田中康夫『なんとなく、クリスタル』

小説には、二種類ある。あらすじを要約するべきものと、そうでないものと。

学生でモデルをやってる由利は同じく学生でミュージシャンをやっている彼と同棲中。その彼、淳一はコンサートツアー中で、由利は雨の降る中、ひとり部屋で退屈をかこっている。友人に電話でもして気を紛らわそうとするが、生憎心当たりがない。そういえばこの前ディスコに行った時にナンパして来た正隆の電話番号があった。そこで正隆に電話をして、ちゃっかりホテルでアバンチュールを楽しむものの、精神的な繋がりがないからビリビリこなくて、このひとは淳一とは違うな、と思いつつ、私たちの世代はクリスタルだよね、と意気投合し、でも一晩限りの関係で終わり。そうこうしてると淳一が帰ってきて、淳一とはやっぱビリビリ来て、やっぱり淳一とじゃなければ駄目だと思う。そもそも同棲っていうのもなんとなく、クリスタルな自分たちには湿っぽいから、共棲っていいたい。だってお互い、経済的に自立した上での関係だし、それはクリスタルなアトモスフィアなんだ。十年後にもシャネルのスーツが似合うようでいたいな。

以上がこの小説のあらすじである。
この作品の売りのひとつである442の註は巧みな技量を持つ書き手ならば、本文の中に落とし込むことが出来るものだし、もしそのように書かれていれば、作品を要約したくなる誘惑にも駆られなかったに違いない。そもそもこれらの註は特にこの小説のためにしつらえたものではなく、のちに『ペログリ日記』で見られる、作家の意見表明の文体と全く同じものだ。というか、小説の世界から分裂していったのだろう。本来、田中康夫の作り出す小説世界には不要なものだった、と思う。
文藝別冊の田中康夫特集で、武田徹が『なんとなく、クリスタル』に登場するブランドネームはシフター(構造主義言語学者ロマニ・ヤコブソンの言う現実社会に指示対象がある記号、と武田徹は説明している)であり、註はその意味作用の種明かしだ、と指摘しているが*1、ブランド群に意味作用があるとは到底思えない。むしろ、ブランド自体にはなんらの意味作用がないものとして読むほうが余程「クリスタル」な読みではないのだろうか?
また、田中康夫長野県知事になったあたりから指摘され始めていたと思う、巻末の「出生力動向に関する特別委員会報告」「厚生行政年次報告書」はなんだか取って付けたような代物で、さほど効果を上げているとは思えない。こんなもんで作品の価値が上がるなら作家はこぞって付けますよ。
というわけで、たぶん誰にも読まれてないし記憶にも残っていないであろう『ハッピー・エンディング』のほうが全然良いと思う。
だから、この小説の意義は、1980年前後に東京近郊で大学生活を送った、学生運動が完全に終焉し遠い過去のものとなった若者たちが主役の、青春小説としてであり、散々試みられているのだろうが島田雅彦の『優しいサヨクのための嬉遊曲』あたりと対置してみるべきものであろう(この記事を書くために読み返してみたが『なんとなく、クリスタル』に比べると『優しいサヨクのための嬉遊曲』は随分出来が良い)。

 正隆は、しばらく黙っていた。
 そして、
「生活感覚が似ているのかな、君たちと」
 と言った。
「クリスタルなのよ、きっと生活が。なにも悩みなんて、ありゃしないし……」
 と、私が言うと、彼は、
「クリスタルか……。ねえ、今思ったんだけどさ、僕らって、青春とはなにか! 恋愛とはなにか! なんて、哲学少年みたいに考えたことってないじゃない? 本もあんまし読んでないし、バカみたいになって一つのことに熱中することもないと思わない? でも、頭の中は空っぽでもないし、曇ってもいないよね。醒め切っているわけでもないし、湿った感じじゃもちろんないし。それに、人の意見をそのまま鵜呑みにするほど、単純でもないしさ」
 そう言って、タバコの火を消した。
「クールっていう感じじゃないよね。あんましうまくえないけど、やっぱり、クリスタルが一番ピッタリきそうなのかなー」
P124~126

ピロートークでの、このわりと締まりのない会話が、青春小説としての『なんとなく、クリスタル』を良く表しているように思う。
それでもなお、小説として評価しようとするならば、例えば、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』と通じる部分はあるかもしれない。

 無論、何とも浮き世ばなれした話だ、とは思った。誰も彼もえらく呑気だ。色に狂ってなければ、社交界での栄誉栄達に奔走するばかり。実に瑣末なことで死活を決する問題であるかのごとく大騒ぎする。だが、「政治」とはそう言うものだ。硝子で出来た小さなコップの中では、一朝そのコップが割れてしまったが最後、無よりもはかなくなってしまう瑣末な事柄が象徴的な意味を担い、象徴的な意味は象徴的な死活に結びついている。そこでの浮沈は全て、象徴の行使次第なのだ。ヴァトー、ベートーヴェンバルザック。アンリ四世時代の階段や最上のポルト酒。私たちならもっと俗な、もっと直接身に迫ったものを使うだろう。私たちの暮らす社会がスノビズムの表現を別様に規定するからだ。だが、人間の欲望自体が緯度経度の影響を被る訳ではない。
佐藤亜紀『戦争の法』新潮社文庫版P232

しかし、『戦争の法』の語り手が『失われた時を求めて』から引き出した普遍性を、『なんとなく、クリスタル』の作品自体はいくらなんでも備えてはいないように思う。
あと、これは田中康夫作品全般の欠点であるのだが、女性の書き分けが全然出来てない。三人以上出てくると誰が誰だかさっぱりわからなくなる。『ペログリ日記』の作者がそれでいいのか。
主人公にして小説の語り手である由利は聞いてもいないのに色々身の上話をしてくれる。そのお陰で、スリムジーンズを履く自信がないとか、愛飲しているメンソールの銘柄や、ブランドに対するスタンスなどの一見無駄なおしゃべりから、由利の性格がわかるようになっている。その人物を描写するのにブランド等の嗜好からアプローチすることが可能である、というのが田中康夫の非凡な着眼点で、今でこそ当たり前になっているかもしれないが(ブランドの嗜好に限った話ではなく、どんなアニメが好きだとか、どんな音楽が好きだとか、からキャラクターを作り上げるのは今ではよく見る光景ではなかろうか)、これは田中康夫の最大の成果といっていいだろう。
と同時に、それは田中康夫の小説にとっての致命的な欠点にもなり得る。ひょっとして彼は、一人称で語られるブランドの嗜好等の力を借りずに人物の描写が出来ないのではあるまいか。
由利のモデル仲間の直美はまあいいとして(あんまりよくない。モデルという職業だけでかろうじて判別出来る)、どちらも大学生の友人である早苗と江美子の違いとなると……えーと。説明出来る方、どこかにおられませんか!

なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

*1:武田徹は「シフター」を用いてケータイ小説も論じている。便利だなあ、「シフター」。勉強しよっと。http://162.teacup.com/sinopy/bbs/808