笙野頼子『幽界森娘異聞』

森娘。森ガールのことではない。
森茉莉の書き残した小説エッセイ書簡を元に、森娘というひとりの人物を描き出す。
偉い偉い明治の文豪を父に持つ森娘だが、森茉莉のことではない。森娘が森茉莉そのものではないことは、作中で繰り返し語り手が主張することなのだが、冒頭の、故人の姿が雑司が谷に現れることが全てを予告している。晩年の森茉莉雑司が谷には縁もゆかりもなく、強いていえば若い頃に目白に住んでいたことがあるものの、それも雑司が谷からはほど遠く、年代も合わない。にもかかわらずなぜ現れたのかといえば、晩年の森茉莉が出版上のルール違反を犯した「ロマンブックス事件」に登場するK社を、語り手が雑司が谷にある講談社と勝手に決め込んだためなのだ。
このように、本作では幾重にもフィクションとしての仕掛けが施されている。評伝ではなく「異聞」なのもそのためだ。だが、冒頭で故人をまるで実在するかのように生き生きと描き出していることからもわかるように、それは決して正確さを追い求めることを放棄した逃げではない。それどころか、ふんだんに鏤められる森茉莉の文章と、語り手がそこから導き出す森娘という存在こそが、なによりも作家としての森茉莉の本質を突いているのだと、読み進めていくうちに思えて来る。なんとなれば「作家は死んだ時その本の中に転生するP30」のである。
語り手は森娘を描き出す上で『贅沢貧乏』を最重要視する。

 もしも「贅沢貧乏」を読んでいなかったら、たとえ文章それ自体がどんなに好きでも「おっとこりゃいかん」でパスした作家。しかしやはりあの文庫のあの部屋の中であの様子の森娘が、あのベッドの上に座って暗い中に、自分で買った洋盃(コップ)「二つ」となーんてこともない硝子瓶と、庇護者達から召し上げてしまった美術品硝子とを一緒くたに並べていて、硝子と褪せた布と虫の死骸とが埃をしずめている間で語る以上は――。

 ――マリアの花瓶は六角形の砂糖壷、ヴェルモットかコカコラの空罎、又は英国製の柚子(ライム)ジャムの罎、なぞであって、硝子製といえるのは、宮野ゆり子が甍平四郎に贈り、平四郎がそれをまたマリアに呉れた(中略)高杯(タンブラア)だけである。

 既に、――知っている人だった知っている部屋だった。だから肉声のその世界が「現実」になるのを待つ気持ちになった。そういう森娘が好みの漢字と自家製の句読点と、新人作家が絶対させて貰えない好みの字遣い全部使って、語ってくれるからちょっと赤面な世界だって向き合ってしまった。聞くしかなかったのだ。彼女が本気の本気で語るならば。
P27~28

砂を噛むような現実を絢爛豪華に変えて行く言葉の魔術師としての森娘の視点は、冒頭で森娘の装いが語り手によって描写される際にも(ではなく本当は〜P7)という形で、副音声として語り手の描写に、(語りの手の声を借りてであるが)絡みついていく。これは、森娘が雑司が谷に現れたことと合わせて、本作の冒頭で行われる重要な主題の提示であるように思う。
この、森娘の独自の美意識で選りすぐられた言葉で虚構の中に現実を構築していく描写は、表面上の違いはあれ、笙野頼子と非常に共通するものがあると思う。個人的には、笙野頼子の恐らく最も「耽美的」な小説のひとつである『硝子生命論』の冒頭を強く連想した。

 例えば上体は少年で下半身は恐竜の硝子死体。ムンクの裸体の腹のように、ごく微かな緑色を帯びて彩色され、ひとつの感情を象徴した影のような、人体型に切られた板状の硝子、手足の骨が厚い肉の下に透けて見えて、ぼんやりと震えている肉塊の硝子、花の種子程の大きさで、手の上に載る、五つ子の少年達の覚めない眠りを表した硝子。首が少年で体が文鳥の手乗り硝子。素材としての硝子などではなく、それは観念の硝子だった。
『硝子生命論』P8

 シャツを通して逆三角形の上体の肩が、骨の線の柔らかさを想像させて盛り上がっていた。手首と二の腕にやや不自然な程に乗った厚い滑らかな肉が、手の異様な長さや頭の小ささと呼応してそれぞれの不自然さを結局カバーしていた。アンバランスに大きく、関節部分が細長く伸びた、少し滑稽にも思える程長い手指は、クレーンのような印象なのに華奢でもある。シャツの胸から少しでた鎖骨は本物の人体と微妙にカーブが異なる。眉間に埋め込まれた小さい灰色のアンモナイトは、部分を拡大した写真でしかその渦巻きが見えず、全身像ではそこから壊れ始めている傷口のようにしか見えなかった。
『硝子生命論』P15

注文者の厳しい審美眼に晒されながら作られる、美少年を模した死体人形、といわれてもこの描写からは通俗的な美少年人形を思い浮かべることは困難だろう。素材からしてどんなものなのかわからない。それでもやはり、間違いなくこの世ならぬ「美しい」人形であるということはわかるのだ。
通俗的な美とは全く違う、美という概念そのものを根本から疑いつつ、それでもなおかつ美しいものを描き出すようなこの描写は、森娘の「「宝石曼荼羅」の金太郎飴P80」とは全く方向性が逆ながらも、「現実」そのものを作り変えていく手つきに共通するものがあるのではないかと思う。
笙野頼子は、自身の描写について、文春文庫版の『タイムスリップ・コンビナート』の巻末対談で、ラリー・マキャフリイにこう答えている。

笙野 工業地帯というのは、どこでもそんなに変わらないのかもしれませんね。
 私も日本の街や商店街を描くとき、気づかぬうちにもともとの風景を歪めてしまっているんです。目の前の景色と自分の思考が刺激しあって反応するとき、ごく自然なフィルターのかかった風景を見るんでしょうね。
マキャフリイ 先日、慶應大学で講演したんだけど、そこでこんな話をした。十九世紀にリアリズム小説が出て来たとき、作家の役割は、文学の中で見慣れないものを見慣れたものに変えることにあったが、一方で、ポストモダン作家のもっとも重要な役割は、見慣れたものを見慣れないものにすることへ移っている。というのも、いまではどんな珍しいものでも、当たり前のように受け入れられてしまうからね。それだけにきみが、見慣れたものを異化するやり方はとても大切だと思う。
笙野 自分ではそれを「もう一つの世界」とか「もう一つの現実」とか呼んでいますけれど。
P168~169

「見慣れたものを見慣れないものにする」二人の鬼才の、それぞれが作り出す「もう一つの世界」「もう一つの現実」が交差する……それが『幽界森娘異聞』の最も目に付く仕掛けではないかと思う。
文庫版解説で佐藤亜紀は、本作の特徴を三つ挙げている。

まず他者の声の積極的な導入によってポリフォニックな言語表現が可能になる。次に、ポリフォニックな語りの結果、複数の視点から眺められて浮かび上がる単一の世界の複数の様態が意識され、そうして描かれる世界は、単一視点によって描き出されるものよりもはるかに複雑で矛盾に満ちた姿を露にする。フロイティズムにせよフェミニズムにせよ何にせよ、単純な「イズム」の絵解きとして作品を捉えたつもりの読解は、この瞬間に無効になるだろう。最後に、この言語表現上の変容は、視点の変容を経て、モノローグでは考えられなかった、自由で堅牢な造形性を実現する。
『幽界森娘異聞』文庫版解説P373

他者の声の積極的な導入、とは評伝形式を借りた森茉莉を初めとする多くの文章の引用であるが、評伝形式と決定的に違うのは、引用の出典が記されていないことだ。作品内に直接に埋め込まれた「他者の声」は、語り手の主張の補強に奉仕するためというよりは、語り手の語りそのものを引き出すための装置として見事に機能する。谷崎潤一郎栗本薫の作品を、森娘とのテーマの共通性や影響関係から論じる章でもそれは変わらない。『痴人の愛』論は後の「おんたこ」に繋がるのだろうし、栗本薫について批判的に言及した章の前後は非常に優れたやおい論になっていて、いくら論じても論じ尽くせないくらいの問題が数多く提起されているのだが、評伝を擬態することでより多くの文章を作品の内に取り入れることが可能となったことで立ち現れる「自由で堅牢な造形性」こそが、この作品の到達点であるといっていい。
以上のように、この上ない複雑な手続きを踏まえた、徹底したフィクションによるフィクションへの言及であるので、森茉莉の伝記的な真実に突き当たることを目的とはしていない。語り手は最後まで「評伝もどきを貫きたかったP210」と念押しする。だが、フィクションなのだから結局真実は薮の中、といった陳腐な言葉で締めくくれるような作品ではない。迷い込んだ薮の中で見つける宝石箱、この宝石箱には本物の宝石が入っているわけではない、のだが、それを本物を遥かに凌ぐ宝石にしてしまうのが森娘だった筈だ。そして、この作品の語り手も。
その薮の中で突如として現れる幻想的な風景を、連載の最終回となる第八章で見ることになる。
長年暮らしていた東京を去ることになる語り手は、最後に森娘の足跡を辿ることにする。森娘行きつけの店だった「スコット」は、電話帳を調べて電話してくれたひとから地図を貰い、伝聞形式ながら店の主人と思しき「年とった声の女の人P210」から定休日まで聞いておきながら、突如見舞われた大雨の中で、なぜかどこにも見当たらない。そして、行き着いた蕎麦屋で森娘の話と「スコット」はもうない、ということを知るのだ。
どこからが虚構で、どこまでが事実なのかが全く判然としないこの幻想的な章は、冒頭で森娘の姿を無関係な土地に登場させた、この作品を締めくくるのにこれ以上ない程相応しい。語り手は森娘がかつて住んでいた部屋を目指しておきながら、意図して逆方向に歩いていたと明かし、「結局本当の森住所は本の中P220」だったと振り返るのだから。

幽界森娘異聞

幽界森娘異聞

幽界森娘異聞 (講談社文庫)

幽界森娘異聞 (講談社文庫)