田中康夫『ハッピー・エンディング』

今更、田中康夫の小説なんて、と正直思う。「ウッ、シーラカンス」なんて馬鹿にされるかもね。
けれども、聞いて欲しい。これが笙野頼子だと、読み取らなきゃいけないことが多いし、競争激しいし、ウェッという感じ。誤読で馬鹿さらしちゃうに違いなくて恐い。そうなったら、恥ずかしすぎてガス・マスクが必要だ。
「え、田中康夫、書くの? まあ、いいんじゃあない」って、最近付き合い始めた、外見的には、それほどでもない彼もいうし。
それに、ちょっとした優越感だもの。だあれも取り上げてない本の感想書くのって。

 バス・タオルを体に巻いて出ていこうかしら、それとも、もう一度、お洋服を着て出ていこうかしら。どっちにしようかな、と思った。
 昨日の晩、おウチでお風呂に入った時も、あした、バス・ルームから出た後、どんな格好でベッド・ルームへ戻ったらいいのかしらって、真剣、考えてしまった。バス・タオルを巻いて出ていったら、遊び慣れてる女の子に見られてしまうかもしれない。けれども、お洋服を付けて出ていっても、今度は逆に、ブリッ子だなあ、って思われてしまうかもしれない。
 湯気で曇ってしまった洗面所の鏡を右手でキュキュキュキュキュッとこすると、そこに映った私に向かって、「ねえ、どっちにしようか」と尋ねてみた。P7

どっちでもええわ。
無論、どっちでもいいようなことから豊かな考察や記述を引き出すのが小説の醍醐味ではある。あるのだが、『水晶内制度』を読んだ後だけに、ブリッ子文体に余計辟易してしまった。
引用は冒頭に収録されている「ママは知らない」の導入部分で、おかげで早々と挫折しそうになった。それ以後も三十代前半の遊び人のカメラマンが女子高生を前に「ウッドーッ」と叫んで好感を得たり(なんでもウッソー、のことであるらしい)、高いハードルが次々押し寄せるのだが、その辺りになるとこの文体になんともいえぬリアリティを感じるようになって来る。
こういう、唸らされる心理描写もある。

「どうしたんだい?」という感じで窓から顔を出した彼に、もう一度、キスをした。そんなことしたら、かえって、ますます、苦しくなるのにだ。どうしよう。けれども、仕方ない。
 本当に他に誰か好きな人が出来て、「だから、ご免なさい」そういう形で言えない限り、お別れするのは無理のような気がする。ずるいかもしれないけれど、それまで、答えを先に伸ばし伸ばしするしかないのだ。そう思う。P94~95

風俗描写が多い作品は発表された瞬間から常に風化にさらされると思いがちだが、例えば永井荷風がそうであるように、良質な描写は腐らない。
そういう意味で、田中康夫は非常に伝統的な日本文学の書き手だなと思う。『なんとなく、クリスタル』で注釈の多さが目を引き、瞬間的にポストモダン小説の担い手になったものの、以降は保守的な作風に回帰したものだと想像していたが、飽くまで射程は近代小説の正統的な心理描写にあるのではないだろうか。どこでだったか、注釈ばかりが取り上げられたことに不満を漏らしていた作者の言葉は、なんでそんなところが注目されるのか、という困惑の表明だったのかもしれない。実際、本書も表題作の「ハッピー・エンディング」を始め、心理描写に長けた、普通にいい小説が多い。「だけど、ディスコ」みたいに今となってはどうしようもないものもあるにはあるが。

では田中康夫が好んで描写する人物とはどんなものか。これが可笑しいのだが、みんな分を弁えているのである。冒頭のブリッ子語りにしても、結局、「相手にどう見られるか」それから「どう見られたいか」が最も重大な関心事で、彼女たちは常にグループ内での最適なポジションを模索している。本当はこうありたいんだけど、現実はこうだよね、仕方ないけど、が繰り返し何度も描かれる。
タイトルからして否定的な意図であろう「バッド・ウーマン」にしても、俗物語りに見えるが、身の程を弁えるそぶりは忘れないのである。

 私、思うんですの。余裕を持ってベンツを一台買えるくらいの収入がある、ごくごく普通の医者とか実業家との結婚が一番幸せじゃないかなって。世間一般から注目されることも、それほどないでしょ、こうしたレベルだったら。P235

本書が発表された1985年はバブル景気のきっかけと説明されるプラザ合意のあった年で、バブル前夜を舞台にしているのだが、バブルまっただ中でも、田中康夫の描く人物はやはり分を弁えているのだろうか。