アラン・ロブ=グリエ『快楽の館』

近所の品揃えの悪い無個性な郊外型書店で『快楽の館』の文庫本を見掛けて腰を抜かした。その隣にはル・クレジオの『大洪水』が並んでいる。ヌーヴォー・ロマンなんて忘れ去られたもの、とされた頃に小説を熱心に読んでいた人間からすればこれは大事件である。小説を読むという習慣を忘れて久しいが、知らない内にヌーヴォー・ロマンはすっかり定着してしまったものらしい。
アラン・ロブ=グリエという名に特別なものを感じるようになったのは、筒井康隆の『虚人たち』を読んだ時から、だと思う。
青春時代に彼の愛読者だった多くのひとにとってそうだったように、筒井康隆は何よりも教師(それも熱血、だと思う)であった。『虚人たち』の構想ノートであると思われる「虚構と現実」(『着想の技術』収録)でロブ=グリエはやや批判的に触れられているのだが、そこには筒井康隆の、ロブ=グリエへの対抗意識が見えるような気がして、むしろ興味が掻き立てられた。あのすごい小説を書いた先生が嫉妬する作家とは一体何者なのだろう、というわけである。
当時は講談社文芸文庫に入っている二作しか手に入らない状況だったが(そして現在もその状況はあまり変わってはいなかったのだった。ただ、十年以上絶版にならずに出回り続けていることは定着したとはいえる)、それでも、熱狂するには十分だったし、小説を読む上での基本的な考え、大げさにいえば小説観はアラン・ロブ=グリエのおかげで大分広げられたように思う。
さて、『快楽の館』は、その講談社文芸文庫に収められている『覗くひと』と『迷路の中で』に続く三冊目の文庫であり、執筆年代も一番新しい。といっても1965年の作品だが(今後も他の作品が文庫化されると嬉しいなあ。河出書房から出るなら『消しゴム』か)。
時間が停止した、或は無限に引き延ばされた中で、影絵的に配置された人物がある場面を演じている。近寄ってみると、それは自殺を考えている青年だったり、考え事をしている「アメリカ人」だったりする。かと思うと、どこからか誰かの、言い争う声がする。
その時間は巻き戻され、または早送りされるのだが、同じ配置の場面が再度現れても、その影絵は着色されるとまるで違う人物である。言い争いの声も、発話者が代わり、同じ言葉でも全く違う意味に置き換わる。
停滞し、進み、戻り、また停滞する時の中で、そんなことが何度も何度も繰り返される。こんなことを書くと無教養をさらしそうだが、この繰り返しには殆ど音楽的な快楽があると思う。同じ主題が姿を変えて変奏される時の、あのえもいわれぬ高揚感がそこにはある。
ロブ=グリエは視覚描写に徹底的に拘り、視線派とも呼ばれた作家だが、この作品では、色数が極端に制限されている。
欧亜混血の侍女」キムが着ている恐らくチャイナドレスは、ある時は白、ある時は黒。彼女の連れている黒い犬、中国人の穿く黒いクーヅ、ローレンの白いローブ、白阿片。
モノクロームの世界だな、と思ったが、どうやらこれはネガフィルムの世界のようだ。

しかし、たぶんその日に見た何枚かのカラーのネガ(褐色を主調としたアグファカラーと、パステル・ブルーの色調を持つ日本の富士フィルム)が、やがて私の頭のなかで別の想像上の街々、別の幻影のジャンクに、彫像のように理解不能で誇張的な身ぶりとなって永遠に凝固した別の人物たちになっていったのだろう。
(『映画と小説との二律背反』松崎芳隆氏・訳)
P198

「褐色を主調としたアグファカラーと、パステル・ブルーの色調を持つ日本の富士フィルム」。これはこの作品の舞台である娼館ヴイラ・ブルー、青い館や、麻薬の入った褐色の封筒のことを想起させる。
そして、パステル・ブルーや褐色の世界を基調に、鮮やかな色が配置される。

長い街路には歩廊があり、その太い四角の柱は上から下まで四つの面とも、大きな漢字の縦の看板でおおわれている、黄色のバックに黒、赤のバックに黒、白のバックに赤、緑のバックに白、黒のバックに白といった看板である。
P126

黄が黄金、白が銀色も含むものだとすれば、これらがこの小説に登場する全ての色の筈である。この中でもとりわけ、赤が強調される。
太った男の赤ら顔、赤く塗られた人力車、ハイビスカス、黄色とも赤とも見える長椅子、赤いベンツ、それから、鮮血。
なお、視線といえば、この作品でのアジア人を眼差す視線が、まんま植民地を見る白人、といった趣きなのだが、素でやってるのか、批評的な意図があるのか判断に苦しむ。植民地根性丸出しの白人が醜く描かれていることからも、やはり批評的な意図を汲むべきであろうか?

快楽の館 (河出文庫 ロ 2-1)

快楽の館 (河出文庫 ロ 2-1)