カート・ヴォネガット『タイタンの妖女』

ヴォネガットの長編第二作。太田光が「今までに出会った中で、最高の物語」と帯を寄せている。だが、ヴォネガットの作品中では必ずしも優れてはいない、と思う。
運命論というか、決定論的世界観はヴォネガットにはお馴染みなのだが、この作品ではそれが普遍的な不条理にまで達しておらず、コンスタントを初めとする登場人物の運命を「そういうものだ」として受け入れるには抵抗がある。ウインストン・ナイルス・ラムファードの扱いにぶれがあるためだ。
時間等曲率漏斗の発見により、人類の宇宙開発が頓挫している最中、「アメリカの唯一真正な社会階級」を出自とするラムファードは「かっこよさ」と「男意気」から自家用宇宙船で時間等曲率漏斗に飛び込み、結果、太陽からペテルギウス星までを螺旋状に偏在し、未来までが見えるようになる。
この小説の主人公であるコンスタントは初めにラムファード邸に招待された際、ジョーナ・K・ローリーという偽名を使っている。ジョーナはヨナ、大富豪であるコンスタントが所有している宇宙船の名前はくじら号と、旧約聖書の『ヨナ書』がモチーフなのだが、とすればラムファードは旧約聖書の神が具体化、可視化されたものだと考えることが出来る。
ラムファードのなす「予言」の性格は、初め、彼の口からこう説明される。

「いいかね、単時点的な人間にとって、人生はローラー・コースターのようなものだ」ラムファードはふりかえって、彼女の目の前で両手を震わせた。「ありとあらゆる種類のことが、これからきみの身にふりかかってくる。もちろん、わたしはきみの乗ったローラー・コースターぜんたいを見晴らせる。そしてもちろん――あらゆる急降下やカーブのことを書いたメモを、きみに渡すこともできる。どのトンネルの中でどんなお化けがきみの前にとび出してくるかも警告できる。だが、そんなことをしてもきみの役には立たない」
「どうしてかしら」とビアトリス。
「なぜなら、それでもきみはやはりローラー・コースターに乗りつづけなければならないからだ。わたしはそのローラー・コースターの設計者でもないし、持ちぬしでもない。だれがそれに乗っているとも、だれが乗っていないとも言わない。ただ、そのローラー・コースターがどんな形をしているかを知っているだけだ」
P63

「ただ、そのローラー・コースターがどんな形をしているかを知っているだけ」という言葉には傍観者としてのラムファードの立場が織り込まれているようにも思える。
だが、これ以降にコンスタントを初めとする人類を見舞う運命の重要な局面では、ラムファードは積極的に関与している。例えば、「火星の自殺」。

 火星陸軍のこの自殺行為の黒幕は、ウインストン・ナイルス・ラムファードである。
 この手のこんだ火星の自殺は、土地、有価証券、ブロードウェイの興行、および発明への投資によってお膳立てされた。未来を見ることができるラムファードには、金を殖すことなどお茶の子さいさいだった。
 火星の資金は、コード番号だけの無記名預金として、スイスの各銀行に預けられた。
 この投資を運営し、地球での<火星調達計画>と<火星諜報機関>を切りまわしていた男、ラムファードから命令をじかに受けとっていた男は、ラムファード家の老執事アール・モンクリーフだった。モンクリーフは、盲従の生涯の終わりぎわにこの機会を与えられて、ラムファードの冷酷で、有能で、そして優秀でさえある地球大臣となった。
P184-185

ラムファードは書く。

 こと彼らの魂に関するかぎり、火星の殉教者たちは地球を攻撃したときに死んだのではなく、火星の戦争機構に徴発されたときに死んだのである。
――ウインストン・ナイルス・ラムファードの火星小史
P210

まるで他人事のようであるが、「火星の殉教者たち」を「火星の戦争機構に徴発」したのはラムファード本人である。
さらに「彼は他人の血を流すことに対して、にこやかな熱心さを持っていた。P187」という一文を付け加えれば、ラムファードにははっきりとネガティヴな評価が与えられているようにも思えるが、全体を通して読むと、必ずしもそうとはいいきれない。むしろ、ある種の英雄を描いている印象さえあるのだ。

ラムファードは未来を見通せるにも関わらず、運命論者ではなかった。

「きみはローラー・コースターの話をしたっけな――
 それなら、ときどきは、わたしの乗っているローラー・コースターのことも思いやってくれ。いつかタイタンの上で、きみにもそれのわかる日がくるよ。わたしがだれによって、どれほど容赦なく利用されたかが」
P69

という言葉通り、ラムファードもまた、トラルファマドール星人に利用されていたに過ぎないことが明らかになるのだが、そこで彼はトラルファマドール星人のサロを相手に見苦しいまでに激昂する(ちなみに、サロのラムファードへの感情は「この愛には、なにもいかがわしいところはない。つまり、ホモ的なところはない。サロがセックスを持たぬ以上、そんなものはありえないのだ。P290」と説明されるが、これは余計な一文ではないだろうか)。そこに、自らもまた多くの人々を利用して来たことへの反省は見られない。剰え、「わたしがトラルファマドール星人の抵抗不可能な意志に奉仕しながらも、故郷の地球のために最善をつくそうとしたことだ。P316」と正当化してみせる。

なお、ラムファードが人類の歴史自体がトラルファマドール星人に操られていたことをコンスタントたちに告げる場面では、彼に散々人生を弄ばれたコンスタント一家の反応が全く描かれていない。サロの愁嘆場が申し訳程度に添えられる程度である。コンスタント一家(というより、火星人全般)からしてみれば、何を今更? ということなのかもしれない。

ヴォネガットの言葉によると、ラムファードのモデルはフランクリン・ルーズベルトなのだという。

たしかにローズヴェルトはあの小説の中の重要人物です。ただ、動機のほうはそれじゃなくて、大不況から第二次大戦にいたる時期を若者として過ごしたわたしにとって、ローズヴェルトがなんであったか、ということを書きたかったんです。しかし、結局あの本では、わたしでなく、ローズヴェルトが主役になってしまいました。
P343

ヴォネガットの世代のアメリカ人にとってのルーズベルトがどのようなものであったか、を知るのは難しい。が、ラムファードが神とも悪魔とも受けとれるように描かれているのは、ラムファードが主役になってしまった、という言葉と合わせて考えると興味深い。
本来の主人公である放蕩者のコンスタントが艱難辛苦の結果改心する、という教訓譚を小説の枠組みに含んでいるため、そのコンスタントに様々な試練を課す、というか「予言」をするラムファードの役割は、それゆえ絶対的なものとして描かれ、そこには誤謬は一切存在しないかのようでもある。だが、真の放蕩者はラムファードのほうであって、彼は自らの優れた才能と、過酷な運命から何も得ることがないまま宇宙を孤独にさまようのだ――とは考えられないだろうか。

以下は飽くまでも想像であるが、ヴォネガットはフィクションの中とはいえ、人の運命を弄びすぎたという反省があったかもしれない。
エピローグで描かれる、タイタンでのあまりにも悲痛な暮らしに一抹の救いを見いだせることが出来るとすれば、それはヴォネガットの彼らへのせめてもの償いであって、決してこのような境遇を肯定しているわけではない、と思う。