「原文密着主義」と「ネタバレ」

されば、緒の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々の言は、云々の意に、用いたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし

小説のレビューがつまらない本当の理由 - 誰が得するんだよこの書評
小説のレヴューがつまらない、と思ったことは正直あまりないように思う。
ネットでそれらを渉猟する場合、ついさっき読み終えたばかりの本から、自分が何を読めたのか、読めなかったのかを確認する作業だからだ。それで、大抵、わたしは読めてない。落ち込むばかりだ。

わたしは何を読まねばならなかったのか?

佐藤亜紀カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』をこき下ろした件は有名であるらしい。wikipediaにも載っているくらいだ。

17.「わたしを離さないで」再び: 文句のある奴は前に出ろ

佐藤亜紀のこの評価に反発するひとは多いのかもしれないが(ごめんなさい、『わたしを離さないで』読んでないのでわたしには妥当かどうかわからないです)、対話に開かれているのは間違いないといえる。なんとなれば、どこのどの部分がどう悪いのか、具体的に指摘して行くのだから、もし読み手が、その解釈は違う、と思えば異議を申し立てるのは容易なのだ。ネガティヴな評価の根拠は基本的にテクストの中にある。これだけこき下ろされているにもかかわらず、読んでみようという気にもさせてくれるのも、そのおかげである。この辺りは『小説のストラテジー』で引用を駆使してさらに徹底して行われている。

それから、映画評になってしまうが、伊藤計劃の『宇宙戦争』評。

2005-07-01

冒頭のキャッチボールシーンからここまでこの映画の本質を引き出すだけでも悶絶ものだが、鳥肌がたつのはこのくだりだ。

 呼吸は映らない。ならばその口許に蜘蛛の巣を置こう。そして、ダコタ・ファニングの喘ぎはひらひらする蜘蛛の巣として視覚化される。それがスピルバーグの映画の在り方だ。

気付かなかった。泣いてスピルバーグに詫びたい。
両者に共通するのは、ひたすらに対象に迫る試みだ。何が書かれて(映って)いるか、そして、それは何を意図しているか、さらにそれは成功しているのか、失敗しているなら何故か、を読み明かして行くのは、いってみれば棋譜の検討に近い快楽だろう。検討するのが名人ならば尚更すごいことになる。

この種の快楽は「ネタバレ」を回避しながら成立し得るだろうか。

「ネタバレ」を気にされる方がいるのはよくわかる。そうだ、読んだことないけど田中康夫の小説を語るブログを始めよう、と思った時、わたしは「ネタバレ」なんか一切気にかけなかった。思いもよらなかった、といったほうが正しい。誰も田中康夫の小説なんか興味ないから、怒る人間なんているわけがない。これがもし内田康夫だったなら、わたしはもっと慎重に考え、行動しただろう。
筒井康隆文芸時評』ではその辺はおかまいなしである。この本もまた凄まじい棋譜の検討の痕跡だ。「ネタバレ」も何も、オチまで丁寧に書いている。「ネタバレ」をあまり気にしないわたしでも、そこまでやると作者が泣きを入れるのではないかと心配してしまう。
その点、佐藤氏も伊藤氏も、巧みに回避されている。これは「ネタバレ」がネットのマナーであるためであろうが、誰しもが彼らのようなプロの用心深さを文章に備えているわけではない。「ネタバレ」を気にしすぎるレヴューの書き手が、苦心の末に書き上げた結果、本当に面白いと思った部分を泣く泣く削除し、小説のレヴューが意味のないものになってしまうとしたら残念である。まあ、そういう場合は大抵ネタバレ注意って書いてるけど。

今回、『文学部唯野教授』を読み返してみて、初読の時に、ロラン・バルトの『テクストの快楽』の紹介にすごく共感したのを思い出した。今もまたその気持ちは変わらない。だが、それと同じくらいに、小林秀雄の「原文密着主義」に心打たれた。唯野教授は印象批評を「神様並みの常識持ってなきゃだめなの。」というが、何もそこまで要求することはあるまい。「原文密着主義」を目指すくらいなら、普通の人間でも出来るだろう。
あと、講義中心の読み方をしていたことを反省した。それは小説の読み方として貧しすぎる。

文学部唯野教授』の講義は、小林秀雄に始まり、ロラン・バルトに終わる。