ケーゲルとクレンペラー

年末の風物詩であるベートーヴェンの第九交響曲だが、わたしはどうもあの曲の歌詞が苦手なのだった。
なんというか、むさいエリートのおっさん同士が裸で酒を飲んで、酔った弾みで調子のいいことばかりをいってるように聞こえる。

おお友よ、このような音ではない!
我々はもっと心地よい
もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか
ベートーヴェン作詞)

歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上の楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高な汝(歓喜)の聖所に入る

汝が魔力は再び結び合わせる
時流が強く切り離したものを
すべての人々は兄弟となる
(シラーの原詩:
時流の刀が切り離したものを
貧しき者らは王侯の兄弟となる)
汝の柔らかな翼が留まる所で

ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
彼の歓声に声を合わせよ

そうだ、地上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい

すべての被造物は
創造主の乳房から歓喜を飲み、
すべての善人とすべての悪人は
創造主の薔薇の踏み跡をたどる。

口づけと葡萄酒と死の試練を受けた友を
創造主は我々に与えた
快楽は虫けらのような弱い人間にも与えられ
智天使ケルビムは神の御前に立つ

神の計画により
太陽が喜ばしく天空を駆け巡るように
兄弟たちよ、自らの道を進め
英雄のように喜ばしく勝利を目指せ

抱き合おう、諸人(もろびと)よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に
父なる神が住んでおられるに違いない

諸人よ、ひざまついたか
世界よ、創造主を予感するか
星空の彼方に神を求めよ
星々の上に、神は必ず住みたもう
歓喜の歌 - Wikipedia

wikipwdiaに書いてあるので思い出したが、ベルリンの壁崩壊の折にレナード・バーンスタインがこの曲を振った。たぶん有名な演奏なのだろう。テレビ番組の素材で何度か見かけたことがある。その一年後に、この曲が嫌いだった東ドイツの指揮者ヘルベルト・ケーゲルは拳銃自殺をした。

ケーゲルは社会主義者を自認していた。ただし、彼は東ドイツの体制内では微妙な立場だったようだ。社会主義者ゆえに東ドイツに殉じた、という語られ方も時折聞くが、実際は長年煩っていた精神的な危機が、統一後のドイツの彼を取り巻く環境が激変したせいで歯止めのきかないものになったためであるらしい。

美術史家の宮下誠は、自身の早すぎる死の直前に、突如として戦闘的なアジテーションが満載の、文章も論旨も厳密とはいい難い、しかし非常に心を揺すぶられる著書を出した。そこで、ケーゲルについてこう書いている。

 彼にも人間的な幸福はあっただろう。しかし残された音楽の大半からは、彼が本質的に不幸であったこと、しかしその不幸こそが彼の芸術を不朽のものとしていることが自ずと一つの像としてその姿を結んでくる。カラヤンの音楽と比較してみるが良い。
 ベートーヴェンの第九交響曲終楽章をしかつめらしい表情で、しかしそれでもなお、お祭り騒ぎの狂騒として提供し、人類愛の讃歌カラヤン本人は信じてもいないのに)という、薄っぺらで、社会的現実には目もくれない、欺瞞に満ちたお題目の音楽に仕上げたカラヤンに対して、できれば第四楽章は振りたくない、と本気で考えていたケーゲルは、所詮水と油である。
 カラヤンは勝ち、ケーゲルは敗北した。
宮下誠カラヤンがクラシックを殺した』P238~239

そう、ケーゲルは「この輪から泣く泣く立ち去」ったのだ。

ベートーヴェンの第九交響曲自体は勿論、素晴らしい曲である。ただ、正直なところ、よくわからない曲でもある。
空虚な和音から始まって尋常ならざる気迫で荒れ狂う第一楽章、しゃっくりが止まらない男がひたすらに怒り続けるような第二楽章と続き、このひとは一体何にそんなに腹を立てているのか、と訝しんでいると第三楽章では急に痴呆的な美しさを見せ、怒りは収まったのかと思いきや、第四楽章では唐突に人類愛を歌い出す。
この曲の支離滅裂な性格を考えると、第四楽章はやはり、あの気違いじみた歌詞でなければ、と思ってしまう。この曲の、異常性に拮抗出来ない。

わたしはケーゲルのノーノやウェーベルンバルトークの演奏は愛聴しているが、ベートーヴェンの第九番は残念ながら持っていない。その代わり、手元にはオットー・クレンペラーの1957年のステレオ録音がある。ライヴ盤だが、録音のコンディションが信じ難い程いい。

『Beethoven 9ª Sinfonía - Klemperer 1964 (1/3) - Subtitulando 』

これは1964年、晩年の絶頂期のもので、一般にこの時期の録音が熱烈に支持されている。
クレンペラーの音楽の特徴として、打楽器と木管楽器がやたらに強調され、主旋律が気持ちよく聴けない。こうしたタイプの音作りは情報量が多い、と形容されるが、クレンペラーの場合、そこに加えて分厚い響きと造形力が魅力となっていて、より構築的に聴こえる。
そして、最大の特徴は「感動の出来なさ」である。

 クレンペラーの音楽は違う。全く違う。彼の音楽には熱狂も陶酔もない。常に醒めた意識で音楽の持つ構造を、低音を基礎に音高の低いものから順に冷厳冷徹に積み上げてゆく。だから彼の音楽に忘我の境地はまず訪れないと言って良い。むしろ聴き手は聴くほどに醒めてゆき、音楽の抽象的な構造そのものに意識を集中させるようになる。
宮下誠カラヤンがクラシックを殺した』P93~94

ベートーヴェンの第九交響曲クレンペラーにかかれば例外ではない。見事に「感動」とは程遠いものになってしまう。この「感動の出来なさ」ゆえにわたしは感動を覚えるのだが、これは「この輪から泣く泣く立ち去る」人間の僻目のせいかもしれない。一緒に花いちもんめ出来んで、えろうすんまへんな。

カラヤンがクラシックを殺した (光文社新書)

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Symphony 9-Choral

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