダーグラスのDo Meはドリフのヒゲダンスとして有名。

Boz Scaggs - We're All Alone

おお、これは聴いたことあるぞ。

Christopher Cross - Ride Like The Wind

ニューヨークシティセレナーデArthur's Themeはテレビでもよく流れてた。

あの日にかえりたい

ユーミン
バックがティン・パン・アレー

註234
歩六分洋966DK8東南角眺陽秀十階建七階築二年冷暖付閑静環秀即入可といったイメージが、ありそうだと思いませんか?

と仰られましても。

DICK ST. NICKLAUS - Magic

註265
元、ギングス・メンのメンバーだったという、ポップ歌手屋さん。大阪のサーファーが輸入盤店で発掘したとかいわれておりますが、本当は、ヤラセとヨイショの計画が大成功しちゃったんですよね、エピック・ソニーさん。

と仰られましても。

松山千春  恋  1980

チー坊。歌上手い。だが田中康夫はフォーク・シンガーは嫌いなようだ。

註301
「地方の時代」ブームに便乗したフォーク・シンガー。北海道、北海道といいながら、全国を飛び回って若年寄きどりに人生哲学を説き、お金持ちになる。父親を自分の会社の役員として迎え、“核家族時代の親孝行”を教えてくれた。

えーと、「地方の時代」ブームに便乗した政治家知ってます!
しかし「地方の時代」ブームも長い。

チャンピオン : アリス

かっこいい。けど康夫的には湿っぽいんだってさ。

さだまさし / 案山子

さだまさしはわたしもあんまり好きじゃないなあ。

LITTLE RIVER BAND - It's A Long Way There (Full Version)

オーストラリアのバンド。
プログレっぽい。

Peter Allen - Don't Cry Out Loud (Radio City Music Hall Live).mpg

由利は夏休みを利用してオーストラリアでこれらのレコードを買い漁っていた。
輸入盤なんて日本にいては買えない時代があったのです(「なんクリ」の註風)。

Carole Bayer Sager - You're Moving Out Today (1977) HQ

バート・バカラックの元奥さん。バカラックとのコンビのほうがやはりいい。

Paul Parrish - That's the way of friends

CD化されていない。

Bill LaBounty _ Livin' It Up

AORファンにはすごく有名なひとらしい。

Steve Gibb "Tell Me That You Love Me"

『なんとなく、クリスタル』のテーマソング。なんと歌詞が全引用される。由利の心情、気分の説明として。直球ここに極まれり。
これも未CD化。入手は非常に困難。

The Spinners - Could It Be I'm Falling In Love

これもいい。

The Stranger 訳詞付 / Billy Joel

註401 ビリー・ジョエル
ニューヨークの松山千春

そんなに松山千春が嫌いか、康夫。

Donna Summer - Bad Girls

「AIDSはゲイに対する天罰である」発言が有名だけど、wikipediaではデマだったと書いてある。

註403 ラッシズ
ソウルっぽい、ファンキー感覚のある、レゲエ・グループ。

これだけがわからない。1980年の『メロディ・メイカー』でベスト・レゲエ・アルバムに選ばれたジャマイカ出身のヴォーカル・トリオらしいのだが。架空のバンドだったりして。そんな気の利いたことやるかな。

Ian Dury - Hit Me With Your Rhythm Stick 1978

直美の医学部の彼はレゲエやロンドンのニュー・ウェーブを聴いていて、ニューヨークや西海岸の音楽を聴く淳一たちの好みとやや違う。

I GO TO PIECES BY RACHEL SWEET

イアン・デューリーと共にスティッフ・レーベルのミュージシャンとして挙げられる。アイドルといっても、歌上手い……!

Mark-Almond - Other People's Rooms (1978)

ここから淳一の好み。Mark-Almondで探すとデュオではなく同名のソロアーティストが出て探すの大変でした。

Seawind Light the light

この動画では渋谷陽一の「チャカ・カーンよりポーリン・ウィルソンの方が上」というテロップが流れるが、確かに上手い。

Rupert Holmes - Him

註415
アレンジャーとしても知られる、ニューヨーク派シンガー=ソングライター。ビリー・ジョエルが、成り上がり的ニューヨーク派ならば、ルパート・ホルムズは、具体的な場所や風景を固有名詞で出すことにより、ある限定されたクラスの生活が浮かび上がるようになっている。そこに描かれる人は、ビリー・ジョエルの場合と異なり、自信を外へ出そうとはしない人たち。

ビリー・ジョエルも相当嫌いか。
それはさておき、この註は『なんとなく、クリスタル』にも当てはまる。この註で、この作品のコンセプトが全ていい尽くされている。

HENRY GAFFNEY - Mack The Knife(1978)

AORの人気歌手らしい。康夫も詳しくは知らないとのこと。

Tom Waits - Heart Attack and Vine

ルパート・ホルムズ、ヘンリー・ギャフニー、トム・ウェイツは渋い男性ヴォーカルとしてひとまとめに言及されているが、トム・ウェイツは毛色が違うんじゃないかなあ。
id:quagmaさんにご教示頂いたのだが、先日亡くなったキャプテン・ビーフハートに歌い方が良く似ている。この追悼記事にもあるように、深く尊敬していたようだ。

トム・ウェイツやシンプソンズの作者マット・グレイニングがキャプテン・ビーフハートを悼む (2010/12/22) 洋楽ニュース|音楽情報サイトrockinon.com(ロッキング・オン ドットコム)

Jackson Browne - The Load Out / Stay - Live 1978

とてもリベラルなおじさまらしい。

Bob James - The Golden Apple

後期ソフトマシーンに近いかな。
アルバムタイトルの付け方も似てる。

註420
ジャケットのアイデアには感心しています。ただ、それだけ。

Richard Tee - Strokin'

註421
ジャズとか、フュージョンって、ポップスより高級だと真剣に思っている人が、多いんですよね。悲しくなってきちゃいます。

淳一はフュージョンバンドでキーボードをやっているのだが、康夫はなぜこの職業を選んだのだろうか。

Jim messina - Seeing You (from Oasis 1979)

最後。
これだけの音楽タイトルが登場する中で、ウィリー・ネルソンで始まり、ジミー・メッシーナで終わることの意味はなんであろうか。
ちなみに、由利はこの曲を聴きながら、淳一との高圧電流が流れるセックスのことを人前で我を忘れるくらい考えている。
そうですよね、意味なんてないですよね。

なぜならかつては島田雅彦派だったから

映画『ノルウェイの森』の番宣でメアリー、メアリー、と陰鬱な調子の歌が流れてて、ビートルズにあんな曲あったっけ? と一瞬考え込んでしまった。あれは勿論、CANのMary, Mary So Contraryであり、てっきり『ノルウェイの森』=ビートルズ垂れ流しだと思ってたわたしはビートルズはつまみ食い程度で、村上春樹は全然読んだことがない*1。CANが流れるなら今度読んでみようかな。

Can - Mary, Mary So Contrary

*1:万年最下位のチームのファンが常勝軍団に敵対心を燃やすようなもの。

田中康夫『なんとなく、クリスタル』

小説には、二種類ある。あらすじを要約するべきものと、そうでないものと。

学生でモデルをやってる由利は同じく学生でミュージシャンをやっている彼と同棲中。その彼、淳一はコンサートツアー中で、由利は雨の降る中、ひとり部屋で退屈をかこっている。友人に電話でもして気を紛らわそうとするが、生憎心当たりがない。そういえばこの前ディスコに行った時にナンパして来た正隆の電話番号があった。そこで正隆に電話をして、ちゃっかりホテルでアバンチュールを楽しむものの、精神的な繋がりがないからビリビリこなくて、このひとは淳一とは違うな、と思いつつ、私たちの世代はクリスタルだよね、と意気投合し、でも一晩限りの関係で終わり。そうこうしてると淳一が帰ってきて、淳一とはやっぱビリビリ来て、やっぱり淳一とじゃなければ駄目だと思う。そもそも同棲っていうのもなんとなく、クリスタルな自分たちには湿っぽいから、共棲っていいたい。だってお互い、経済的に自立した上での関係だし、それはクリスタルなアトモスフィアなんだ。十年後にもシャネルのスーツが似合うようでいたいな。

以上がこの小説のあらすじである。
この作品の売りのひとつである442の註は巧みな技量を持つ書き手ならば、本文の中に落とし込むことが出来るものだし、もしそのように書かれていれば、作品を要約したくなる誘惑にも駆られなかったに違いない。そもそもこれらの註は特にこの小説のためにしつらえたものではなく、のちに『ペログリ日記』で見られる、作家の意見表明の文体と全く同じものだ。というか、小説の世界から分裂していったのだろう。本来、田中康夫の作り出す小説世界には不要なものだった、と思う。
文藝別冊の田中康夫特集で、武田徹が『なんとなく、クリスタル』に登場するブランドネームはシフター(構造主義言語学者ロマニ・ヤコブソンの言う現実社会に指示対象がある記号、と武田徹は説明している)であり、註はその意味作用の種明かしだ、と指摘しているが*1、ブランド群に意味作用があるとは到底思えない。むしろ、ブランド自体にはなんらの意味作用がないものとして読むほうが余程「クリスタル」な読みではないのだろうか?
また、田中康夫長野県知事になったあたりから指摘され始めていたと思う、巻末の「出生力動向に関する特別委員会報告」「厚生行政年次報告書」はなんだか取って付けたような代物で、さほど効果を上げているとは思えない。こんなもんで作品の価値が上がるなら作家はこぞって付けますよ。
というわけで、たぶん誰にも読まれてないし記憶にも残っていないであろう『ハッピー・エンディング』のほうが全然良いと思う。
だから、この小説の意義は、1980年前後に東京近郊で大学生活を送った、学生運動が完全に終焉し遠い過去のものとなった若者たちが主役の、青春小説としてであり、散々試みられているのだろうが島田雅彦の『優しいサヨクのための嬉遊曲』あたりと対置してみるべきものであろう(この記事を書くために読み返してみたが『なんとなく、クリスタル』に比べると『優しいサヨクのための嬉遊曲』は随分出来が良い)。

 正隆は、しばらく黙っていた。
 そして、
「生活感覚が似ているのかな、君たちと」
 と言った。
「クリスタルなのよ、きっと生活が。なにも悩みなんて、ありゃしないし……」
 と、私が言うと、彼は、
「クリスタルか……。ねえ、今思ったんだけどさ、僕らって、青春とはなにか! 恋愛とはなにか! なんて、哲学少年みたいに考えたことってないじゃない? 本もあんまし読んでないし、バカみたいになって一つのことに熱中することもないと思わない? でも、頭の中は空っぽでもないし、曇ってもいないよね。醒め切っているわけでもないし、湿った感じじゃもちろんないし。それに、人の意見をそのまま鵜呑みにするほど、単純でもないしさ」
 そう言って、タバコの火を消した。
「クールっていう感じじゃないよね。あんましうまくえないけど、やっぱり、クリスタルが一番ピッタリきそうなのかなー」
P124~126

ピロートークでの、このわりと締まりのない会話が、青春小説としての『なんとなく、クリスタル』を良く表しているように思う。
それでもなお、小説として評価しようとするならば、例えば、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』と通じる部分はあるかもしれない。

 無論、何とも浮き世ばなれした話だ、とは思った。誰も彼もえらく呑気だ。色に狂ってなければ、社交界での栄誉栄達に奔走するばかり。実に瑣末なことで死活を決する問題であるかのごとく大騒ぎする。だが、「政治」とはそう言うものだ。硝子で出来た小さなコップの中では、一朝そのコップが割れてしまったが最後、無よりもはかなくなってしまう瑣末な事柄が象徴的な意味を担い、象徴的な意味は象徴的な死活に結びついている。そこでの浮沈は全て、象徴の行使次第なのだ。ヴァトー、ベートーヴェンバルザック。アンリ四世時代の階段や最上のポルト酒。私たちならもっと俗な、もっと直接身に迫ったものを使うだろう。私たちの暮らす社会がスノビズムの表現を別様に規定するからだ。だが、人間の欲望自体が緯度経度の影響を被る訳ではない。
佐藤亜紀『戦争の法』新潮社文庫版P232

しかし、『戦争の法』の語り手が『失われた時を求めて』から引き出した普遍性を、『なんとなく、クリスタル』の作品自体はいくらなんでも備えてはいないように思う。
あと、これは田中康夫作品全般の欠点であるのだが、女性の書き分けが全然出来てない。三人以上出てくると誰が誰だかさっぱりわからなくなる。『ペログリ日記』の作者がそれでいいのか。
主人公にして小説の語り手である由利は聞いてもいないのに色々身の上話をしてくれる。そのお陰で、スリムジーンズを履く自信がないとか、愛飲しているメンソールの銘柄や、ブランドに対するスタンスなどの一見無駄なおしゃべりから、由利の性格がわかるようになっている。その人物を描写するのにブランド等の嗜好からアプローチすることが可能である、というのが田中康夫の非凡な着眼点で、今でこそ当たり前になっているかもしれないが(ブランドの嗜好に限った話ではなく、どんなアニメが好きだとか、どんな音楽が好きだとか、からキャラクターを作り上げるのは今ではよく見る光景ではなかろうか)、これは田中康夫の最大の成果といっていいだろう。
と同時に、それは田中康夫の小説にとっての致命的な欠点にもなり得る。ひょっとして彼は、一人称で語られるブランドの嗜好等の力を借りずに人物の描写が出来ないのではあるまいか。
由利のモデル仲間の直美はまあいいとして(あんまりよくない。モデルという職業だけでかろうじて判別出来る)、どちらも大学生の友人である早苗と江美子の違いとなると……えーと。説明出来る方、どこかにおられませんか!

なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

*1:武田徹は「シフター」を用いてケータイ小説も論じている。便利だなあ、「シフター」。勉強しよっと。http://162.teacup.com/sinopy/bbs/808

世界が破れる磁場

同じ力関係の者同士が対立しているのであれば「中立」というのはあり得るかもしれない。しかし圧倒的に力の強い側と圧倒的に弱い側とがあったときに、中立というのは強い側に協力していることになる……”と。水俣病に限らず、また医学に限らず、さまざまな局面に通じることばだろう。
「中立」について - apesnotmonkeysの日記

「たとえば、好きでもない王子に「王子様、愛してます」と言うというのが、王子様に対する侮辱の言葉になるか、あるいはすごく卑屈な言葉になるかというのは、その磁場の問題じゃないですか。」という「磁場の問題」とは、こういった、権力関係の問題でもあるだろう。
そして、「正確なテンポを刻むドラムの上から言えば、あらゆる言葉が恐ろしい効果を持ってしまう」とは、裏を返せば「歪んだテンポを刻むドラムの上から言えば、あらゆる言葉が歪んだ効果を持ってしまう」ことに他ならない。
ヘイトスピーチの、腐臭を放つようなクリシェが命を脅かすような力を持ち得るのは、背景にある歪んだテンポ=権力がそうさせているのであって、その言葉自体が何かしらの特別な力を持っているわけではないと思う。それくらい、差別主義者の口から出る言葉は無惨だ。

マイノリティへの差別と表現の自由 - Togetter

金明秀さんのこの一連のツイートは、「言語国家と「私」の戦争」を理解する上で、非常に重要なものだと思う。
『レストレス・ドリーム』が発表されたのは1994年だが、着想はそこから八年遡るという。笙野頼子のその間の問題意識が、今なお、こうしてアクチュアリティを持つのを、「作家の先見性」としてのみ消費するべきではないだろう(そして笙野頼子を語る際には常にその誘惑がある)。
前衛作家であるからこそ、我々は笙野頼子の影を踏むことしか出来ないには違いない。だが、笙野頼子が輝かしい受賞歴とは裏腹に、不当に無視されたり黙殺されているとすれば、それはその前衛性故ではあるまい。