笙野頼子『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』

前作の『だいにっほん、おんたこめいわく史』で首つり自殺した埴輪木綿助の死霊は、妹を探し求めていた。その妹であるいぶきは、職員として面接を受けに行った火星人遊郭でなんらかの形で殺されており、兄と同じく死者として蘇っている。まことにおんたこの世である。
いぶきは死者たちの語りによる自分史と「笙野頼子」による評論が載るパンフレットを片手に、S倉の駅前を逍遙している。
この時代、2060年には「おんたこ」が完全に権力を掌握し、その極端な「ネオリベ」的中央集権政策の結果、S倉のような地方は「ぐさぐさ」になって、挙げ句には死者が蘇る世の中になってしまっている。
死者は国家から邪魔にされたものとも説明され、国家、特に「おんたこ」に対して何らかの恨みを持っている者も少なくない。火星人遊郭で死んだ遊郭の少女たちはその最たるものだ。
S倉の隣には、利根川の橋を隔てて『水晶内制度』に出て来た女人国ウラミズモがある。ウラミズモからやってくる密売人が売る美少女フィギュアに、火星人遊郭で死んだ遊郭の少女たちの魂が入ると、生命を吹き込まれたように動き出す。
この、小さくて動く、魂のある美少女フィギュアは「おんたこ」にとっては至上の価値がある。禁制品にも関わらず買い求めて来る「おんたこ」に、美少女フィギュアの中に入った彼女たちは復讐をする。
いぶきは、その「フィギュア入り」を支援するために、遊郭の少女たちが集まる死者のための相談所へ赴くのだが、いぶきは遊郭の少女たちと違って、蘇ってはいるものの、確固とした目的をもっているわけではない。兄の木綿助のように熱心なみたこ教徒でもなく、死者であるため居場所もなく、常に彷徨っている。死者の友人といっても「おたい」と名乗る、前作で「笙野頼子」に憑依した浄泥しかおらず、その関係もお互いがお互いを馬鹿にするような微妙なものだ。
そもそも「いぶきは誰を見ても馬鹿だと思うタイプP75」で、「一面しか見ていないP75」。
この、いぶきの孤独な、落ち着く場所のない不安定な立ち位置と性格が、小説に独特の緊張感を齎す。
それはパンフレットの、「笙野頼子」の書いた評論パート、政治的言語との「対話」でも発揮される。駅前で婦人に突き飛ばされ、ばらばらばらになったパンフレットを、いぶきが拾い集めるシーンでの「対話」は、作中の白眉だ。

 あっ! でもここはなんだか「判る」! 一枚目は。
P51

 P41 アダム・スミスが見えざる手の中に経済を委ねるのが最良の方法と説いた時には、その自由な経済、個々人の欲望に任せるという事は実は必要悪だった。だが、それは少しずつニュアンスを変えてきた。ネオリベラリズムとは只の欲望ではない。正義面の自己都合なのだ。世界資本の怪物が美徳の仮面を付けているのである。
P52

 あっでもやっぱり判らんこの二枚目になると!
P53

 P42 私が驚いたのは確か十年以上も前、マスぞえ要イチの徹夜討論番組での発言である。アダム・スミス市場経済を肯定した、という言い方だけでそれが必要悪であるという事をスルーしていたのだ。それももう随分昔の話である。生放送であるからか、と一応は思う。
 が、――。
 見えざる手と言った時、その手は誰の手だ。神の手か、その神はキリストか。神のない国、だいにっほんで、無限に肯定されるその自由経済、市場原理を良きものと判断しているその主体は、はたしてその主語は誰なのか、それは、おんたこだ。左翼面のネオリベ。というよりはロリリベ。この国のネオリベはロリ的である。

 そこでいぶきは、――。

 だっ、とまた一気に判らなくなる。

 なんだ! また! 宗教じゃないか! 神、紙、神、紙、もう、うんざりだ!
P54~55

この評論パートを書いている「笙野頼子」は、読者と称するウラミズモの人間に世話をされる生活を送っていて、コーヒー(ウラミズモ特製の薬物入りだろう)を飲まされては、ウラミズモの意向に沿う政治的文書を書いている。『水晶内制度』で火枝無性が置かれていた立場とほぼ同じだ。そこで書かれた政治的文書(ノンフィクションとはいうが、「笙野頼子」は現実が判らないのである)が、「だいにっほん、ろんちくおげれつ記」である。これはいぶきが持っていたパンフレットの評論パートを含むのだろうし、ここでの主張と同じものは地の文でも散見される。
とはいえ「笙野頼子」もウラミズモに唯々諾々と従っているわけではないのは火枝無性と同じで、ウラミズモの人間がいない隙を狙って、こっそり藤枝静男論を書こうともしている。
ウラミズモのにっほんにおける活動は非合法なものとされているのだが、「おんたこ」に見捨てられた地方では、ウラミズモは公的機関の行事にまで食い込んでいる。そこでは、みたこ教の儀式を装って、フィギュア入りを主導しているのである。ここで注意したいのが、ウラミズモもみたこ教を収奪しようとしている点だ。
「百合子は熱狂のままに舞台で叫んだだけだという事になっていた。でも、いつのまにか、様々な用語が入って、あっという間にそれはセコく理論化されているのである。P116」とあるように、百合子が絶叫していただけの言葉が、政治的に解釈され、ウラミズモの神話に利用されているのだ。
いぶきと「笙野頼子」の書く評論パートとの「対話」に見られるように、これらの、「おんたこ」や「ウラミズモ」の政治的な力との絶え間ない緊張感が、この作品の基調であるように思う。それは、死者たちの語りもまた例外ではない筈だ。
作中で、死者たちのオーラル・ヒストリーは「だいにっほん、おんたこめいわく史」とされる。「蘇ってきた人が肉声で語り、死者の声で作った史書P10」であり、いぶきは火星人パートを受け持つことになっている(能の複式夢幻能で、死者が蘇り、死に様を語ると共に、自身の供養を頼むという定型があるが、そこからヒントを得たのだろうか)。
ただし、死者達の語りには信用がおけない、とは繰り返し述べられる。

 死者の語り、それはネット以上のうさん臭さである。まず、自分でそこに葬られていたと称していても本当かどうかが確かめようがない。霊の世界なら嘘は吐き放題だし。仮に本人に悪意がなかったとしても、例えば、よそから飛んで来た明治時代かなんかの行き倒れの魂が古墳に入り込んで、自分でそこの主と信じてしまっている可能性もある。いわば狂人ブログのプロフィールのようなものとしての霊の、神の来歴なのだ。
 昔の死者になる程記憶違いはあるし、何分自己申告のまま他人の無念なども引き受けるし、自己語りはどんどん華麗になって行く。古い程死後に「育って」しまっているため、いろいろ錯綜したものを引きずっていて、分かりにくい。
 そもそもいぶきだって知らないで、というかいつしか何かを誤認して自分について喋っているかもしれないのである。
P82

 自己語りとは言え死者のそれは各時代を並べれば壮大になる。ただし、正確かどうか。それ故いぶき達の議論は、図書館から借りて来た本や、死者の遺族達が保管している本人達の遺品の教科書位にしか活字的根拠がない。集まるデータは結局どれも全部語りもので、主観の世界だし。
P131

 人前に出ると浄泥は気持ち悪いしなをつくり、声はむしろ太くなり鼻から息が出ている。しかもいいつも経歴が違っている。二つ市の時に殺された事は何度語っても、変わらないけれど、特に出自については話が変わる。髪が長くて自慢にしていたとしきりに言ったが蘇ってきた時は髪はなかったそうだ。生えてしまうと、そう言っている。
 最初はK光院の中で育ったと言っていたはずだ。面白いからと言って、みたこの歴史に嘘を混ぜるのかといぶきは嫌になる。
P137

この傾向は、死者に特有の性質に由来している。

 死者の世界では「誰からどう見えるか」という事は大切である。本人の思いが余程強くない限り、人は見られたものになってしまうから。最悪の話、ものすごく強い死者が暗示に掛かりやすい死者に「お前は鳥だ」と言ったら飛んで行ってしまう。
P75

こういった中で、いぶきは語ることへの困難さを抱えている。

「だいにっほん、おんたこめいわく史」は自己語りなので、自分の事をちゃんと言わなくてはいけなかった。自分の受けた迷惑が世界に通ずるようにしないとみたこの役には立たないと言われていた。しかし練習の間にいぶきが何か人々が期待しているのと違う事ばかり言ってしまっていた。
 地球人が火星人に先入観をもっている、おんたこがどうとか言う前についそこを語る。また、家族の事で大切な事はあるがそれがどうしても自己語りにとどまってうまく行かない、例えば他の女性や少女のあり方と自分の存在やスタンスが繋がっていかない。
 そもそも、「うちどもは女性として」という言葉をなんとか語りに入れようとしても出来ないのだった。
P192

いぶきは、小説の終盤で、試みに自己を語ってみるものの、どうも語りに納得出来ない。そこで、誰も聴いていないことを確認して、嘘の語りを始める。

 ――父は私の方が跡継ぎに向いていると思ったようでした。
 嘘であった。言ってみたかったのだ。語りの稽古より何か気持ちのいい事を語りたくなったのだ。というかふと言ってみた。
 ――もしいぶきが本気でやれば火星人落語は変わるだろうと父、名人埴輪木綿造が言ったのです。本当です。そう言えばもともとむいていましたし。それに、いつかは、火星人落語の神髄である火星神話に素人ながら挑戦してみたいと言うのが、うちども女性としてのうちども女性の志望であり、この火星人神話の起源というものを!
 いぶきは少しずつ調子が出始めた。だって「うちども女性」というサービスフレーズがするっと出たから、どうして嘘を混ぜるとこううまく行くのだろう。
P198

ここで、唐突に現れた浄泥に「――へたくそっ、へたくそっ、おんたこよりあつかまし!P199」と罵倒されてしまう。
これら死者の語りを、信用出来ない語り手の問題に引きつけてしまうのは、恐らく適切ではない。もっと違う問題なのではないか。
とりわけ、いぶきは、火星人遊郭で殺されており、その殺された様を、どうしても思い出せないでいるのである。

 人は語りえない過去を、物語に加工する能力がある。短い言葉で表せば、神話化・寓話化、すなわち物語化である。「昔むかしのお話」を語り継ぐ中で、そのお話の内包するような、人間という存在の残酷さは影を潜める。代わりに、神秘世界が導入され、「私たちが体験することのない外部のお話」としてパッケージングされる。そうして、フェアリーテールとして、語りえない過去を、共同体で共有するのである。

 しかし、この構造は、事後的に近代・現代人が発見したものだ。「本当は怖いおとぎ話」として、フェアリーテールは解体され、その外部の文脈とつなぎ合わされて、前近代人の文化として再構成され、分析される。

 私がここで問題にしたいのは、フェアリーテールは真実を薄めた「まがいもの」である、ということではない。フェアリーテールは、先に述べたような構造を熟知して用いられた、過去を忘却するためのたくらみではない。誰に教えられたわけでもなく、世界各地で、多くの昔の人が、共同体で過去を共有しようとしてきた営みの中で、物語化の技を編み出してきたということである。そこには、近代ナショナリズムの謀略はない。

 ナショナリズムは物語化と結託し、その力を強めることが多い。それへの警戒の目配りは重要である。*2しかし、そのことは物語化=ナショナリズムという問題とはまったく別物である。それを踏まえながらも、岡さんは、いかに物語(とりわけ小説)がナショナリズムに取り込まれてるのか、ということを論じている。
岡真理「記憶/物語」 - キリンが逆立ちしたピアス

勿論、虚構の中の死者の語りと、ここでの語りの問題を、全く同じものとして扱う事は出来ない。だが、同じく嘘が混入される浄泥の語りと、いぶきの語りの違いを考える上で、非常に示唆に富んでいると思う。
浄泥が、屈託なく語りに虚構を混ぜるのに対して、いぶきが混ぜる虚構には、政治的な意図がある。「「うちども女性」というサービスフレーズ」というのがそれだ。
浄泥が、「おんたこよりもあつかまし!」といぶきに半畳を入れる理由は、この部分、政治的な「サービスフレーズ」にあるのではないか。この「サービスフレーズ」の背後にあるのは、「おんたこ」であり、「ウラミズモ」でもある。近代的な記憶の物語化である。
この作品は、政治的な主張を「笙野頼子」にさせる一方で、死者達の語りの政治的な言語への回収に対して、常に批評的な姿勢を崩さない。近代以降の、ナショナリズムに通ずる記憶の物語化は、抑圧の道具として、個人の内面を圧殺するだろう。そういったものに対して、作家としての笙野頼子は一貫して闘って来た筈だ。
そして、本編は、次のように閉じられる。

 その時、作者は――。
 火星人がもしいたら怒るだろうなあ、という恐怖が極限まで達し、背後に幽霊がいるような気さえしてくたので、背中に苔が生えるようなすさまじい気分で、トイレを我慢するしかなかったのだった。
P199

ここで作者が恐れる「火星人」とは、架空のマイノリティーであり、近代以前の神仏習合のメンタリティを指すものであり、また、近代と共に日本が獲得し、周縁化した植民地の記憶も刻まれているだろう。

 火星人の背後に横たわる植民地のイメージ。もちろん、火星人とは、架空のものとして設定された記号にほかなるまい。だが、明らかに、現実として存在し、日本語のなかで語られ、表象されてきた植民地のイメージを借用することで成り立っているといわざるをえない。それは、あるはずなのにない、という欠如として示されている。むろん、日本/にっほんという国家の問題を扱っている小説が、植民地の問題を無視して描くべきものを描いていないと、「書かれていないもの」をめぐって批判することもできようが、ことはそう単純ではないように思われる。むしろ、火星という記号が喚起する植民地のイメージが、あるはずなのにないもの、として批評的に読解されるという、小説テクストが生成する問題について、検討するべきではないだろうか。
内藤千珠子・火星のない火星人

 死者に対する義侠心は、時に傲慢で、しばしば誤りもする。しかし、それを〈正しく〉批判することで、〈なかったもの〉の顕現をさらに抑圧したいのでなければ、このような複雑さは不可欠な手続きであろう。みたこの教師が容易におんたこに転向してしまうように、また、その教師を裏切り者と憎むおんたこの教祖タコグルメ本人も、自らの行いが演技かどうかの判断がつかないように、疑いを知らない義侠心こそ要注意だからである。マイノリティー化されてきたものの歴史を掘り起こそうとするとき、同じ問題を抱える研究が、その一元的な表現法によって、意図せず本気の捏造に陥る場合があることを考えるとき、小説表現ならではの力を感じさせられるものでもある。
小平麻衣子・死者を騙ることの不適切さ

そもそも、フィクションは、真実を語るものではない。ましてや、虚構の死者たちに語らせることなど、なにひとつとして真実ではあり得ない。
だが、作者は、「火星人」に対して恐怖を覚えるほどに、彼らに対して誠実であろうとしている。しかし、「火星人」を政治的に過度に理想化し、「おんたこ」に虐げられる無辜な民としてしまうのは、彼らの内面を奪ってしまうことなのだ。或は、あり得るかもしれない理想的な姿を、過度に忌避することもまた、「火星人」を不当に貶め、同じく内面を奪ってしまう行為かもしれない。つまり、「あるがまま」の「虚構」の「死者」たちに、可能な限り寄り添い、語らせるしかない。
笙野頼子は、なんという困難に立ち向かおうとしているのだろう。

だいにっほん、ろんちくおげれつ記

だいにっほん、ろんちくおげれつ記