笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』

「だいにっほん」三部作と称される作品の第一作。
「おんたこ」という、明治に始まる近代の精神が、新自由主義を信奉する左翼とオタクの手によって徹底的に押し進められ席巻している近未来の日本が舞台である。
「おんたこ」とは、例えばこのように説明される。

 第一党の癖にマイノリティを称する。それがおんたこの正義なのだ。それ以外の正義のあり方を知らないのだ。
P19

 おんたこは明治維新あたりから既に旧にっほん、つまりかつての日本の水面下では発生していたのである。とはいえ明治の元勲即おんたこかというとそれは違うと思う。例えば伊藤博文などあからさまなロリペドであるもののおんたこではなかった、なぜなら天皇を「玉」と呼んだりして国家操作に自覚的な悪人だったから。また山県有朋など露骨な少女芸妓殺しペドであったと言われているが、でも別にロリやペド即おんたこというわけではない。つまりロリでなくとも、例えば明治の家父長や大戦時の無責任上官等からはおんたこの匂いがするのである。また確か三十年以上も前この小説の初出誌の新人賞から、漱石を論じて、江藤淳にいろいろ言われつつデビューしてきたマスコミ屋の某評論家など例えば、国木田独歩の「風景」を論じた時のその蛸壺的世界観と歴史観において、立派なおんたこというわけであった。日本終焉期の小泉純一郎などもやはり保守の分際で何か改革者ぶり、靖国参拝もひょうたんなまず的で、要は典型的なおんたこである。
P39~40

 ふん、そんなの別におんたことやらに拘わらず数を頼んだ人間は全部そうじゃないか、などと言ってはいけない。つまり先程も述べたように、彼らは自分たちを「少数派、抑圧される、齢未熟なぼくたち」と定義しているのである。四十過ぎたってずーっとぼくである。つまり、自分たち以外の「マイノリティ」を許さないのである。
P43

 そうです。こいつらって実は左翼の皮かぶったネオリベなんですわ。

 つまりおんたこがロリかペドかとかそういう話ではないのですわ。要するに独特な意識のあり方こそおんたこだという……。
P165

その「おんたこ」の首領であるアメノタクグルメノミコトが書記長を務める「知と感性の野党労働者会議」または「知と感性の野党労働党」略して「知感野労」が、正式名称アメノタコタラシ教団、愛称みたこ教団を弾圧し解散に追い込むところから小説は始まる。
みたこ教団は神仏習合的な宗教であるとされる。元来、江戸時代には神仏習合ではあったのだが、明治以降の神仏分離によって、国家神道的な道を歩んで来たこの教団を、「おんたこ」が権力を握った時代に、野之百合子が大改革を加え、キリスト教と仏教とを混淆したのである。祈りの言葉「ナーメンダ」は、「アーメン」と「ナムアミダ」を組み合わせたものだ。
この弾圧は、明治政府が進めた神仏分離のアナロジーだろう。これは、第三章で、明治政府による神仏分離によって権現が去った後に現れる新たな神が「おんたこ」そのものであるところからも、明確に意図されているものと見ていいと思う。
この新たな神が操る言説が典型的な「おんたこ」話法で、その気持ち悪さは絶品である。

 ――寒いとは何だろう。寒いということはない、ただオレ様にはなんの関係もないお前の寒さだけがある。うどんとはなんだろう、うどんなどというものはない。我々はむしろうどんの代わりにナメクジをお前に食らわせるだけの親切さを持たなければならない。まむしとはなんだろう。それはうなぎを飯にまぶしたものととらえてはならない。我々は本物の蛇をまむしを、えっえっえっえ、本物の、まむしを以てこの不毛な無意味な社の魂の怨恨を葬り去り、虐待をつきぬける明るさをくれてやらねばならないっ。えっえっえっえっえっ。
P114

 ――子供とはなんだろう、子供などない。それは資源である。我々はむしろ十二歳の少女を立派に使える性的商品として計算に入れるだけの冷静さを持つべきだ。子供の内面は無である。内面に意味などない。外面は「りっぱにおんなじゃのう、えっえっえっえっ」である。
P115

 ――国民に内面はない。ただ国家だけがある。なぜなら国家の前に我々は無であり。圴一であり、商品であるからだ。全て商品だ。そしてここがどこでもなく、私が誰でもなく、私に内面がない以上、この二つ市に○○する自由とは国家から保証された自由なのであるっ。なぜならば経済効率を考えた時、女の商品下限年齢は三歳だっていいからである。
 われわれはむしろ幼女強姦者の内面を殲滅し空洞化するのである。そしてそれにとって代わり、このように国民全体の均一化をはかることで自由な空洞としての不毛な幼女商品化に身を委ねるのである。そして、選ぶのだっ。優雅に、華麗に、駆け抜けるのである。えっえっえっえっえっ。
P116

脱構築だの価値観の相対化だのの果てに現れる超国家主義市場原理主義。現実でも、ポストモダン相対主義を自称する学者や言論人がせっせと地ならししている果てに待ち受けるのが、この地獄であると自覚している人間がどれだけいるだろうか。
みたこ教団中興の聖母とされる野之百合子は元は野田百合若という男性のフュージョンドラマーである(そういえば『なんとなく、クリスタル』のフュージョンキーボード奏者、淳一も世代的に多分同じだ)。

 そんな百合子のバックをつとめるナーメンダパーカッションは、百合子の崇拝者からなる女性十名の打楽器集団であった。元々ピアノの先生等素人ばかりなので、歌錦と百合子の訓練で一曲仕上げるのに一年というような人々であった。ドゥドゥ・ニジャエ・ローズが妻や娘からなるグループを指揮しているのをヒントにして、百合子がドラムの楽譜を書き、自分のフレーズを練習させた。その前面で彼女は踊り狂い、踊りが佳境に入って、百合子がスカートを脱いでしまうのを契機にナーメンダは即興演奏に入る。
P65

ドゥドゥ・ニジャエ・ローズという名前に、アフリカン・ミュージック好きとしては思わずにやりとする。

Doudou N'Diaye Rose - Rose Rhythm

百合子のキャラクターとパフォーマンスは、政府をその音楽で過激に挑発し続け、ナイジェリア国内でカラクタ共和国という独立国を作り、政府軍に蹂躙されたフェラ・クティにも近いかもしれない。

FELA KUTI live! - Don't Gag Me - Je nwi Temi 1971

フェラ・クティ - Wikipedia

このように、百合子の音楽はアフリカン・ミュージックに影響を受けた、リズム重視のダンス音楽なのだが、一方で、「おんたこ」が出す、「すっちゃんすっちゃん」という音がある。

「すっちゃんすっちゃん」は人でなくすぞよ。自我をなくすぞよ。山の中の山中で心の虚ろを内面の空洞にしてしまうぞよ。すっちゃん、すっちゃんは野狐の悪意ぞよ。呂利蛸の脱糞ぞよ。所有より消費というあしき世になるぞよ。関係より欲望のおんたこ地獄となるぞよ。「すっちゃんすっちゃん」は悪しき踊りなるぞ。国家目線なるぞ。国家目線で土俗を語るものは見ていりゃれほれそのうち、頭のてへんからの、竹ぼうきが生えるぞよ。マス・イメージーは金と世間なるぞ、それは五番柳田を「すっちゃんすっちゃん」にして、栄光の巨人をばダラクさせるぞよ。
P49

巫女の最後の託宣から生み出されたこれは、『レストレス・ドリーム』の寺院が発する歪んだテンポと同じものではないだろうか。
百合子がドラマーであり、「すっちゃんすっちゃん」に反逆するのも、同じくドラムとメトロノームのテンポで歪んだ世界を打ち破った桃木跳蛇を思い起こさせる。
さて、この作品のテーマ性は汲めども尽きないのだが、最大の魅力は、変幻自在、緩急自在の語りにこそあると思う。
ドストエフスキーの複数の登場人物が、狂ったような長広舌を何ページにも渡り捲し立てて、ジェットコースター的な快楽を読むものに与えるが、この作品はドストエフスキーのそういった部分(ドストエフスキー作品の魂といっていいだろうか)を取り出し、さらに過激に洗練させたものだと思う。
その語りはたったの三行で五十年の時間の経過を可能にしてしまう。なんという離れ業。

 笙野はもう幻想と現実の区別が付かなくなってしまっていた。
 人から「正常、まとも」と言われたくて戦いを続け、ついに「電波じゃなかった」と誤解が解けた時、その解放感に耐えきれず狂ってしまったのだ。

 それからたったの三行で五十年近い歳月が流れた。どうしてかそれは、笙野がもう元に戻らなかったから。

 みなさんこの三行の間が五十年開いています。段差に落ちないようご注意くださいませ。
P119

五部構成の中で、語りはさらに複数の声の主に分かれ、ポリフォニックな構成は、ますますドストエフスキーを彷彿とさせる。
この多声的な構造を可能にした仕掛けのひとつとして、「口寄せ」に注目したい。いずれの章でも、誰かの言葉を借りて語る行為が見られる。

第一章では、ウラミズモに追放されるみたこ教団の巫女が(恐らく第三章に登場する「笙野頼子」と同一人物であろう。そこでは、この儀式自体、「笙野頼子」が昼の間に見る「妄想」とされていて、作品を非常に複雑にしている)託宣を受ける。

第二章では百合子がみたこ教団を乗っ取る際に、神の言葉を啓示する。

第三章では「笙野頼子」が「おたい」と名乗る比丘尼に憑依される。

第四章では、火星人でみたこ信者の埴輪木綿助の死霊による「おんたこ」の口ぶりを真似た火星人落語が披露される(「死霊」だとか、ドストエフスキーに影響を受けた埴谷に通じる「埴輪」だとか、首つり自殺だとか、ドストエフスキーを連想してしまう)。

第五章では古墳の主「御霊」がネットユーザーに憑依して手に入れたネットスラングで語る。語り手が誰かに憑依し、そこから語りの形式を手に入れる。前章と合わせて、語り口がかなり技巧化されている。

第一章では巫女が、第二章では百合子が降霊の儀式を準備した結果、第三章以下で比丘尼、埴輪木綿助、御霊が呼び出された……と見ることも可能だろうか。
上記以外にも様々な声が登場し、作者の声までも所々その姿を覗かせる。哲学や政治思想、ペドフィリアまでを動員し、ダイナミックな記述を生み出しているこの作品は、ドストエフスキーの小説が現代の日本に相応しい形式を備えて蘇ったかのようである。

だいにっほん、おんたこめいわく史

だいにっほん、おんたこめいわく史