笙野頼子『レストレス・ドリーム』

桃木跳蛇が悪夢の世界スプラッタシティで、ゾンビを相手に世界を破壊するために戦う。笙野頼子は94年の松浦理英子との対談(『おカルトお毒味定食』)で、本作を代表作として墓石に刻んで欲しいといっているが、確かに、これは現在に至る笙野頼子の創作の出発点だと思う。
ロールプレイングゲームを下敷きにしているというこの「言語国家と「私」の戦争」は、例えばヘイトスピーチとの戦いとして現れる。

「馬鹿女だ」――「馬鹿女がいる」――「馬鹿女を殺せ」――「男を困らす馬鹿女だ」――「馬鹿女はどこだ」――「馬鹿女ですって」――「あらっあたしは馬鹿女なんかじゃないわ」――「馬鹿女」――「馬鹿女」――「馬鹿女」――「馬鹿女……」

 単なる罵りや噂話ではなく、肉体や生命を脅かす呪いの力を持ち、刃物よりも鋭い断面を光らせ、あらゆる角度から襲い掛かる言葉。まずはありとあらゆる形容が来る。馬鹿女という言葉と接合した、ごく短い階段が大量にばらばら降る。

「ミニスカートの馬鹿女」――「パンツスーツの馬鹿女」――「めくじら立てたよ馬鹿女が」――「怒りもしない馬鹿女」――「免許も取れない馬鹿女」――「浮気も出来ない馬鹿女」――「ベンツに乗った馬鹿女」――「本屋に来やがる馬鹿女」――「タバコ吸ってる馬鹿女」
P58

冒頭のゾンビのカーニバルで、儀式的に一度殺された跳蛇が落とされる「馬鹿女の地獄」では、ヘイトスピーチを形作る螺旋状の階段が容赦なく襲い掛かる。跳蛇は、「馬鹿女」という単語を載せた階段を蹴り、分解し、「ああ私は馬鹿だ都合の悪い女さ。」「馬鹿女で悪かったなこの馬鹿野郎が。」という具合に言葉の意味を組み替え、地獄からの脱出を目指す。
スプラッタシティでの若妻ゾンビとの戦いでは、若妻ゾンビが操る通俗的ないい回しを、置き換えによって批評性のある、或はイメージを裏切るナンセンスなものにすることで相手にダメージを与える(この置き換えにはルールがある)。

――母です子供ですっ、私達女は愛平和民主主義ですっ。
  私達女は母はもうだまっておられませんっ。
――不妊です出来ても産めません要りません人口爆発ですっ。みんな死んでしまえ。 
  私達ゴリラはうんこ投げが趣味ですっ。
――産んでついに知る女の喜びっ。馬鹿女はだまれっ。
――女黙らない馬鹿女黙る黙るゴリラはゴリラでなかったと言いたいのかっ。
  馬鹿ゴリラと馬鹿ゴジラオラウータンマントヒヒガラモンバラモンコーモンッ! さて、世界馬鹿コンテスト誰が勝つか。
P131

スプラッタシティは跳蛇を初めとする夢見人が見る共通夢とされていて、この悪夢に何度も繰り返し入り(その都度、経験を積むという設定はコンピュータRPGの影響だろう)、各人の戦いの結果で世界が少しずつ変わる。
最終的な目標は、この世界の全規則とされる「昔ムカシ、アルトコロニ」から始まる物語の結末を変えることである。
この小説が始まるまでの、跳蛇たちの戦いの成果は、通俗的な王子様とお姫様の物語をここまで変えたものとして示される。

 昔ムカシ、アルトコロニ、ふたりの姉妹がおりました。姉は醜く腹黒いフツーの女、でも妹は優しく美しかったのです。そう、姉は醜い上に馬鹿で汚くて朝寝坊でした……そりゃーもうそりゃもうひどいもんよ法学部出た後哲学の聴講して顔の毛穴はでかいわ大口ばかばか開けてものは食うわ、学食でね卵ドンブリとカレーうどん並べて交互に食ってんです、それも味が混じるからとか言って割り箸を二膳交互に使って私あれ見てたらもう情けなくて……(中略)そもそも姉ときたら淋しい上司のセクハラ命令も聞いてあげないのです……これお姉様を笑ってはいけません、あれはサナダムシではなくって、あらっ、まあっ、ほほほほ、お姉様はサナダムシになってしまいました……。
 そうして、妹娘は王子様と結婚し南青山の三世代同居住宅で末永く幸福にトレンディに暮らしました。
P80

勿論、この時点では跳蛇は勝利してはいない。
『レストレス・ドリーム』はこのように、言葉を使ったロールプレイングゲームとして書かれている。笙野頼子はこの作品を書く上で、ロールプレイングゲームの全体像を把握するために「『ドラゴン・クエスト』の攻略本は四冊持っている」(『おカルトお毒味定食』P84)と『ドラゴンクエスト』を間接的にせよ念頭に置いていることを明かしているが、むしろ、これはkingさんが紹介されている『ローズ・トゥ・ロード』というTRPGに良く似ているのではあるまいか。

まず面白いのはやはり言霊的な世界観を持つ設定。これはそのままゲームシステムをも規定していて、数値を持たずに本からランダムに選んだ言葉を組み合わせたものを、キャラクターのパラメーターとして設定する。魂の故郷、とか旅のきっかけ、とか弱点言葉だとか、そういうものをそれぞれ本のなかから選ぶ。このとき、どんな本から選ぶかで出てくる言葉の方向性もずいぶんかわるので、かなり意外な組み合わせを見ることが出来て、これ自体面白さがある。私が組み合わせたものでは、「重力の回想録を読む(「宇宙創成」が効いている)」、「闇の中央集権(「古事記註釈」から、これは逆にベタだけど)」という不思議ワードが出てきたりする。まあ、古事記註釈は固有名詞、地名が多すぎて使いづらかった。

で、これはゲーム進行もそう。普通のRPGはもうちょっとダンジョンとか戦闘とかあるんだろうけれども、ここではもっと「探索」寄りのシステムに感じられる。これはゲームマスターがどういうシナリオを用意するかが大きい気もするけれど。一日の探索で、誰かと出会ったり、何かを見つけたりする過程で、ある「言葉」を得ることがある。その言葉はストック場のようなところにストックされ、パーティメンバーの共有のストック場に提示して共有することもできる。さらに、クエストのなかである「言葉」が鍵として出てきた場合、これまで得た「言葉」をばらしたり再構成したり(場合によっては漢字にして、偏と旁に解体してさらに他の漢字のパーツと組み合わせてひとつの字に戻したりもする)して、同じ言葉をこちら側で生成することで先へ進めるようになることもある。

戦闘においてもやりとりされるのは言葉だ。相手のステータスにある言葉と「響き合う」言葉をこちらの言葉のストック場から見つけ出して、それが何故「響き合う」のかを理屈づけたりこじつけたりして、相互の言葉に脈絡を作ることで、相手のステータスを無害化していく、というようなプロセスを辿る。

そういった言葉、意味を基本的な媒介物として用いて進行していくのが、このゲームということらしい。
ローズ・トゥ・ロードというRPGをやってみた - Close To The Wall

わたしはTRPGのことを全く知らないのだけれども、この『ローズ・トゥ・ロード』というゲームは、相当に先鋭的なものなのではないだろうか。いや、それはわたしの認識不足で、TRPG自体が既にそうなのかもしれない。
ドラゴンクエスト』が先鋭的ではない、とはいわないが、『レストレス・ドリーム』や『ローズ・トゥ・ロード』ほどではあるまい(そもそも、コンピュータゲームの世界では、システムの斬新さ、快適さが競われる一方で、物語自体は通俗的なものが消費されがちである)。コンピュータゲームのRPGを出発点に、先鋭的なTRPGの世界に接近してしまうのだから、笙野頼子のすごさを改めて思う。
また、コンピュータゲームのRPGの要素から笙野頼子が汲み上げている批評性にも注目したい。世界の支配者が、わかりやすいものではないのである。魔王を倒せば済む、という安易なものでは勿論ない。ゲームの世界の設計者すらも覆う、不気味な、顔の見えない存在。それは大寺院が統御する、歪んだリズムに象徴される。
このサイバーパンクとマジックレアリズムが融合したようなゲームの世界、「レストレスワールド」では王子が取り敢えずの敵、RPG的にいえば「魔王」なのだが、諸悪の根源というよりも、この悪夢の世界の歪んだリズムにもっともよく適応し得た存在に過ぎないのだと思う。
「言語国家と「私」の戦争」は、これまでに示した跳蛇の戦いのように、言語のみを置き換えれば済むようなものではない。それはいわば対症療法で、漸進的な変化の力にはなるが、世界を崩壊させるまでには至らない。最終的な勝利を得るには、現実の磁場、現実の権力関係を変えなければならないのである。
スプラッタシティの戦いでも、カニバットとタコグルメとの一戦では、跳蛇は見せかけだけの政治的な左右の対立をだらしなく結ぶ、男たちの抑圧的な言葉の音をずらし、読み替えるという戦法を取るのだが、そのためにはカニバットとタコグルメがこの世界を支配する歪んだリズムで回す、鉄条網の縄跳びを、正確なリズムで飛ぶことが要求される。
初めは王子に屈服し、スプラッタシティに忠誠を誓う言葉に過ぎなかった呪文が、後にスプラッタシティを崩壊させるものへと変貌するのも、磁場の変化が起きたからだ。そうなりさえすれば、言葉の置き換えは必要とされない。

――「愛してます」と言わなければ体中の血が全部なくなって死に、このままゾンビになってしまうかもしれないと跳蛇はいつしか判断していた。安易な言葉で掛けられた呪いは解けるのも速いだろうとも。王子さえ倒せば自由になれるはずだ。
(中略)
――王子様、愛してます。愛してます。
P103~104

――王子様、おうじさま、あー、あなたは美しい、けっこんして下さい。
 正確なテンポを刻むドラムの上から言えば、あらゆる言葉が恐ろしい効果を持ってしまうのだと跳蛇は気付いてしまったのだ。
P236

笙野頼子は、この点について、非常に明快に、力強く答える。

 これはすごく言いたいことなので、ちょっと長く喋らせてください。
 二元論なんだけれども、歪んだ世界なんです。そこでその二分割を、時間を刻む、叩くことで表現していくと。そうすると正しいテンポで叩くというのは、単なる理想世界に過ぎないんです。確かに正しいテンポで叩いた場所の中で喋ればどんな言葉でも美しくなる。でも、その正しいテンポというのは、どこにもない。使わなければいけない言葉というのがいっぱいあっても、現実世界を書いた小説の中で使えない場合があるじゃないですか。たとえば、好きでもない王子に「王子様、愛してます」と言うというのが、王子様に対する侮辱の言葉になるか、あるいはすごく卑屈な言葉になるかというのは、その磁場の問題じゃないですか。そんな理想的な磁場をつくるものとしてドラムを出してきたわけです。
(中略)
 そして、もうひとつ、正しい言葉というのか、正確なテンポの言葉を話す時に、必要な気概とか体力みたいなものは、論理だけじゃなくてもっと具体的な確信みたいなものから出てくると思ったから、それを正しいテンポを常に保つという緊張感で表したんです。だからドラムというのは必然だったんです。
松浦理英子×笙野頼子『おカルトお毒味定食』P102~103

「正しいテンポで叩くというのは、単なる理想世界に過ぎない」という笙野頼子の言葉が示唆することの意味は、わたしには大きいように思われる。
跳蛇は正確なテンポを刻むため、全身をメトロノームそのものにして歪んだテンポに対抗する。しかし、「歪んだテンポ」に対置されるこの「正しいテンポ」は果たして本当に「正しい」のだろうか? 第一、この戦いの果てに、よりよい世界が訪れるという確信は実はどこにもないのだ。

 或は、私は殺されるのではなく、血も肉も全部焦がされた挙げ句に、反射神経と指の骨だけを生かされた形で、機械の一部として使用されるのだろうか。自由意志でサイボーグになったように見せ掛けるため、わざわざ生きた丸ごとの意識を閉じ込めたのだろうか。そして殺される私の恐怖や私の体から搾り出された水分は、全部この機械のエネルギーに変わる。
 それならばこのゲームは私を調教するためのものとさえいえない。最終的に私が負けるように作られた処刑ゲームでしかない。
 ゲームの形で与えられた悪夢の処刑だ……。
P134

暫くすると夢の中特有の、根拠もないくせに実感だけはある強烈な感情が襲って来る。自分が完全に機械になってしまう悲しみ。戦いの中で捨ててきたものや、これから捨てるものへの不毛な執着。何を捨てるのかまた捨ててきたのかは判らないまま、もしも望み通りにスプラッタシティと遠く隔たった時、自分はむしろ、ゾンビよりももっと悲惨な存在になってしまうのではないかという想像上の恐怖やとまどい等が出てくる。
P150

事実、スプラッタシティを破壊した後に訪れる、未来人との絶望的なディスコミュニュケーションしかない通信は、どことなくディストピアを思わせる。

 それは、要するに世界が逆転されて、産むことでしか満たされないタイプの男と女の世界というのがなくなってしまって、その後男と女じゃなくて個がいっぱいあって、しかもその個が全部死に向かっているような世界になってしまっていて、それで、世界が違うから、同じ日本語の単語使ってるのにまったく通じないの。だからワープロぐらいしかないし、もう誰もいない。そんな世界を『硝子生命論』の続篇で書きます。
松浦理英子×笙野頼子『おカルトお毒味定食』P110

ここで笙野頼子がいう「『硝子生命論』の続篇」というのは、ひょっとして『水晶内制度』のことではないだろうか。
だとすれば、『水晶内制度』とは、『レストレス・ドリーム』とは違う磁場の歪んだリズムに「私」が絡め取られていく物語なのかもしれない。そして、ウラミズモの歪んだリズムに慣れて行く「私」を見て、ガラス越しに「うわーっ」と叫んでいるのは実は桃木跳蛇ではないか。

・終盤近くの未来人からのワープロ通信。当時は判らなさに呆れたが、これが今見るとウラミズモからの通信に思えてならない。つまり小説は長い長い根を持っている。だから判らないことがあっても十年経てば判るので気にしないことにした。
http://d.hatena.ne.jp/Panza/20091013/p1

Panzaさんのこの指摘は的を射ているように思う。
これらを踏まえて、『水晶内制度』を読み直してみたい。
おっと、その前に『硝子生命論』を読まねば。