佐藤亜紀『醜聞の作法』

すぐには読まない。
まずは、ぱらぱら捲る。
第一信から第十八信まである。
おお、これは書簡形式であるな。『危険な関係』あたりのパロディかな。
覚え書き、とはなんであろうか。これが第四まである。
そして冒頭から邪悪な語り口。警戒して正解であった。

新刊ですので続きを読むで。

 天気のいい日も、悪い日も、五時になると私はパレ・ロワイヤルに出掛けます。フォワの回廊を気忙しく行ったり来たりする男を見掛けたら、この私だと思っていただいて間違いありません。娘たちの思わせぶりな態度、笑みを浮かべた可愛い顔、抜け目ない目付きや小生意気な鼻を目に付く端から追い回し、さりとてどれに執着することもない――ちょうどアルジャンソンのベンチにぼんやり腰を下ろした男が、政治について、愛について、趣味判断について、哲学について、最初に浮かんだ思い付きの後を、馬鹿げていようと冴えていようと手当たり次第追い回すに任せて暇を潰すように。つまりああした娘たちは、私の思想という訳です。
 ですが、ここで御報告しなければならないのは私の「思想」ではなく、アルジャンソンのベンチの男のことでございます。仮に、そう、ここでは、ルフォン、と呼ぶことにいたしましょう。
P5

これだけで、ああこの語り手は一筋縄ではいかないぞと思ってしまう。それくらい、これは邪悪な語り口だ。流れるような筆致で娘たちこそ自己の思想だとあっさりいい切る人物とは何者で、そしてこれから何を語るというのか。
そして、これが『ラモーの甥』の本歌取りであるのだから驚く。

 空が晴れていようと、いやな天気だろうと、夕方の五時頃パレ・ロワイヤルの公園へ散歩に出かけるのがわたしの習慣だ。いつもひとりぼっちで、ダルジャンソンのベンチに腰をかけて、ぼんやり考え込んでいる男がいたら、それはわたしだ。わたしは、政治について、恋愛について、趣味について、さては哲学について、自分を相手に話をしているのだ。わたしは自分の精神を放蕩にふけらせておく。よく、フォワの並木路で、だらしのない若者たちが、気のぬけたような様子の、笑顔を作った、眼の敏い、しゃくり鼻の娼婦の後をつけて、別のが来ればそのほうに行き、どれもこれもの尻を追いかけて、さてどの一人にも執着しない有様を見かけるが、そんなぐあいにわたしは、賢明なものだろうが馬鹿げていようが、どれでも手当り次第頭に浮かぶ観念を精神に勝手に追いかけさせておく。わたしの思索とはつまりわたしの娼婦なのだ。
ディドロ『ラモーの甥』岩波文庫版P5

ディドロの文章からは、前述の邪悪さが一切感じられない。翻訳であるということは差し引いたとしても、このテクストをあそこまで違う物に仕上げてしまうのである。それも、極めてさりげない手つきで。
さて、そうなってみると、このふたつのテクストを照応させてみる誘惑にかられる。アルジャンソンのベンチの男、仮にルフォンと名付けられる人物は、『ラモーの甥』の語り手、ということになるだろうか。ルフォンがレジャンスでチェスに興味を示すところも考え合わせると、人物造形に一役買っているのは間違いないようだ。
そして、この手紙の書き手、語り手は「だらしのない若者たち」のひとり、ということになる筈なのだが、こちらはラモーの甥に非常に似ている。
ラモーの甥は会う度に姿を変えるものとされているし、『ラモーの甥』の語り手に出会った時はパトロンの怒りを買ってその許を追い出されている。
『醜聞の作法』の書簡の語り手も変貌ぶりでルフォンを驚かせ、雇い主の何らかの怒りを買ったことがルフォンの言葉からわかる。
ルフォンが実はディドロで、書簡の語り手がラモーの甥、というわけでは当然ない。『ラモーの甥』の主客を逆転させるという意図はあるのかもしれないが、冒頭のこの仕掛けは、虚構の罠が縦横無尽に張り巡らされていることの宣言であるように思う。これから語られることを信用してはならない、という警告なのではないか。
フィクションが嘘で出来ているのは当たり前のことなのだが、読み手は、大抵、フィクションの中でも真に近いものとして取り扱われるものと、偽とされるものを、区別して読む。例えば、信用出来ない語り手、という問題は、語り手が独占的に事物を語るという特権的な立場ゆえに生じる。法廷で一方だけの言い分を聞かされているようなものなのだ。そして、文章で書かれたフィクションというものは、この特権性ゆえに常に懐疑の目に晒される。
『ラモーの甥』にしても、ラモーの甥ことジャン・フランソワ・ラモーが、実在のモデルが存在するとはいえ、飽くまで虚構の存在であるように、『ラモーの甥』の語り手も虚構であり、ディドロではない。ラモーの甥の口から語られる哲学こそが、実はディドロの哲学であるかもしれないのだ。
『醜聞の作法』では、そういった、語り手の信用出来なさを極限まで押し進めているのではないかと思う。
この書簡の差出人である語り手は、読み進めれば進めるほど、第一印象の通り、真実を語っていないのではないかという疑念を抱かせる。第五信ではマゼリに金を巻き上げられた、と奥様に窮状を訴えるのだが、こうしたことにかこつけて金をたかっているように見えるし、第十一信でもマゼリがあまりに都合良く現れ過ぎではないだろうか。
そもそもこの書簡、返信が存在しない。
この書簡の書き手が名宛人にしている奥様とは、侯爵夫人と推定されるのだが、だとすれば、この書簡の内容は身分のある人物に報告するにはあまりにあけすけではないだろうか? 見かけ上は文句の付けようのない慇懃な態度をとってはいるものの、マゼリとの同衾まで(第十二信で語り手とマゼリは当初食事をしていた筈なのに最後「マゼリはそこで起き上がって」という一文で締めくくられる。寝そべって食事をする部屋ではないことは、第十六信で同じ部屋で食事をしたラモットは立ち上がっていることからもわかる)報告するのは、少しやりすぎではないのか。
つまり、この語り手は、必要のないことを多く語り、それと引き換えに、何かを語らずに済ませているのではないかと思うのである。
では何を語らずに済ませているのか。
まず、マゼリが怪しい。どうも裏で語り手と気脈を通じているようだ。次に、奥様の実在が疑わしい。そして、ルフォン。彼も語り手の創作の人物ではないか。
第十三信はそのルフォンがスーパー・マリオのように信じ難い逃走劇を見せる。これは家政婦の口を借りて語られるのだが、これもまた信用出来ない語り手の手口かと思いきや、どうやらこの時点で、この邪悪な語り手さえもが翻弄されはじめているのだ。
第十三信は第三の覚え書き(覚え書きというのは、書簡の語り手の依頼でルフォンが手がけるパンフレットで、醜聞を目的としたもの。恐らく、18世紀に流行したメロドラマのパロディがそこかしこに鏤められていると思われる)の前奏ともいうべきもので、語りの主導権が語り手からルフォンに移ったのではないか。これもまた語り手の術中の可能性は拭えないが。
語り手から語りの主導権が奪われ、奪った当人が姿を消し、好き勝手に醜聞のパンフレットを書き出すとなると、無秩序の果てに破滅が待っていそうであるが、そこからは、全ては万事、あるべきところへと見事に収まっていく。
ところで、佐藤亜紀には、「法」とタイトルにつく作品が他にもある。『戦争の法』である。

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 本書はアフガン戦争の最中に構想され、CNNの湾岸戦争関連ニュースを見ながら執筆された。とは言え、現実の戦争を踏まえた部分は全くない。当時筆者の関心が向けられていたのは、一見、無法と見える状況においても人間を拘束する何か、であった。「ごつすぎ」と編集者にさえ評されたタイトルはここから来ている。

「一見、無法と見える状況においても人間を拘束する何か」を『醜聞の作法』にも当てはめて考えてみることは可能だろうか。
そして、最後に、語り手による書簡で語られた世界と、ルフォンが覚え書きで作り出したとされる世界が、結婚式(夏至のお祭りでもあり、ルフォンは驢馬の被り物をさせられる。『真夏の夜の夢』? となると侯爵夫妻の諍いの元もここにありそうだ)で、交錯する。こうなってしまうと、覚え書きもまた真実、という他ない(そういえば『戦争の法』でも終局で素晴らしく幻想的なイタリアの場面があり、語り手と再開した人物との記憶の食い違いが、この語り手の語りの韜晦を暴きつつ、ヴェネツィアでのカルナヴァーレが描かれる。ひょっとしたら、あの仮面の群衆の中に、伍長が、千秋が紛れ込んでいるのだろうか)。書簡と覚え書きは鏡合わせの世界であるように思う。ルフォンとアンネットの関係は、ジュリーとD***の関係に照応しているのではないか。第十三信と第三の覚え書きなどからも、「現実」がフィクションに及ぼす影響にも見えるが……覚え書きはルフォンが書いているのだから、当然といえば当然か。
この小説の結末は、冒頭と同じく『ラモーの甥』の結末の本歌取りで終わる。が、結婚式の夢のような一場の後では、この本歌取りも、意味合いが違ってくる。
劇場(オペラ座のことだろう)の開始を告げる三十分前の鐘をきいて、ルフォンは立ち上がる。別にラモーの甥のように劇場に行くわけでもなく、定時(オペラ座は五時半に鐘を鳴らしていたらしい)を告げたので立ち上がった、という風に取れるのだが、シェイクスピア劇の一場面に迷い込むような役者=ルフォンが次の演目に出ることを鐘によって思い出した、という風にわたしには思える。
上流階級と平民層の恋愛が重層的に描かれるこの作品は、エピグラフで引かれている『フィガロの結婚』ではないが、モーツァルトのオペラの香りがする。そして、『ラモーの甥』はディドロの論敵の誹謗と同じ情熱で、音楽が語られもするのだ。

醜聞の作法 (100周年書き下ろし)

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