佐藤亜紀『小説のタクティクス』

様式の問題

二〇〇六年に刊行された『小説のストラテジー』は小説の目的、「記述の動きによって読み手の応答を引き出すこと」を達成するために、小説を「どう組織化しある形態を与えるのか、どうすればより大きく快を引き起こすことが出来るのか」という戦略を考えるものでした。
『小説のタクティクス』では書名にあるように、戦術を考えます。小説の戦術とは何でしょうか。

 芸術における戦術の問題とは、即ち、様式の問題です。戦略の観点から言えば、作品を形式においていかに充実させるか――どのように十全に感覚への刺激を機能させ、どう組織していくか、が最重要の問題になりますが、戦術的には、今、ここで、何をどのように取り上げるか、その結果どのような形式が可能になるか、が問われることになります。これは完全に同時代的な問題であり、故に常に移ろっていく、様式の変化の問題でもあります。p.26

この様式を考える上で、まず、二つの像が示されます。紀元一世紀に作られたアウグストゥス像と紀元四世紀に作られたコンスタンティヌス像という、ローマ皇帝像です。


http://en.wikipedia.org/wiki/Augustus_of_Prima_Porta


http://en.museicapitolini.org/collezioni/percorsi_per_sale/museo_del_palazzo_dei_conservatori/cortile/statua_colossale_di_costantino_testa

アウグストゥス像は高さ二メートル、コンスタンティヌス像は高さ十二メートルあります。
コンスタンティヌス像の巨大さ及び顔の異様さ、とりわけ顔の造形に関しては「下手」だといいきってみたい誘惑に駆られますが、これこそが様式の違いなのです。

 上手いか、下手か。その問題は常に、どんな作品においても存在しています。ただし、我々が作品の形式を見る時、認識しておかなければならない問題がひとつあります。どんな表現も受容者の前に現れる時には空洞ですが、その空洞を形作るために何かがそこを満たしていたことです。空洞が満たされた状態を、我々は完全には再現することは出来ません。また、再現する必要もありません。ただ、どんなものであっても作品を前にした時にはひとつだけ、肝に銘じておくべきことがあります――作品は表現を生み出した人間の世界の認識から生まれてくること、その認識が違えば、出来上がる作品も当然違ってくるということです。その相違が、様式の相違と呼ばれることになります。
p.25

この二つのローマ皇帝像の違いは、「まだ神に祀られて」おらず「筆頭市民」であるアウグストゥスと「キリスト教をローマの国教とした」コンスタンティヌスの違いであり、元首というものをどう捉えるか、の違いであり、「表現を生み出した人間の世界の認識」の違い、「様式の相違」なのです。
ただしこれらは飽くまでも外観から類推されたものです。
著者は、コンスタンティヌス像の巨大さについて、ギリシャ・ローマ文化圏では巨像は神々の像に多く見られること、コンスタンティヌス像の目の表現については、遠くを見つめるイコンの目、という観察から、様式を導き出しています。
作品と内容の関係は鋳型と鑞型に準えられます。鑑賞者が目にするのは鋳型の方で、鑞型の方は作品の完成とともに溶けてなくなる。故に内容は目的にはなり得ず、従って形式こそが造り手の目指すもの、ということになります。
つまり作品は空洞で、そこに「読解」や「解釈」を流し込むことで、鑑賞者は内容を満たしてやることが出来ますが、作品と完全に一致することはありません。それは同時代の鑑賞者であっても、さらには内容を作り得た立場にある作者自身であっても、作品と内容の一致する部分を把握しているとは限らない。『小説のストラテジー』では、「作品が全て、人間は無」という章で終わっていますが、様式を探る作業でも結局は「作品が全て、人間は無」なのだろうと思います。作品への観察は怠ってはならない。
様式の問題をストラテジー側から見るとこうなります。

どれほど斬新な表現を前にする時も、様式の問題は常に意識しておく必要があります。今まで死角に入っていた社会やそこに住む人々から新しい表現が生まれて来たとしても、要は、従来ある世界と人間との関係とは異なる設定から、異なる意識のあり方がシミュレートされ、異なる語りが生まれて来るに過ぎません。『小説のストラテジー』p.222

音楽や美術を論じる時に様式の相違を度外視する人間はまずいないように、文学においても様式の問題は意識しておいた方がいいでしょう。異なる場所から出る表現の美は従来の美のようではなく、接する者の美の意識も変化を被る。『小説のストラテジー』p.223

様式の違いから生まれる美に接する際の、鑑賞者の意識の変化は、受動的な態度ではまず得られないでしょう。

背景と文脈を共有する書き手と読み手(カルチュラル・スタディ的に言うなら、西欧的ないしそれに準ずる背景を持つ、一定以上の教育を受けた男性を中心とする、ということになるでしょうが)の馴れ合いではなく、それぞれに多様な背景と文脈を持つ書き手と読み手の間の遊戯的な闘争が出現します。異なる背景や文脈から来る記述を読みこなし、自己の背景や文脈を排除することなく更新しながら解釈を加え、美的なものとして把握することができるか否かが、読み手には常に問われることになるでしょう。
『小説のストラテジー』p.159

 つまりはこういうことになります――ある言語的経験を経てきた人がある状況である語を発する。この言語使用は、厳密に言うなら、この送り手独自のものであって、その意味を完全に共有する者はいない。受け手がその語を読む。その解釈は受け手独自の言語的経験を経て形成された独自の枠組みに照らして為され、送り手が用いていた意味付けからはずれる。
『小説のストラテジー』p.108

 読む、とは、この異質な言語使用と折り合いを付けることでもあります。異質な観念の連鎖、異質な語の繋がり、許容範囲ではあるが自分ではまず使わないであろう滲みのある部分での語の使用、時として、そういう意味に使うことができるのか、そういう関係を組み立てることが可能なのかという発見。そうした言語使用に直面した読者の言語体系は、意図してのこともあるでしょうし、自分でも気が付かないこともあるでしょうが、書き手の言語体系をまるまるではないとしても一部、取り入れ、変質することになります。
『小説のストラテジー』p.111-112

様式を把握する作業も「遊戯的な闘争」の一環、といえるかと思います。

「声」と「顔」

以上で引用した『小説のストラテジー』は、小説とは記述であり、その運動であるとした上で、運動を生み出す語り、ひいては声に焦点を当てています。
作例の検討は『ハドリアヌス帝の回想』、『ロリータ』、『水晶内制度』と続くのですが、声の性質はまず回想録や告白という形式、そしてその声の持ち主のあり方に大きく左右されます。
キケロからマルクス・アウレリウスまでのあいだ、神々はもはやなく、キリストはいまだない、ひとり人間のみが在る」と考えられた時代(十九世紀から二十世紀前半までのヨーロッパの極一部人々の間で共有されていた価値観です)の古典的教養人が思い描いた理想の人間像を持つローマ皇帝としての安定した自己像から静かに語られる回想録『ハドリアヌス帝の回想』、何重にも世界から疎外された「外国人」の、さらにいくつにも引裂かれた自意識によってなされる不断の弁明と自己正当化により無数に分裂していく声が響き渡る告白『ロリータ』、「人間」以下だった者が「人間」として遇されるさかさまの世界で、この世界のお陰で「人間」になれた作家が、「人間」以下だった者を「人間」にするという信念のもと、建国神話を書くものの、「人間」を「人間」以下にする原理は温存されたままの世界で直面する葛藤が、四十年に渡る錯乱状態を引き起こし、狂った時間感覚と隠蔽、緊張と弛緩の果てに交差した声が輝かしく響く『水晶内制度』、と読み進めると、その「声」の持ち主である「人間」の変化に否応なく気付かされます。
『小説のストラテジー』が「声」を扱う物であったとすれば、コンスタンティヌス像を初めとして、『小説のタクティクス』では「顔」が取り上げられます。
ヨーロッパを中心に、現代に通ずる人間観を生み出したルネサンス期の人であるピコ・デラ・ミランドラが『人間の尊厳について』で示した、人間は世界の中で自分の顔を獲得出来るという考え、「世界を観測し、出来事に因果関係と法則性を推定し、それを他の起こりつつある事象に当て嵌め、到達すべき目標を見定めて、そこに行き着くべく介入することが出来るp.49」という、因果律を当然の物とする世界観は、十九世紀のヨーロッパで、極一部のひとたちの間で達成されます。アングルの描いた立志伝の新聞王、ベルタン氏の顔は、まさにその成果です。
一方で、ドラクロワが『民衆を率いる自由の女神』で描いたのは、民衆から固有の顔を剥奪し、階層を示す服装や持ち物でしか個人を認識出来ないという、「国民の創世」のプロパガンダでした。

 これは視覚芸術の制約によって浮き彫りにされた近代の大きな矛盾でもあります。ルネサンス期に、自分で自分の顔を自由に作り上げることの出来る存在として夢想された「人間」のあり方が、近代においては可能になります――勿論これは依然、特定の文明圏、特定の社会階層、特定の人種性別に生まれ落ちたら、という条件付きではありますが、近代においてそれらは努力次第で克服可能な癌ディキャップだという物語が好んで語られました。しかしそうした夢を実現した機構自体は原理的に、その成員を顔のない存在――この場合は一致のために意図的に顔を捨て去ることを望まれる存在――としている訳です。
p.82

近代国民国家とは「右の手で固有の顔を与え、左の手で剥奪するp.92」ものなのです。
ここで『メッテルニヒ氏の仕事』の以下の部分を思い出しました。

 ――そのあり方がそれ自体として了解されている事柄は、人為的な規則の形を纏うとその効力を失う。その時、その事柄の根本的なところが変わってしまう。
 ――自然の力の一部を成すものは、精神の世界においても物質の世界においてと同様、人為的な規則にそぐわない。重力や向心力遠心力の法則を、基本的人権のように、人々が認識出来るよう宣言の形にした憲章など想像もできない。

 この時、メッテルニヒ氏が論じているのは主権者たち――王たちのことだ。憲法はその地位を定め、その権限を定め、その不可侵を定める。にも拘らず、王たちは或いはその首を失い、或いは追放されて死ぬ。王の主権が自明のものではなくなる時、法の規定は彼らがその基本的な権利(原文傍点)を守る何の役にも立たなかった。物理法則も同様だった彼等の当然の権利は、法で規定されることによって、単に法で定められた権利に変わってしまっていたからだ。これはおそらく今日の主権者たち(原文傍点)にも適応できるだろう。生命と身体と財産に関する当然の権利は、憲法で規定されることで、法によって与えられ法によって奪われる権利に変質する。その時、国民(原文傍点)は、或いは虐殺され、或いは国を逐われることになる。
 そのどこに進歩があるのか、とメッテルニヒ氏は問うている。百年後の、オーストリア帝国が崩壊した後の流血とアナーキーはその答だ。そして実のところ、その後も幾度となく繰り返される流血とアナーキーは、標準的な constitution があるにも拘らず、相も変わらずそれは空手形のままで、未だそれを実体化した constitution は確立した訳ではないことを示している。
文學界』二〇一三年五月号p.71

「生命と身体と財産に関する当然の権利は、憲法で規定されることで、法によって与えられ法によって奪われる権利に変質する。その時、国民(原文傍点)は、或いは虐殺され、或いは国を逐われることになる。」
「顔」と「基本的人権」とは重なる部分も多いものの、飽くまで別物ではあると思いますが、メッテルニヒ氏が見ていたものの意味を考える上でも、「顔」の概念は非常に示唆するものが多いかと思います。
二十世紀に入り、「顔」を巡る近代の矛盾は、一方では「固有の顔の絶対性」、一方では「群れの顔の絶対性」として映画表現に表れます。
アメリカ合衆国ではイデオロギー的な面からも「固有の顔」が当然視されて来ました。スピルバーグは『シンドラーのリスト』でナチスに顔を奪われたユダヤ人たちに、追悼の意味を込めて顔を取り戻させ、『宇宙戦争』で超人的な人間、どんな顔であれ作り上げることを可能にした人間を演じつづけたハリウッドのスター俳優トム・クルーズの顔を群衆の中に紛れこませることで、顔を奪う表現を可能にしたのも、「固有の顔」のイデオロギーがあってこそです。
ソヴィエト・ロシアやナチスの映画監督、エイゼンシュタインの『十月』やリーフェンシュタールの『意志の勝利』には固有の顔はなく、「労働者たち」「兵士たち」、民族といった、試行錯誤の末に個人が獲得していく顔ではなく体制から与えられる顔が画面に登場します。『意志の勝利』はドラクロワの『民衆を率いる自由の女神』と全く同じ特徴を備えています。
このように、映画や絵画に見られる顔の表現を検討した後で、本書は根源的な疑問を投げ掛けます。結局、固有の顔はフィクションではないのか。あったとしてもそれは特定の時代のごく一部の地域のごく一部の階層の人間の間でだけ可能だった話で、実現不可能な、近代国民国家の空約束に過ぎないのではないか。これは一面の真理であるとはいえ、固有の顔の虚構性を全面的に認めてしまうと、我々はソヴィエトやナチスプロパガンダ映画の群衆になってしまいます。
アウグスト・ザンダーの『二十世紀の人間』はその答えのひとつであり、「国家が与えたり奪ったりする以前に存在している人間の固有の顔p98」がそこにはあります。
ただし、その顔は、無限の可能性を秘めた、何にでもなれる顔ではないし、その顔をささやかながらでも作り上げていくには、安定した社会が必要です。
第一次世界大戦に従軍したオットー・ディクスは近代の矛盾が剥き出しに現れる戦場を描いた連作版画『戦争』で、「国家が与えた顔」というものが徹底して虚構であることを、そして世界が決定的に不安定な物だということを暴きました。

 これはひとつの、決定的な損壊の感覚です。ディクスは版画という形で――ある意味庶民的であり、むしろカリカチュアにこそ相応しくさえ思える形式で、リアルというよりはグロテスクな表現を選んでおり、それがこの悪夢に一種の魔術的な色彩を与えています。現実以上に現実的な事柄は時としてそうした形式を取るものです――第一次世界大戦後の表現の一部に対して用いられたのが、マジック・リアリズムという語の最初でした。ただしこれは何もディクスや他の第一次世界大戦経験者が最初という訳ではなく、既に百年前、ゴヤが採用したやり方であることは指摘しておく必要があるでしょう。このリアルならざるリアリズムは、他の、例えば同時代を描いた作品や肖像画においても、ディクスの作品を特徴付けており、その効果もまた同様です――作品において、鑑賞者は、現実においては感知することの出来なかった現実の感触を、味わうことになるのです。
p.106

この決定的な損壊の感覚は、ディクスに先立ち、ゴヤに見られるものです。
ナポレオンのスペイン侵攻は、ヨーロッパ史に初めての継続的なゲリラ戦を齎しました。このゲリラ戦の惨禍は、「フランスの啓蒙主義思想の洗練を受けナポレオンの侵攻を文明化の始まりとして歓迎したであろうp.128」ゴヤを、物語として捉えることの出来ない歴史に直面させることとなります。ゴヤは逮捕者四百人の処刑が描かれた『マドリード、一八〇八年五月三日』を、前日の英雄的な蜂起がテーマの『マドリード、一八〇八年五月二日』のような物語のある歴史画の様式で描くことは出来ず、『戦争の悲惨』のような、ただ「出来事自体としての歴史」としてしか描くことが出来ませんでした。
こうした様式が意味するものは、身も蓋もない世界の不条理さです。
ナチスが退廃芸術として、ディクスに見られるような傾向、決定的な損壊の感覚を元にした表現を弾圧したのは、世界の不安定さを突きつけるこうした表現を、鑑賞者の多くが拒否したのと無関係ではない、と本書は指摘します。
そうした世界を描くのに、小説家はどうしなければならなかったか。

薄皮一枚の上

ナボコフ全体主義体制をモデルにした『ベンドシニスター』を書くに際して、いかに慎重で繊細な手つきを必要としたか、その超絶技巧が何に奉仕したかを、本書は明らかにします(『小説のストラテジー』での『フィアルタの春』『ロリータ』の読解見られるように、佐藤亜紀さんのナボコフの読みは恐ろしいほどの切れ味です)。
『ベンドシニスター』の冒頭のナボコフ一流の、これ以上ないほど正確無比な描写は、謎に満ちた人称と、作中に導入される「作者」の存在から、これが何重にも周到に切り離された世界の描写であることを解き明かし、「読者にはクルークの心の優しさ(原文傍点)を記憶に留めて欲しい」というナボコフの後書きに見られる主人公「クルークの心の優しさ」とは、ナボコフの愛する文学的記述、「エンマ・ボヴァリーがシードルを飲む時、シャルルの目を通して捉えられる舌の官能性、マフの毛皮に付いた雪片p.137」に他ならず、「そうした記述はあらゆる全体主義体制にとって反革命的なものp.147」であるが故に、作者である「私」がクルークを憐れんで正気を奪い去ると、クルークの私的な世界に適用されて来た文学的な記述は姿を消し、全体主義体制下を描くカリカチュアの世界でクルークは「無残極まりないどたばたp.147」を演じることになります。
ナボコフが愛した文学的な記述、きちんと見てきちんと書くことには安定した世界が必要なのですが、その安定した世界たるや、この有様です。

 世界はとろ火で加熱した牛乳のようなものです。煮え立つ牛乳の上には薄い膜が浮いていて、その上で、多くの人間は安定した生活を送っています。その膜が薮破れてその下の世界に放り込まれた者や、最初から膜の上になどいたことのない者が、きちんと見たことを書こうとした時、膜の上で用いられるきちんとした言葉は役に立ちません。きちんとした言葉で書くことが出来るとすれば、対象の姿を安定した世界の認識に合わせて変形し、その世界で物や事を指し示しているからです。いわゆる、嘘がある、というやつですね。
p.150

薄皮一枚の上、というのが、現在の安定していると考えられている世界のよって立つ場所なのです。
ここでどうしても『醜聞の作法』の哲学者の言葉を思い起こさずにはいられません。

 男 去年死んだ厩の常連が言ってた話ですがね、可哀想に、病気が頭に回って狂い死にだったけど、偶に我に返っちゃそう言うんですよ。沈んでる、ってね。そいつも元は学のある奴だった。地面は始終寝返り打っちゃ、上に載ってる物を全部でんぐり返して来たんだと教えてくれたこともあった。で、お前も早く逃げた方がいいぞって言うんです。この地面がお前が考えているよりぐずぐずだ、眠り込んだ地面の上に石灰の薄いうすい板を何千枚も重ねて水を含ませたものが載っていて、その上に皆が住んでいる、そろそろ寝返りを打とうと地面が身動ぎすると、粉々に割れて水の中に沈んじまうから、さっさと逃げ出した方が利口だぞ、ってね。怪我して石切り場から放り出された奴も頷いてましたよ、掘って行くと水が噴き出してきて手に負えないことがある、パリは確かに浮いてるだけだ、おれたちは板切れ一枚底の艀に乗っかってるようなもんだぞ、っね。で、それがいよいよ沈むって訳で。
『醜聞の作法』文庫版P.193-194

『ベンドシニスター』はナボコフが英語で最初に書いた長編小説ですが、ヨーロッパ大陸諸国と違い、世界の安定の神話を享受して来た英語圏の人々にとって、スターリン体制下のロシアも、ナチス支配下のドイツもどこか遠い国の出来事であり、そうした人々に向けてナボコフは書かなければなりませんでした(キッシンジャーの『外交』には、アメリカ合衆国は勿論、世界中に植民地を持つイギリスもヨーロッパ大陸の出来事は遠い国のこととしてしまう傾向があることを、キッシンジャーも首を傾げながら指摘しています)。続いて語られる『慈しみの女神たち』と『アメリカン・サイコ』がアメリカ合衆国で引き起こした激烈な拒絶反応は、アメリカ合衆国という国が持つ、「固有の顔」の絶対性のイデオロギーと、その前提である世界の安定の神話故です。
二〇〇六年にフランス語で執筆されフランスで出版された『慈しみの女神たち』は、ナチスに誂えてもらえる高等文官の顔を選択して、自らの「人間」(それは禁忌を犯したいという根源的な欲望ですが)を押し殺す、「凡庸な悪」さえも安定のための仮構に過ぎない語り手マクシミリアン・アウエの回想録です(この人物の冒頭での「兄弟たち」という読者への呼びかけの猛毒は凄まじく、アウエは薄皮一枚の上も下もわかったうえで語り始めている、とされています。この内容に回想録という形式が選択されていることも注意が必要でしょう。回想録については『小説のストラテジー』の『ハドリアヌス帝の回想』を扱った章に詳しいです)。
この『慈しみの女神たち』との類似が指摘される『アメリカン・サイコ』では最早登場人物たちに固有の顔はなく、身に付けた商標の山が個人を作り上げます。登場人物を苛んでいるのは、薄皮一枚の上の安定を維持する「恐怖」であり「悲惨」で、主人公のパトリック・ベイトマンに至っては殺人を犯している間だけ「人間」に戻れる始末です。
薄皮一枚の上の人間性こそ実は非人間性、「凡庸な悪」として描くこれらの作品は、薄皮一枚の上で人間性の神話を作り上げていく「固有の顔」のイデオロギーを信奉する総本山であるアメリカ合衆国では到底受けいられるものではなかったのですが、続く章で語られる『虐殺器官』や『下りの船』が日本のSF業界に引き起こした反応は、これと全く同じものでした。
伊藤計劃が『虐殺器官』でアメリカを通してボスニアと薄皮一枚の上を接続しする一方で、「人間」や「意識」を徹底して「物」として扱い、既存のフィクション/ノンフィクションからなるコラージュで「人間として固有の顔を持たない人の世界p187」を作り上げた手法は、ブレット・イーストン・エリスとの類似が指摘されます。
佐藤哲也は『妻の帝国』で二十世紀の全体主義体制と日本の郊外住宅を接続してみせ、『下りの船』で高等文官たちが差配するテクノロジーの発達した未来で、恒星間宇宙船によって違う惑星に送り込まれる棄民たちの、次の瞬間にはたちまち剥ぎ取られてしまうような移ろい行くいくつもの顔を描きました。
世界を分ける薄皮一枚を扱ったこれらの作品を、何故SF業界が拒絶したか、について本書はSFが未来を空想することから、チェスタトンを引用して答えます。

 チェスタトンが言うように未来を思い描くには、どうしても必要なものがあります――揺るぎない、安定した世界です。今積み上げたものが次の瞬間、当たり前のように雲散霧消している場所、昨日まで適用されていたルールが教は突然に停止され明日はまたどうなるかわからない場所においては、時間の経過とともにどこまでも拡大していったらどうなるか、を考えることはそもそも無意味です。
p.190

世界の安定の神話を自明なものとする者にしか、未来は存在しないのです。
この章では伊藤計劃佐藤哲也がさらされた、そんなSF業界からの無理解な評をいくつも紹介しています。彼等は結局、様式の相違を認識出来なかった、その一点に尽きるだろうと思います。それはひとえに作品への観察不足に求められるべきでしょう。印象派やフォーヴを、「印象派」や「フォーヴ」として腐したような批評家のように、対象をよく観察した評者は恐らく一人もいない(小松左京は『虐殺器官』を何が書かれていたか、わかった上で否定していたかもしれませんが)。ただ、この「様式の相違」が、これまで見て来たようにあまりに世界のあり方、人間のあり方についての、根源的な認識の相違から生まれるものであるために、本書の今日性が、驚くほど際立った印象を与えることになっています。

小説は失効しつつあるのか

虐殺器官』『ハーモニー』『妻の帝国』『下りの船』は、従来の表現からすると、様式の瀬戸際にある作品とされます。ならば新しい様式は、と読者の関心は当然そこに向くのですが、最後の章で語られるのは、表現媒体としての小説の失効についてです。
まず、担当編集者から出された疑問、東日本大震災後の新しい表現の可能性について、著者は、喪失の否認、癒しの優先、忘却しやすさといった日本人のメンタリティは世界の安定性を再確認するだけで、様式の変化は起きないだろうと答えます。
次に、本書で様式の変化を説明する際に、映画や絵画を多く取り上げて来たことに触れ、「特に映画のことを考える時、理解し難い現象が起こってp.207」おり、拡大公開系のような、「極限まで幅広い観客層を対象に、途方もない製作予算を回収できるよう作り上げられる商品(原文傍点)p.208」は、「映像作家が好きな時に好きなように作れるものではなくp.208」関わる人間の多さからすると巨大で「重い表現媒体p.208」であるにも関わらず、表現様式の変化が明白なのです。「表現手段として生きている(原文傍点)p208」といわれます。
一方、小説は「紙とペンや鉛筆と時間さえあれば、誰でも今日にも書き始められるp.208」軽い表現媒体であるにも関わらず、現代の多くの小説の様式はエミール・ゾラの時代で止まり、レーモン・ルーセルより先に進むことはなく、キュービズム以降のミメーシスの崩壊と抽象絵画の出現に追いついておらず(説明せず描写せよ、というテーゼは小説の書き手と読み手に未だ根強く信奉されています)、「ことによると小説は既に死んでおり、あとは模範的な様式の中でどれだけ練り上げられるかだけが問題の、伝統芸能的なものになってしまっているかもしれませんp.209」と述べられます。
この小説の失効については、異論のある人は多いと思いますが、『慈しみの女神たち』や『アメリカン・サイコ』を拒絶したアメリカ合衆国で作られる「商品」としての拡大公開系映画が、様式の変化を絶えず受けていることを考えても、恐ろしいことに、説得力があるといわざるを得ません(『小説のストラテジー』では、拡大公開系の映画はそうした状況を扱いたがらないだろう、としていましたが、二〇〇六年の『小説のストラテジー』出版の前年に『宇宙戦争』が公開されて以降、『アイランド』(二〇〇五年)『トゥモロー・ワールド』(二〇〇六年)『ボーン・アルティメイタム』(二〇〇七年)と続けざまに製作されていることからも、様式の変化がリアルタイムに起きていることがわかります)。

誰よりもまず鑑賞者がそれを拒む

この小説の死、『虐殺器官』や『下りの船』を評者が拒否した例に見られるように、何より読者の怠慢が大きいのではないか、と思います。例えばジャンルという概念は、読者の怠慢を前提にして成立している部分があるのではないでしょうか。ジャンルの宿命とはいえ、「異なる背景や文脈から来る記述を読みこなし、自己の背景や文脈を排除することなく更新しながら解釈を加え、美的なものとして把握することができるか否か」という態度は要求しえず、従って「遊戯的な闘争」は存在せず、様式の把握と美の更新は有り得ないことになります。
こうした鈍感さはSF業界だけか、というと勿論そうではない。

(前略)ただしその「オリジナル」という概念――他の誰のものでもない自分だけの経験と思考から、他の誰のものでもない自分だけの表現を生み出すという概念自体、薄皮一枚の上に安んじて生きることのできる「人間」の特権的な発想だと言えないこともありません。
 こういう発想は、この国では近代の社会に必要な制度一式のひとつとして輸入された文学――「日本近代文学」を担う特殊な高等文官(勿論、私はここで彼らを『慈しみの女神たち』において「凡庸な悪」を生きる高等文官たちの同類として語っていますが)である「作家」と、その崇拝者たちによって形成される幻想の一部です。
p.188

日本の近代文学は高等文官の担う薄皮一枚の上に安住する代物に過ぎないのだとすれば、その系譜に無自覚に連なる場所から生まれて来るものは、どこまで行っても、薄皮一枚の上の人間の神話を再生産し続けることにしかならないでしょう。これは文学にとって致命的であるといえます。
さらに、「小説は、ある意味、全くの「大ドイツ美術」状態だと言っていいでしょう――退廃美術としてパージされた両大戦間当時の現代美術に代わる美術の規範としてナチス時代に推奨された、今となってはキッチュな魅力もないことはない偽十九世紀美術です。p.209」という痛烈な評は、アウシュヴィッツ以後に詩を書くことは野蛮であるという言葉を思い出さざるを得ません。同時代の現代美術を退廃芸術として追放した大ドイツ芸術展が何を隠蔽したがったのか、当時のドイツ国民が何を支持し、ナチスが国民に何を約束したのか、を考える時、薄皮一枚の上に安住した鑑賞者の姿勢がまず問われなければならないように思います。
新しい小説の様式が生まれるか否か、は鑑賞者にゆだねられている、といっても過言ではないのではないでしょうか。

小説のタクティクス (単行本)

小説のタクティクス (単行本)

佐藤亜紀『醜聞の作法』文庫版

『醜聞の作法』の文庫版が出ましたので早速入手しました。解説は渡邊利道さんです。

醜聞の作法 (講談社文庫)

醜聞の作法 (講談社文庫)

渡邊利道さんの解説は時代背景から作品の形式、さらにはテクストの今日性まで、細やかな神経の行き届いたもので、非常に読み応えがあります。
『醜聞の作法』が2010年に発表されて以来、岡和田晃さんが主催された読書会初めとして、様々な読解が試みられて来ましたが、岡和田晃さんが季刊『メタポゾン』2013年仲夏第九号で、『「思想」と「エロス」を分つもの』と題する『醜聞の作法』論を発表されました。
季刊メタポゾン 第9号(2013年仲夏)

季刊メタポゾン 第9号(2013年仲夏)

『「思想」と「エロス」を分つもの』では、冒頭の『ラモーの甥』の本歌取りで、「気のぬけたような様子の、笑顔を作った、目の敏い、しゃくり鼻の娼婦」と描写される部分が『醜聞の作法』では「ああした娘たち」と一括りにされる点に着目し、関谷一彦の『ラモーの甥』での読解、「当時さまざまな人間が集まったパレ・ロワイヤル」から「娼婦が出没したフォワ回廊」へと思考が移行することに、「夢想」が「性的な記述」に移っていることを見るという読解は「深層の意識が「前意識」として記述されたものと理解している」というものであり、翻って『醜聞の作法』では「夢想」と「エロティスム」は意図的に未分化のものとして扱われていることから、そこに巧みに作り込まれた表層を見て取ります。
さらに、「仇っぽい年増」であるパリは神経流体に刺激されることでいつでも「小娘みたいな」パリに早変わりすると「私」はルフォンに語りますが、これは「来るべき回天=革命」のみならず過去から続く「長期的な崩壊」をも射程に収めるものです。
2005.5.13: 日記

で、何で業深かというと、ダーントンの『禁じられたベストセラー』なんか合間に読んでしまったからである。何か面白そうな資料にころころと塗れているな、 この人余生はこれで行くつもりかと思っていたら、いやもう、とんでもないところに行ってしまっている。一口で言うなら、啓蒙思想フランス革命を生んだの ではなく(勿論、今時単純にそう信じている奴はいないが、単純に否定している奴もいない)、もっと長期的な崩壊の上に啓蒙主義はたまたま乗っかっただけだ ――と思う(これが最大のポイントだ)、というのだが、他に味方はいるんですか、異端の説を唱えて学界追放とか大丈夫ですか、ダーントン先生、と思わず言 いたくなってしまう。それともこれはプロレス流の負けたふりなのか。異端説をちゃんと論証してのけて、ふはははは、と笑うと後でちゃんと拍手してくれる奴 を準備してあるのか。

という『禁じられたベストセラー』のダーントンの説の要約に見られる「長期的な崩壊」、そして第十六信のシャンゼリゼに現れる男が語るこの哲学。

 男 去年死んだ厩の常連が言ってた話ですがね、可哀想に、病気が頭に回って狂い死にだったけど、偶に我に返っちゃそう言うんですよ。沈んでる、ってね。そいつも元は学のある奴だった。地面は始終寝返り打っちゃ、上に載ってる物を全部でんぐり返して来たんだと教えてくれたこともあった。で、お前も早く逃げた方がいいぞって言うんです。この地面がお前が考えているよりぐずぐずだ、眠り込んだ地面の上に石灰の薄いうすい板を何千枚も重ねて水を含ませたものが載っていて、その上に皆が住んでいる、そろそろ寝返りを打とうと地面が身動ぎすると、粉々に割れて水の中に沈んじまうから、さっさと逃げ出した方が利口だぞ、ってね。怪我して石切り場から放り出された奴も頷いてましたよ、掘って行くと水が噴き出してきて手に負えないことがある、パリは確かに浮いてるだけだ、おれたちは板切れ一枚底の艀に乗っかってるようなもんだぞ、っね。で、それがいよいよ沈むって訳で。
文庫版P193-194

これらを回天(レヴオリユシオン)という言葉で結ぶ時、読者は表層から感じ取る不吉さや不穏さの根源の在処に思いを致さざるを得ません。
さらに、作中でも名前の挙げられる平民の出である「哲学者」、ダランベールディドロ、ルソーといった啓蒙思想家は「古い学問・知識・イデオロギー・迷信・狂信など、いわば知の暗闇に対して明るい知の光」を投げる「オプティミスト」であり、ルフォンも「オプティミスト」の一人として名を連ねうる筈の人物だ、とした上で、そういった「オプティミスト」たちの影響を受け、結果として「国民国家」の勃興に一役買ったドイツ・ロマン主義たちに、「神経流体」は第六感を証立てるものとして「霊感」を付与したのですが、実際にガルヴァーニ電気を研究したことのあるノヴァーリスの『キリスト教世界あるいはヨーロッパ』は、「フランス革命を一つのモデルとして「パリ」という「年増」に刺激を与える「神経流体」のあり方を模索」する延長線上にある物として、メッテルニヒの書記官となるフリードリヒ・シュレーゲルの未完の小説『ルツィンデ』も同じ方向性を持つ物として紹介されます。
『「思想」と「エロス」を分つもの』は、このように、「表層に留まり、軽やかに動きつづけてこそ、語るに値する歴史の実態が浮上してくる」様子を丁寧に追っています。正直、表層の操作でここまで出来るのかと作者の技巧の極みに思わず背筋がぞくりとしました。
この表層と深層という捉え方は『金の仔牛』の刊行後に書かれた『〜十八世紀の表層〜』によるものですが、十八世紀を扱った作品に当てはまることが作者の言葉によって明らかにされていて、『「思想」と「エロス」を分つもの』でも次の部分が冒頭に引用されています。
『金の仔牛』 著者:佐藤亜紀~十八世紀の表層~() | 現代新書 | 講談社(1/4)

 深層が表層より価値があるとは限らない。十八世紀はヨーロッパの歴史においておそらく人間が、いい意味でも悪い意味でも、最も賢明だった時代だが、彼らはそういうものを素早く覆い隠し、足を取られることなく軽やかに動いていくことを知っていただけである。

 彼らがそういう風に動いてくれなければ---最初から無意識だの性の力だのを突き回して再解釈の余地もなく凝り固まった作品しか提供してくれなければ、逆説的ながらグートの舞台は生まれず、「フィガロの結婚」の上演は無限に同じ所を回り続ける繰り返しの中で、今、ここ、から取り残されていただろう。

今回、文庫版を読み直して、とりもなおさず、作者の提供した「薄く軽やかで、しかも堅固な表層」に感銘を受けました。そこで連想したのはマルセル・カルネの作品です。

マルセル・カルネは『天井桟敷の人々』で有名なフランスの映画監督で、愛を軸とした作品群は、魂は通い合っていても二人は結ばれない、というパターンが多いのですが、逆説的に愛の肯定、愛の尊さを歌い上げるものでもあります。
一九四二年のナチ占領下で撮られた『悪魔が夜来る』は、悪魔が人間を絶望させるために使わした二人の手下、アラン・キュニーとアルレッティが、吟遊詩人に扮し、婚礼の儀の行われている城を訪ねることから始まります。そこでは騎士(マルセル・エラン)と城主の娘(マリー・デア)が、城主を始めとする周囲の祝福ムードの中で、政略結婚なのでさして幸せそうでもない様子で宴に参加しているのですが、そこでアラン・キュニーは城主の娘を、アルレッティは騎士を誘惑し、それぞれ成功します。
ですがアラン・キュニーはこれを汚れ仕事と感じている上、マリー・デアとの逢い引きを重ねるうち、マリー・デアと世にも美しい愛を語らうようになります。密会場所の森の泉の水をマリー・デアが両手で掬うと、アラン・キュニーはそれを飲み、口づけを交わすのですが、彼女との愛の成就はマリー・デアの破滅を意味するので、邪慳にしたりもしてみます。
このアラン・キュニーの仕事ぶりに不満を覚えた悪魔が直接指導に来て、アラン・キュニーとマリー・デアとの仲を裂こうと手を尽くし、アラン・キュニーからマリー・デアの記憶を消し去るのですが、思い出の泉で再び出会った二人は、かつてしたようにマリー・デアの手から泉の水を飲ませてもらうと、アラン・キュニーの記憶が蘇り、愛の強さを確かめます。これに激怒した悪魔は二人を石に変えてしまうのですが、石になっても寄り添う二人の心臓の鼓動は動いたまま。誰にもこの愛を妨げることは出来ないのです。
と、以上が良く紹介される『悪魔が夜来る』の粗筋だと思います。
ところでアルレッティは。
プロフェッショナルに徹するアルレッティ(悪魔からは息子(アラン・キュニー)とは違って良く出来た娘と誉められる)は城主までも誘惑し、騎士との間に不仲の種を撒き、両者の決闘へと導き、城主に騎士を殺させます。さらに、婿を手にかけて苦悩する城主を骨抜きにし、城から立ち去る自らの後を城主に追わせ、それからは杳として知れず、という展開を辿ります。
ブーイングの作法』によれば、この映画には、アラン・キュニーの純愛の道と、アルレッティの情欲の道とがあり、純愛譚は虚構の極みの超自然現象起こりまくりの「およそ納得のいかない展開」、情欲の方はといえば愛の奇跡も何もない「ひたぶるに納得の行く展開」で、その二つが、交差しながら進むのです。そして、最後に交差する場面が、悪魔によってアラン・キュニーとマリー・デアが密会する泉の水面に映し出される城主と騎士との決闘です。佐藤亜紀さんはこの瞬間をこう書きます。「この構図の美しさをどう説明したものだろう」。
この指摘には目から鱗の落ちる思いです。そして、『醜聞の作法』で、第十七信で現れる覚え書きの世界と書簡の世界との交差が何故あそこまで感動的なのか、色々考えてみるのですが(これはつまりフーガの形式だ、ルフォンの逃走もあるし、などと)、恐らく同じ構図があるのではないかと思います。
『醜聞の作法』と『悪魔が夜来る』とを比べた場合、覚え書きが純愛の道で、書簡が情欲の道、と考えることも可能ですが(連想したのはそこがきっかけですが)、勿論、単純に当てはめるには慎重にならなくてはなりません。
語り手たる「私」は思想の代わりに娘たちを追い回し、マゼリともいつの間にかよろしくやっているような人物ですが、「私」の神経流体の話にも「尾籠」と応ずるルフォンは、純愛を体現したような人物です。

 私 女を口説く時、君はどうやって口説く。
 彼 そんな機会はなかったよ。
 私 じゃ、女が君を口説く時はどうだ。
 彼 口説かれたことはないよ。
 私 じゃ一体、アンネットがあれほど君に献身的で、君がマゼリもろともアンネットにあれほど献身的なのは何故だね。
 彼 何となく知り合って、何となくそうなったのさ。
 私 まさか。
 彼 本当だ。
 私 じゃ君らはお互いにお互いを口説いたんだろう。私は、女を口説く時には付け回す。声を掛ける。はね付けられる。そうこうしているうちに誰かは肉からず思ってくれるだろうという訳だ。ところが君はどうだ。女と目が合う。言葉を交わしている。君は女に会いにいく。女は君に会いに来る。そうなればどんなに恐ろしいお荷物を抱えていようと物の数にも入らないだろう。何て幸せな境遇だ!
 彼 ああ、アンネット。
文庫版P91-P92

ルフォンの書く覚え書きが純愛なのはその反映だと考えれば成る程と頷けるのですが、そんなルフォンと、「私」は常に対話をします。覚え書きと書簡の関係だけではなく、書簡の部分にもそういった無数の「対話」がある。
そうした「対話」がルフォン自身の表層をひっぺがす場面があります。
まず、第八信で自宅に戻ったルフォンを襲った悲劇を見てみましょう。ルフォンは行方をくらませたアンネットとアンリエットを探して、マゼリとアンネットの友人たちを訪ねて回るのですが、そこで彼女たちは皆、ルフォンに優しい態度を取り、家に入るよう勧めます。ですがルフォンは「何を言われたのか見当も付」かず、「すれっからしの婆さんの意地悪だ。それだけさ」といい、「困惑」し、「後退」ります。
このルフォンを鈍い男と評する「私」に、マゼリは厳しく言い放ちます。

 マゼリ そりゃあんたの見立て違いさ。重々承知に決まってるだろ。あいつは見掛けほどの朴念仁じゃない。ただ、わかっててわからないふりをするのがあの男の手なのさ。
P142

 マゼリ あの男と何としてでも一緒になりたい、添い遂げたい、なんてのは、おつむのとろいうちの娘くらいのものさ。弁護士先生の妻とくりゃ奥様だ、とか、何かあらぬ夢を見ちまったことは別にしてもね。うちのルフォンが入る場所は、基本的には二番手三番手だよ。あの男はそれがよくわかってる。たまたま今日は誰も来ない、とかそういう晩に、無邪気な顔して、やあ今晩は、というのが、自分にとっちゃ一番似合いだとよく知ってるのさ。そういう意味じゃ、あれも詰まらないなりに頭のいい男だ。けどたまさかそういう好機に行き当たっても、他に用事があるんで時間を潰していられないとしたら? 後を繋いでおくのが吉だろ。でも、わかって断ったら後が繋げない。だから朴念仁面して何を言われたかわからないふりをするんだよ。
文庫版P142-143

 マゼリ そういう男なの。血が冷たいのよ。
文庫版143

これらはただの穿ち過ぎでも憎まれ口でもなく、ルフォンの表層だけを見る「私」と違って、マゼリはルフォンの表層の意味を暴き立てているものだと思います。モーツァルトのオペラを解釈する演出家の姿勢に似ているといえるかもしれません。
この後の展開を考えると(アンネットとマゼリ不在の家にセレストが収まっています)、マゼリの言葉が真であったと判断せざるを得ないのですが、マゼリといえどもルフォンが塀を登ったりするまでは予測出来ませんでした。
ただし、それは小説の冒頭部分で予告されていることを明らかにするのが、ブログRoseRootさんです。
Solo: 佐藤亜紀『醜聞の作法』
『醜聞の作法』の「でんぐり返し」は冒頭の時点ですでに始まっていたという素晴らしい洞察です。そうした磁場、力が最初から与えられている。ということは、「でんぐり返し」は作品を貫く「運動」であるともいえるかもしれません。覚え書きと書簡の「でんぐり返し」、パリの街の「でんぐり返し」、ルフォンの「でんぐり返し」。
RoseRootさんはルフォンが道化へと「でんぐり返る」瞬間を捉えていますが、神経流体に対する刺激がきっかけになって、という考え方も出来そうです。
久しぶりに町に戻ったルフォンを前に「私」が神経流体の話をする第七信、個人の中で起こる神経流体の震盪が、男女間の話へと広がり、ついにはパリ全体に及び、回天(レヴオリユシオン)を起こすのです。この震盪は、起こした本人にも増幅されて戻って来ます。ルフォンとて例外ではなかったでしょう。

『焼殺死』が届く

ゴールデンウィーク前だったと思うけど、講談社からゆうメールが届いていた。
応募総数1247人だそうです。
http://www.sirius.kodansha.co.jp/img/namiefair.gif
http://www.sirius.kodansha.co.jp/fair_namie.html

天龍源一郎なら七勝八敗だが、同じ負け越し一つでも、一勝二敗だとプロ野球なら100敗ペースである。
内容はエッセイだけどタイトル通りネガティブな日常を送っておられます。そうかノロウイルスって自力で治るのか。あと粉ポカリ派じゃないんですね。
その中でもポジティヴなのが最後の『夢語り』。

よく見る夢に
「ギター弾けないのに
ギター持って
コンサートの舞台に立ってる」
っつうのがあります。

そんなコンサートに来た
お客さんは、たまったもんじゃ
ねえと思います。

ホンマ、なんで
そこにいるのか
意味不明です。

でも・・・・
それでも、
やってきた。
根拠の無い
直感の
「コレ、おもろい」
だけを
頼りにして
やって来た。

この辺はパンクロックの精神に近い。でも、世間の評判を気にしたりするのはあんまりパンクではない。折角、自画像がパンクスっぽいのに勿体ない。
パンクたるもの、お客さんに唾を吐きかけ、お客さんからは唾を吐きかけられ、舞台上で唾の柱となって恍惚の姿で演奏せねば(かつてパンクのライヴとはそういうようなものだったということをゴールデンウィーク中のNHK-FMでいってた。まじびびった。『NANA』はアニメで途中まで見た)。

バラージュ・ベーラ他『青ひげ公の城 ハンガリー短編集』

二十世紀初めのハンガリー作家の短編集。表題作の『青ひげ公の城』が目当てだったが、収録作が粒ぞろいだったので逐一紹介してみることに。

ヨーカイ・モール『蛙』

ヨーカイ・モールはハンガリー独立運動にも参加した、十九世紀後半のハンガリーを代表する国民作家で、ヨハン・シュトラウスの『ジプシー男爵』の原作者でもある。神田の古本屋で主要作の英訳本が比較的手に入りやすかったそうで、明治大正期には日本でも愛読者が多かったのではないか、と訳者の徳永康元は書いている。
『蛙』は語り手が法律学生だった五十年前(十九世紀前半)のことを回想する作品で、友人の里帰りに付き合った際に立ち寄った居酒屋で「ちび蛙」と呼ばれる孤児の少女に出会う話。
その少女はハンガリー平原を根拠としたベチャールというアウトロー集団の首領株、伊達男のヨーシカの娘で、ヨーシカがしょっぴかれて縛り首になるので、その孤児の面倒は誰が見るのか、と語り手が疑問を口にすると、プスタ(ハンガリー平野の草原地帯のこと)が世話をする、と居酒屋の女主人が答える。やがて、ベチャールの老人が馬でやって来て、「ちび蛙」に砂糖入りの葡萄酒やジャケットを与えて去って行く。
居酒屋の女主人も、かつて女出入りでベチャールの仲間に主人を殺されているとか、セルビアに逃げているとかいう噂で、非常に濃い。ハンガリアン・ウエスタンな世界を妄想してしまうが(『ヴェラクルス』にはハプスブルク家出身のメキシコ皇帝マクシミリアンが登場するし)、多分そういうものはハンガリーには既にあるんだろうな。
このやり取りなんかセルジオ・レオーネの絵面で脳内再生される。

「いいかね、あすの朝――そこにある郭公時計が六つ鳴ったらな、この子にお祈りさせてやってくれ」
「じゃあ、やっぱりあしたなの」
「あすの朝だ。六時だとよ」
 その時刻に、ちび蛙の父親で、気っぷのいい若い衆だった伊達者ヨーシカが、縛り首にされるのだ。
P18-19

モーリツ・ジグモンド『七クロイツァー』

農村の出身で、農村や地方町の生活を描いた自然主義的な作風のモーリツ・ジグモンドは、ハンガリーのリアリズム文学の巨匠と呼ばれている。『神の脊のうしろ』がハンガリーの『ボヴァリー夫人』と評価されているとの。映画『だれのものでもないチェレ』の原作者。
『七クロイツァー』は、モーリツ・ジグモンドを一躍有名にした出世作で、クロイツァーとはオーストリアハンガリー二重帝国時代の安い貨幣のこと。
貧しくても楽しい暮らしだった幼年時代のことを回想する語り手が、母親と七枚のクロイツァー銅貨を探した、というだけの話である。
洗濯に必要なシャボンが七クロイツァーで、手元には三クロイツァーしかない。母子は宝探しを楽しむように、笑いながら部屋中ひっくりかえして六クロイツァーまで掻き集めるが、七クロイツァー目がどうしても見つからなくて、途方に暮れる。そこへ年よりの乞食がやって来て物乞いするが、この家が一クロイツァーがないばかりに困り果てているのを知ると、一クロイツァーを置いて去って行く。
民話とか聖人伝説とかが背景にありそうな落ちで、「むしろ、貧しい人々ほど、悲しい目にあっても笑うことができるのだP23」と、素朴な清貧礼賛の内容かと思いきや、ちょっと違うように思われる。母の心からの笑いには、血が混じっているのである。

 こうして笑っているうちに、咳の発作がはじまった。苦しそうな、今にも息がつまるかと思われるような咳だった。両手に顔をうずめ、身をかがめて苦しんでいる母親を、私は一生懸命に支えようとした。そのとき、何かあたたかいものが、私の手に流れて来た。それは血だった。母親の、尊い神聖な血なのだった。ほかの貧しいだれにもまして、ほんとうに心から笑うことのできた人、――それが私の母親だった。
P31

コストラーニ・デジェー『石膏の天使』『水浴』

コストラーニ・デジェーは両大戦間期の代表的な作家で、西欧派の文芸雑誌『西方』で活動した。トーマス・マンが推奨した作家。
という経歴から窺えるように、わりと典型的な近代文学の書き手ではないかと思う。近代が生み出した屈折したインテリゲンチャが主人公の二編を読む限りでは。
『石膏の天使』は、村の教師ヴァリュ・ペーテルが妹夫婦へのクリスマスの贈り物を買いに、ブダペシュトに行くと、天使の石膏像を強引に売りつけられる。工場製品を高い値段で買わされてしまったと後悔するが、いや満更悪くないんじゃないかと思い直したりもする内に、クリスマスがやってくるので妹夫婦の家に石膏像を抱えて行くものの、妹夫婦のブダペシュトの洗練された生活の中にそれを置くと大変惨めな気持ちがわき起こり、何よりも自分自身が歓迎されていない気になり、義弟に対して「以前贈ったビールジョッキやシガレットケースは見当たらないがどうせ捨ててしまったのだろう、お前たちがおれのことを憎んでいるのはお見通しだ」と絡む。とても困った人である。
この悶着の後、妹夫婦に詫びの手紙を送ってからは、ヴァリュ・ペーテルは酒浸りの日々を過ごし、ある農場主のひらいた宴会でも大酒を飲み、雪の降りしきる中、夜道を一人帰る。

 彼はくだらない自分の人生が悲しかった。せまい額や、不細工に刈り上げた髪型や、膝がしらのふくらんだズボンまでが悲しかった。かくれた美しさというものに今まで全く気づかなかった自分の眼も悲しかった。石膏の天使のことも悲しかった。あの天使は自分と同じように、安っぽいあわれな仲間なのだ。
P43

ここまでなら日本近代文学にもありそうなインテリの懊悩、みたいな話なのだが、なんと続いて、ヴァリュ・ペーテルは石膏の天使に誘われて昇天して行くのである。マジック・マジャール

 快いけだるさが身体じゅうにひろがり、眠くてたまらなくなって来た。夢の中に現れた石膏の天使は、雪のように真白で、彼に向かって微笑みかけ、そばへ近づいて来るにつれ、だんだん大きくなるのであった。はじめは人間ぐらいの大きさだったが、そのうちに一軒の家ほどになり、とうとう、山のような大きさになった。石膏の天使がやさしく手をさしのべると、彼はうれしそうに身を投げかけ、その胸に抱きしめられたまま、木の切株から立あがって、一緒に空のほうへのぼって行った。
P43

『水浴』は、バラトン湖畔の水泳場に休暇で来た一家の話。シュハイダは息子ヤンチがギムナジウムラテン語の試験に落第したにも関わらず、追試験のための勉強もさぼるので罰として水泳禁止を申し渡しているが、夫人の取りなしで父子で湖に泳ぎに行く。機嫌をなおした父は息子をふん捕まえて湖に繰り返し投げ込むと、息子は溺死してしまう。
父シュハイダの勉強をしない息子を罵る言葉がいちいちきつい。こっちも困った人です。

チャート・ゲーザ『父と子』

チャート・ゲーザはコントラーニ・デジェーの従弟で、医師で作家で音楽評論家。バルトークを最も早い段階で評価しており、音楽評論家としても慧眼の持ち主であったようだ。
『父と子』は、アメリカから帰って来た技師が、父の遺体を引き取りに病院を訪れる。
母は貧しく、父を埋葬するにも事欠く有様で、父の遺体を病院に置いてしまったものだという。父は結局、解剖の教材にされ、解剖室に陳列されていた。息子のジェトヴァーシュ・パールは、費用を払って父の遺体を引き取る。
最後の父を引き取る場面が印象深く、チェーホフ風の名品だと思う。

 広い廊下を横切って進むと、何人かの遅刻した医学生が、人体標本を運んで行くこの男を見守った。標本の手足は、奇麗に髭を剃った男に無器用にかかえられて、奇妙なダンスを踊っているように見えた。父と子が……。
P65-66

ヘルタイ・イェネー『運命』『死神と医者』

ヘルタイ・イェネーはユダヤ系の作家。生涯をブダペシュトで過ごした都会派作家で、どこかカフカを思わせるような幻想的な作風。
『運命』は「全ての女性の口には、彼女と接吻する運命を持った男の名前があらかじめ記されている」というアラビアの詩人の言葉を引いて、どうしても結ばれなかった女性のことを語り手が回想する。
「わたし」は、若いカフェーのレジスター恋い焦がれるものの、つれない対応をされ続けていた。彼女は、他のどんな相手とでも懇ろになるのに、「わたし」には絶対取り合ってくれないのだ。二年経って、彼女に再会し、ついに会う約束を取り付けるが、それもすっぽかされる。さらに七年たって、田舎のカフェーでまた彼女に会う。昔のような高嶺の花だった頃の面影は既になく、「わたし」の熱もすっかり醒めていたが、「わたし」は自分でもわからずに彼女を口説く。彼女も承知し、「わたし」は十年越しの想いが叶う、と部屋で待つが……という話。
『死神と医者』は三月のある晩、脾臓と胆嚢手術の世界的な権威モルビドゥス博士のところへ、名も知れぬ閣下の危篤の報が舞い込み、閣下のご用命と聞いた博士は迎えの馬車に急いで乗り込むが、その閣下とは死神のことであった。
全身を死病におかされた死神を前に、モルビドゥス博士は葛藤する。医者としては患者の命を救うのが当然である。しかし、ここで死神を死なせれば、自分は死をこの世の中から根絶せしめた英雄として、人類の恩人となり、ありとあらゆる賞賛を受けることになろう(博士は俗物なのである)。
博士は意を決して死神の体にメスを二度入れ、意図的に死に至らしめるが……。
どちらの作品も結末に皮肉を利かせており、短編の名手との評価も頷ける。

モルナール・フェレンツ『三つのはなし』『チョーカイさん』『或る小さな物語』『元帥』

モルナール・フェレンツもユダヤ系の作家で、都会派とされるが、ヘルタイ・イェネーよりも徹底して都会的。冗談か真面目か、嘘か真実かよくわかなないようなメタ・フィクションな仕掛けの作品が多い。フリッツ・ラングの『リリオム』の原作で知られており、ビリー・ワイルダーに影響を与えたりもしているらしい。
この短編集の中で最も収録点数が多いが、内容的にも最も印象に残る作家で、かつては森鴎外も翻訳したりして国際的にも有名な作家だったが、現在の日本では著作も点数が少なく、入手しづらいようだ。
『三つのはなし』からして、何とも人を食ったような作品である。
一つ目の話は、賭博者の話。語り手の友人に、もう故人だが、ある天才的な芸術家がいた。彼は賭博の才があり、一旦、運を掴むと離さない男だった。ある日、その友人が胃の調子が悪いので、ウィーンの教授を訪ねた。どうも胃だけではなく相当たちの悪い病気らしく、次に神経科の医者にかかる。そこで、ピンの尖った先と丸い頭とが背中に触れる検査を受ける。患者はそのどちらが当たっているかをいい当てるのだが、芸術家の友人は、十度の検査を全てパスする。語り手は、友人が健康だと安心するが、友人は「ぼくの体はだいぶ悪いらしい」と悲しげに微笑む。実は、背中の感覚は既になく、丁半勝負で全てをいい当てていたのだった。
二つ目は、歌手の話。語り手の友人に、もう故人だが、ある裕福なオペラ歌手がいた。伯父はさらに大金持ちで、二頭のすばらしいロシア馬と、立派な黒塗り箱形の四輪馬車を彼にプレゼントし、歌手の友人は自慢げにそれを乗り回し、夜の出し物しか役がない日は、楽屋入り前に一時間程の遠乗りに出ていた。
ある日も、いつものように遠乗りに出掛けたところ、雲行きが怪しくなって来たので、急いで引き返すように歌手は御者に指示した。猛スピードで馬車が進み出し、歌手もクッションに腰を下ろそうとした時のこと、突然、馬車の床が抜けてしまう。馬車は床をそこに残したまま走りつづけ、歌手は馬車の下敷きにならないように夢中で駆けまくった。馬車は閉め切っているので助けも呼べない。劇場の楽屋口まで二キロの間、歌手は死に物狂いで走り、なんとか無事楽屋口まで辿り着く。歌手は息も絶え絶え、服もぼろぼろにやぶれ、泥まみれの姿で馬車から現れる。
ここで語り手がいう。

 さて私は、この話から、何かもっともらしい教訓を引き出そうなどと考えているわけではない。ただ、なぜ私がこの出来事を当時の日記に書きとめておいたのか、そのわけを説明しておきたいだけだ。つまり、私はこう考えたのだ。――この小さな事件は、昔からよく知られている事実、すなわち、ひとにうらやましがられ、誰からも幸せだと思われている人物のうちには、往々、実はいささかもうらやまれるに値しない不幸な人間がいるものだという事実を、まさにみごとに証明してみせたわけだ、と。
 だが、もし私が小説のなかで、次のような文章を書いたとしたらどうだろう。
「誰ひとりとして、あの幸せなX伯爵をうらやまぬ者はなかった。しかし、伯爵は内心たいへん不幸なのであった。ちょうどそれは、立派な自家用馬車を持ちながら、その馬車の床がぬけてしまったため、何キロも自分の足で走らねばならなかった人物のようなものだった」
 私にしても、ほかの誰にしても、もしこんな文章を小説のなかでつかったら、読者はかならずこう言ったにちがいない。
「まったく、なんというばかげた、無理な、へまなたとえなんだろう」
P104-105

そして最後が名案の話。上の言葉の後、語り手はぬけぬけとこういう。

 もし、百科事典の編集者が「名案」という項目のところで、言葉の説明のあとに載せるうまい実例が見つからないでこまっていたら、私はさっそく次の話を推薦しようと思う。
P105

ひとりの若い新聞記者が、地方の町のめずらしい刑事事件に取材に行くために乗った汽車で、有名な老弁護士と知り合いになる。その弁護士も同じ事件の裁判に立ち会うのだ。
老弁護士は、かつてあった事件、難しい裁判で自分が口先一つで見事に無罪を勝ち取った話などを記者にする。そこで記者は、最も名案だと思った事件の弁論は、と訊ね、老弁護士はある話を始める。
それは、銀行の若い出納係が、女のために銀行の金を一万フォリント使い込んだ話だった。使い込みがばれると恐れる出納係に、老弁護士は、一万フォリントをすぐ弁償するために金をあらゆる方面から工面しなさい、と助言するが、出納係は一家の大黒柱で、金持ちの親類などひとりもいない。そこで、老弁護士は出納係に、ならば銀行からもう一万フォリントくすねて来なさい、という。出納係はその通りにし、その一万フォリントを持って、老弁護士は銀行の頭取のところへ行く。老弁護士は、頭取に、おたくの出納係が二万フォリントを横領したが、家族の者が家財を処分し、あちらこちらから借金をし、何とか一万フォリントを用意した。この一万フォリントで、あの出納係を許してやって欲しい、もし許さないのならばこの一万フォリントは戻らないし、銀行は二万フォリントの損をまるまる蒙ることになる、と。
かくて見事若者を救った老弁護士はこう続ける。

 だが、老弁護士は、この話を次の言葉で結んだのだった。
「実を言いますとね、この話はひとつだけまずい点があるのですよ。それは、この話がほんとうにおこった話ではなかったということなのです。このところ、わたしは不眠症になやまされておりましてね。毎晩、時間つぶしに、こういうふうな難問を自分で作っては解いてみるのですよ」
P109

三つの段階を踏みながら、虚構性を顕在化させて行く手つきが憎いくらいに巧い。
『チョーカイさん』は、ある不精な夫と、堅実家の妻の話。
妻が夫にものを頼んだりする際、夫がものぐさそうにして良い返事をしないと、妻はチョーカイさんを引き合いに出して夫を遠回しに詰る。といってもチョーカイさんは架空の人物で、チョーカイさんは夫のやってくれないことを全てやってくれるひとなのである。つまり、夫が駄目ならば駄目な分、完璧な男として現れる。そして実体を持たない以上、欠点は有り得ない。
初めは夫婦間のガス抜きとして作用していたチョーカイさんはやがて、夫婦間の諍いの種になる。夫がチョーカイさんに嫉妬するようになり、妻はチョーカイさんが実在するものと半ば信じ込むようになる。
こうなるともう結末は明らかで、妻がチョーカイさんと逢い引きする現場を夫は押さえ、夫婦は離婚してしまう。この落ちの部分のせいでウェルメイドなアネクドートといった印象もあるが、虚構が現実を食ってしまう、というモルナールの特徴はやはり際立っている。
『或る小さな物語』は一転して、三人の子どもたちのシリアスな話。
少女と少年二人とで、木登りをしている。少女は男の子顔負けの元気の良さで、大きな桑の木のてっぺんまで登り、少年たちを見下ろす。少女は、少年たちからキスをせがまれて、そうしたのだったが、降りて来るよう懇願する少年たちに、先に登って来たほうにキスをしてあげると挑発する。ふたりの少年は、心のときめきを覚えながら、一斉に木によじ登る。だが、お互い木登りが得意ではないので、ひとりが木の枝を掴み損ねて落下してしまう。落ちた少年の母親が出て来て、少年を別荘に連れて帰り、桑の木の下には少女と少年とが残される。残された方の少年は、少女が落ちた少年に同情心を起こしていることに嫉妬し、少女は愛の告白とともに残された少年にキスを与えながら、落ちた少年への同情心を隠そうともせず、少年は嫉妬心を募らせキスを何度もし、少女は同情心を表明しながらキスを何度も返す。
少年と少女が名付けようのない感情を持て余す様が痛々しいくらいだが、巧みな語り口のお陰で、読後感は不思議と悪くない。
『元帥』は一幕物の戯曲で、モルナールの真骨頂ともいうべき部分が良く出ている傑作。タイトルの「元帥」は猟銃の名前。
ウィーンの宮廷に仕えていたサン・フリアーノ男爵は、若く美しい妻エディットと共に、ハンガリーの山奥の館で隠居生活をしている。
舞台はサン・フリアーノ男爵が催す猟の前日。
招待客のひとり、俳優のリトヴァイは、出演予定の芝居をすっぽかしてまで、急行を使って前日の夜に一足早く到着し、男爵不在の間にエディットを口説く。
六十歳になる男爵は由緒正しいイタリア人の血筋で、三代のローマ法王に仕えてそれより長生きした枢機卿を祖先に持ち、自身はオーストリア人の血が入っているから百までしか生きられまいといい(つまりあと四十年は生きるのである)、暴飲暴食で早死にするハンガリー人を気の毒がる極めて貴族的な人物で、芝居に夢中になっている妻が無意識に俳優に心を動かされているのを見抜いており、遊びで愛人を持つのは構わないが、俳優の真摯さにほだされて自分の元から去るのを恐れている。
しかし、今の時代に間男をルネッサンス流に処刑するのは無理なので(間男の心臓を抉りとって妻にご馳走するとか、粉々に砕いたダイヤモンドを料理に混ぜて間男に食べさせてじわじわ殺したりとか)自身が主催する猟で、どさくさに紛れて俳優を撃ち殺してしまうつもりだったのだ。
この時に用いられる予定の猟銃が英国製のホランド・エンド・ホランドで、猟に出る度に昇進を重ね、一兵卒から元帥に上り詰めた名銃である。男爵はエディットに不吉な予告をした後に、リトヴァイにこの元帥と大佐とを見せる。男爵が元帥について説明している最中、突如として元帥がリトヴァイに向けられて発砲される。
ここから、リトヴァイの一世一代の演技が始まる。弾丸はリトヴァイに命中したのか外れたのか、元帥の発砲は偶然だったのか故意だったのか、エディットが本当に愛するのは男爵なのかリトヴァイなのか、この舞台を演じる俳優はさぞかしやりがいのあることだろう。

バラージュ・ベーラ『青ひげ公の城』

バラージュ・ベーラはバルトークの歌劇『青ひげ公の城』の台本で知られるが、ルカーチと共に芸術運動に参加したり、1919年のハンガリー共産政権に参加後、亡命してオーストリア、ドイツ、ソ連を遍歴し、第二次大戦後には帰国してハンガリー映画界の指導者となった。
モルナール・フェレンツもそうだったが、『中国の不思議な役人』のレンジェル・メニヘールト(収録されていないかと期待していたが本書には未収録)が『ニノチカ』や『生きるべきか死ぬべきか』の原作をしていたり、この世代には映画と深いかかわりを持つ作家が多い(バラージュに関しては映画理論家としてのほうが有名かもしれない)。
『青ひげ公の城』は、当初はコダーイのために書かれたものだそうで、メーテルリンクが台本を書いたデュカスのオペラ『アリアーヌと青髭』の影響下にある。
親兄弟許嫁を捨てて青ひげ公の城にやって来たユディットは、青ひげの立ち会いの元に、青ひげの城にある七つの黒い扉を次々開けるよう、青ひげに求める。青ひげは諌めるが、ユディットは愛ゆえにそれを要求し、青ひげは鍵を渡し、ユディットは扉を開け、青ひげのかつての妻たちに出会い、ユディットもその中へと加わる。
扉毎に色が指定されていて、これにバルトークはそれぞれに異なる調と和声を当てており、スクリャービンの『交響曲第五番プロメテウス』で用いられる予定だったとされる色光ピアノにも通じるが(ポール・グリフィスによるとシェーンベルクの『幸福の手』もそうだったようだ)、これがバルトークのアイディアだったのか、バラージュが最初から構想していたのかよくわからない。
バラージュはコダーイバルトークが採集していたバラッドや抒情詩から影響を受けており、この作品は古いバラッドを模倣して八音節の詩句で書かれているそうだ。バラージュは「わたしはセーケイ人の民俗バラッドの劇的《流動性》を舞台用に拡大したいと思った。そして現代人の魂を民謡の原色で描きたかったのだ(ポール・グリフィス『バルトーク』和田旦訳泰流社P95)」と語っていて、バルトークと同じ問題意識を持っていたといえる。

青ひげ公の城―ハンガリー短編集

青ひげ公の城―ハンガリー短編集

アベ・プレヴォ『マノン・レスコー』

『金の仔牛』と時代背景が重なるということで再読。
初めて読んだ時は、岩波文庫の表紙の作品紹介でマノンはカナダに追放されるとあり、そこは本文ではヌーヴェ・ロルレアン(どこ?)と表記されているので、ほうかほうかカナダか、あそこは元はフランス領だったからのう、と独りで納得し、マノンが息絶えるシーンも荒涼としたカナダの大草原を思い浮かべたのだが、追放の地はフランス領ルイジアナ、つまりヌーヴェ・ロルレアンはニュー・オーリンズなのであった。
初読時の印象としては、ただただデ・グリューの胡散臭さが残り、マノンをひたすら可哀想に思った記憶がある。

 シュヴァリエ・デ・グリューは既に一時間以上も語りつづけたので、私は少しばかり休んで、夕飯を共にしてくれるよう頼んだ。私たちのこの申し出は彼に、私たちが喜んで彼の物語を傾聴したことを肯かせた。そしてこれからさきの物語は更にいっそう面白く思われるだろうと彼は請け合った。
河盛好蔵訳『マノン・レスコー岩波文庫P126-127

読者の興味を引くためのお約束の言葉だろうとはいえ、こういう話を至る所でやって小金を稼いでるんじゃないか、と意地の悪い感想を抱いたものだが、そういうお約束は措いても、デ・グリューの性格を考えれば、別におかしくはない台詞なのである。デ・グリューは兎に角、弁が立つ。大抵の相手は言い包められてしまうのだ。
デ・グリューが収監されたサン・ラザールの院長に対してはこんな塩梅。

 私は手短かにマノンに対する永い根強い自分の情熱や、手飼いの召使いたちによって無一文にされるまでの私たちの華やかな生活や、G…M…が私の情人に対する申し出や、彼等の契約の結果と、それを破った方法などに至るまで物語った。実際のところ私は、これらのことを自分たちにいちばん都合のいい方面から話して見せたのだった。
P93

その甲斐あって、院長はすっかりデ・グリューを信用するようになる。
では一方で、正直になったデ・グリューを見てみよう。

 結局、私の行動には大体において、全然顔向けのできないようなことは、少なくとも或る社会の若者たちに比べて、なかったし、それに恋女を持っているということも、賭博で財産を引き寄せる技術を多少知っているということともに、我々のいる世紀では不名誉でもなんでもないのだから、私は正直に、今までの生活をくわしく父に語った。一つの失敗を告白する毎に、私は少しでも恥を少なくしようとして、名高い例を引いてくるのを忘れなかった。
 「僕は正式の婚礼こそしませんが一人の女といっしょに暮らしているのです。あの……公爵ですね。あの人は公然とパリに二人の女を囲っていますし、なんとかいう貴族などは、十年来一人の情人があるのですが、奥さんにも決して示したことのない誠意をもってその人を愛しています。フランスの紳士の三分の二はそんなことをして名誉に心得ています。僕は骨牌でちょっとわるいことをやりました。けれど、あの……侯爵と……伯爵はそんなことのほかに収入なんてないといわれますし、皇族の……と、公爵の……とは同族賭博団の首領です。」
P183-184

いや、すごい減らず口です。
デ・グリューは名家の出身で、アミアンで哲学を修めており、十七歳でマノンに出会うまでは、本人の弁によると皆から僧になることを勧められる程の善良な気質を持った優等生だったそうである。
マノンとの出会いが全てを変えた、というのだが、優秀であったのは確かにせよ(いかさま賭博で財を成し、脱獄を成功させ、アメリカまで行って決闘に二度勝ち、身一つで帰って来ることから、基本的なスペックは相当高いといえる)、そもそも本当に優等生だったのかと疑わしくなるほどに、彼は立派な無頼漢である。
マノンと運命的な出会いの後、一旦は仲を引き裂かれるものの、マノンと再会してからのデ・グリューはなかなかに凄まじい。
田舎に構えていた家と家財道具一式を不幸な火事で失ったデ・グリューは、いかさま専門の博徒になることにし、マノンのやくざな兄レスコー君の勧めに従い、いかさまの手法を教えてくれる賭博師結社に入ろうとするが、そのためには入会金が必要で、ここで折よく親友のチベルジュの存在を思い出して呼びつけると、デ・グリューが立ち直るにはマノンと縁を切ることが必要だと助言するチベルジュの提案を撥ね付け、まず立ち直るためにも「私の欲しいのは彼の財布なのだとは思い切って言えなかった」とデ・グリューが逡巡していると、チベルジュもそれと察し、手形を振り出してやる。
それを元手に、デ・グリューは無事賭博団に入会して、いかさま賭博師として成功するのだが、それで築いた財産も侍者と小間使いの裏切りで根こそぎ持ち去られると、またもや無一文となり、そこでレスコー君が勝手にマノンに紳士相手の愛人契約を取り結んでくるので、一度はそれに渋々賛成したデ・グリューだったが、その不満たらたらな様子に心を痛めて翻意したマノンは、ならば件の紳士G…M…氏の贈り物だけ貰って逃げようというので、その通りにすると、マノンと揃ってお縄になる。
デ・グリューはサン・ラザールに収監されるが、そこへ様子を見に来たG…M…氏の口から、マノンが世にも恐ろしいオピタル・ジェネラルに入れられていることを知り、怒りに任せてその場でG…M…氏を投げ飛ばし、脱獄を決意する。
早速デ・グリューは、親友チベルジュをまたも利用してレスコー君にわたりをつけ、面会に来たレスコー君に短銃を持ってくるよう指示し、例のすっかり信用したサン・ラザールの院長をその短銃で脅しつけ、門まで案内させると、院長が助けを求めた小使を目の前で射殺し、こんな怖いことをいう。

「ご覧なさい。あなたのせいですよ、神父さん、と私はかなり威丈高になって私の案内者に言った。――だがこんなことでおしまいにはなりません。」と私は最後の扉のところまで院長を押しやって言いたした。
P106

そう、デ・グリューは何も悪くない。レスコー君が悪い。

「君が悪いんだよ、と私は言った。――どうして弾丸をこめてよこしたのだ。」
P106

レスコー君も本当に近衛兵だかわからない無頼の徒で、マノンに男が出来ると、そこへ仲間とともに飯を食いにたかりに行くというろくでなしである。マノンの兄というのも、デ・グリューがマノンの弟と偽ってG…M…氏に会ったのを考えると、事実であるのかわからない。
そんなレスコー君を顎で使う(しかもなんだか最後は懐いている)デ・グリューは若くして成功した暗黒街の顔役といった風格さえある(レスコー君はマノン救出を成功させた矢先に、以前恨みを買った男から「こんちきしょう、今夜は天使たちと同席の夕めしだ」という素敵な言葉と共に撃ち殺される)。
マノンをオピタル・ジェネラルから奪い去ってからはシャイヨーに居を構え、二十歳になれば母親の財産が転がり込んで来るからと、それまでの間は賭博で生計を立てながら慎ましく(?)暮らすが、マノン救出の時に世話になったT…氏の友人にG…M…氏の息子があり、息子は親父と違って善良だから、との言葉に不承不承食事の同席を許可すると、案の定G…M…氏の息子はマノンに惚れ、マノンに言い寄る。マノンはこれ幸いとG…M…氏への復讐のためにもG…M…の金をむしり取るべきだと主張し、謀を巡りらせてG…M…氏の息子に接近する。マノンが貧乏生活を厭うのを良く知るデ・グリューは、マノンの行動に疑心暗鬼を募らせ、裏切りを確信し、G…M…がマノンに与えた家具附きの屋敷でG…M…が留守の間にマノンの不実を詰っていると、そこに、G…M…のおびき出しに協力しているT…氏が手紙でこんな提案をして来る(しかしこのT…氏、デ・グリューとマノンとの強い絆に心酔して何くれとなく援助をしてくれるのだが、基本的に碌な人物ではない)。G…M…氏の息子を一晩の間拉致監禁し、その間にデ・グリューとマノンとでその屋敷で夕飯を食べて、ベッドで眠ればよろしい、それが最も愉快な復讐だという。
これにマノンが大乗り気になってしまい、実行に移すと、息子がいなくなったことを心配に思ったG…M…氏がやって来て、ベッドにデ・グリューとマノンが寝ているのを見て仰天する。

「ああ! 無念な。貴様はきっとわしの倅を殺したのだ。」
 この無礼な言葉は私を激怒させた。
「老いぼれの極悪人め! と私は威丈高になってどなり返した。――もし俺が貴様の一族の誰かをやっつけるなら、まず貴様からやり玉に挙げていたぞ。」
P172

全くどっちが被害者かわからない。
このように、マノンというファム・ファタルに振り回されるというよりは、冗談のように次から次へと襲い来る不幸にデ・グリューが腕っ節と奸計で不法行為も辞さず荒っぽく乗り切ろうとするせいで、かくしてますます事態が酷くなるのである。
この次々と不幸が襲い来るのがファム・ファタルファム・ファタルである所以だ、というならばデ・グリューはマノンに振り回されているといえるし、マノンがG…M…氏絡みで致命的なことを二度やらかすので、確かに破滅を呼び寄せてはいるのだが、全てがマノンのせいかというと、そうとはいいきれない。彼等を追いつめたのは、極めて月並みないい方だが、詰まるところは世間であろう。
デ・グリューが優等生だったという話も、本編で彼が様々な人間から信頼を勝ち取る様を見ると、マノンに会って変わったのではなく、作中に見られる通りのまま、学生時代を送っていたものと思われる。
さて、G…M…氏にベッドの中で見つかったふたりは、シャトレーの牢屋に入れられる。デ・グリューは父の尽力で釈放されたが、マノンは娼婦たちの一団とともにヌーヴェ・ロルレアンに送られる。この後を追ったデ・グリューにルノンクール侯爵が出会ったのが、冒頭で語られる場面である(『マノン・レスコー』は『貴人の手記』の中の枠物語の一つなのである)。
ヌーヴェ・ロルレアンに送られる彼女たちは現地で男どもに分配される運命にあるのだが、デ・グリューとマノンとは夫婦であると信じた船長の証言で、首長から所帯を持つことを許される。
漸く、貧しいながらも平穏無事で幸せな暮らしが手に入る。ふたりは幸せを完璧なものにするために、神の前で正式に誓いを立てようと首長に結婚式の同意を求めに行くのだが、マノンに横恋慕していた首長の甥のセヌレが、ふたりが正式に結婚をしていないのならば、自分がマノンの夫になる権利があるといい出し、首長も、それは正当な主張であるというので、セヌレにマノンを与えることに決める。
こうなるとデ・グリューとしては勿論黙ってはおらず、セヌレを決闘で二度倒すと(ちょっとやり過ぎじゃないかなあ)、マノンとともに街を出て南部の荒野を彷徨い、マノンはそこで事切れる。デ・グリューがマノンを看取る際の美しくも悲しい語りは、何度読んでも溜め息しか出ない。
しかもこの結末は、美徳と考えられる正式な結婚を決心したことで引き起こされるのだ。
デ・グリューは度々、世の中の欺瞞を指弾する。前述の父親に対する弁明もそうだが、確かに、ただデ・グリューは一人の女を愛しただけだし、マノンとの生活を守ろうとしただけなのだ。
チベルジュとの対話でも、美徳に対する不信感を表明し、美徳を守ることで得られる幸福にも、恋を守って得られる幸福にも、同じ不幸が付随するならば、自分は後者を選ぶ、という。ましてや宗教の美徳は幸福を約束できないが、恋は必ず幸福を約束する、というのである。
こういった議論や、めくるめく不幸の連続と、最後に放縦から美徳へ回帰することで却って破滅する構成から、サドの『ジュスチーヌまたは美徳の不幸』を思い出したが、そもそもは、『ジュスチーヌまたは美徳の不幸』は、『マノン・レスコー』を下敷きにして書かれており、途中でこんなパロディも挟み込まれる。

 ここで、ロルサンジュ夫人はせめてわずかなりともテレーズにひと息つかせようと思った。テレーズにはそれが必要だった。話を語るときの心の高ぶりや、悲痛な話がまた心の中にぽっかり開ける傷口のせいで、彼女はどうしてもしばらく話を中断しないわけにはいかなかった。コルヴィル氏が冷たい飲み物を持って来させた。すると、この物語の女主人公はほんの少し休息を取ったあと、これから読者がごらんになるように、痛ましい出来事を詳しくまた語りつづけるのだった。
植田祐次訳『ジュスチーヌまたは美徳の不幸』岩波文庫P334-335

サドはアベ・プレヴォの熱烈な信奉者で、『恋の罪』の序文での草稿で「プレヴォが現れ、あえて言うなら真の小説のジャンルを創造した。(植田祐次訳『恋の罪岩波文庫P431-432)」と賛辞を捧げ、『エルネスティナ』ではプレヴォの短編への言及が見られる。『マノン・レスコー』については「とりわけ『マノン・レスコー』は、同情を誘う恐ろしい場面にみちていて、それがどうしようもなくわれわれを感動させ、引きつける(植田祐次訳『恋の罪岩波文庫P431)」と書いている。
1780年代にはプレヴォは暗黒小説の先駆者として再評価され、『マノン・レスコー』がフランスにおけるゴシック小説の源流と目されるようになった時期に、サドは作家としての本格的な活動を始めたという。
シュヴァリエ・デ・グリューとマノン・レスコーの物語』という原題が示すように、マノンの物語であるというより、なによりもまずデ・グリューの物語だといえるだろうし、サドはデ・グリューの物語として認識していたのではないだろうか、とも思う。
マノン・レスコー』がサドに先行する作品であるとすれば、『マノン・レスコー』に先行する作品として、『ドン・キホーテ』が考えられないだろうか。
正式な騎士ではなく、父から受けた十字章を佩用してシュヴァリエと名乗るデ・グリューが、姫ではなく娼婦であるマノンを周囲の無理解から命がけで守る姿は、ひょっとして騎士道物語のパロディ的変種としての狙いがあったのでないかな。

マノン・レスコー (岩波文庫)

マノン・レスコー (岩波文庫)

短篇集 恋の罪 (岩波文庫)

短篇集 恋の罪 (岩波文庫)

佐藤亜紀『メッテルニヒ氏の仕事』第五部

カールスバート決議からトロッパウ、ライバッハ、さらにヴェローナに至る一連の会議は、メッテルニヒの絶頂期であったと一般にはいわれる。この時期のメッテルニヒが会議を牛耳る様は、ヨーロッパの宰相と呼ぶに相応しい。
ウィーン会議後に現れたヨーロッパ協調は、人類の恩人としてヨーロッパに影響を持ちたいロシア皇帝アレクサンドルの「憲政狂い」や「信心狂い」を、メッテルニヒとキャッスルレーとで宥めることで保たれる。
アレクサンドルにとって、オスマン・トルコの支配から祖国の独立を目論むギリシャ人の外相カポディストリアスの提言通りに、キリスト教国によるヨーロッパ総同盟を結べば、ロシアは五大国の掣肘から解き放たれ、オスマン・トルコの支配下にあるスラヴ系住民の住む土地は切り取り放題となる筈なのだが、そのためにはウィーン体制を擁護するオーストリアとイギリスとを敵に回さねばならない。
1819年から1820年にかけて、ナポレオン戦争後の経済停滞から生ずる社会不安を背景に、ブルッシェンシャフトの学生、カール・ザントによるコッツェブーの暗殺に端を発して、ヨーロッパ中にテロと騒乱とが広がり、それはやがて露土間の緊張、虐殺の応酬へと発展して行く。
キリスト教イスラム教との最終戦争まであと一歩、というところでメッテルニヒ氏はアレクサンドルを思いとどまらせるが、メッテルニヒ氏がアレクサンドルに影響力を行使するにあたって、かなり奇妙な光景が展開する。
自制を求めるメッテルニヒ氏に対し、アレクサンドルは、一連のテロと騒乱は「パリに根城を持つ悪の秘密結社が世界征服を狙って暗躍しているp84」ために起こっているので、「正義の味方ツァーの目を逸らせようという企みp84」に、屈する気はない、と返事をするのだ。
メッテルニヒ氏がそうした陰謀論を吹き込んだせいもあるのだが、この「悪の秘密結社の暗躍」自体が、メッテルニヒ氏とアレクサンドルを結ぶ秘密結社であり、アレクサンドルが取り巻きではなくメッテルニヒ氏に入れ込む良い口実にもなっている。アレクサンドルには、ナポレオンに打ち勝ったという過去の栄光と、五大国の協調という「押し花」を大事に取っておきたいという動機があり、そうするとオーストリアとイギリスはどうしても敵に回せないのである。
こうして、ヨーロッパ協調というか、共犯関係を結びながら、メッテルニヒ氏はオーストリアの利益を、現状維持を引き出す。
だが、この絶頂期にあるメッテルニヒ氏が描かれる章には「死者たち」と題されるのだ。
メッテルニヒ氏の一家は肺が弱く、1820年に十五歳の次女クレメンティーネが結核で亡くなると、その数ヶ月後には、結婚したばかりの長女マリーも身罷ってしまう。メッテルニヒ氏の手紙も、いつもの仕事への嫌悪感を表明するどころか、苦痛を紛らわせるために、あれだけ嫌いな仕事に没頭するという、ただならぬ気配を漂わせるようになる。

 ――破産者が酒場にいり浸るように、ぼくは執務室にいる。全財産を失った苦痛を酒の中に溺れ死なせるように、ぼくは苦しみを紛らわせようと仕事をする。それでもぼくの頭は醒めている。(1820.8.6)
p74-75

 ――ぼくの昼と、夜の一部は仕事に費やされる。ぼくは自分にとって、窓の外を通り過ぎる通行人よりも赤の他人だ。夜、昼の仕事のことを考えながら、ぼくはこの先も生き続けるのだと考えても、まるで生きている気がしない。正確に言うなら、ぼくはぼくの傍らで生きているのだ。(同)
p75

これは疑いようなく鬱状態ではないだろうか。
サラエボで夫ともに暗殺された皇太子妃ゾフィーの実家であるホテク伯の領地で一日を過ごし、後にユダヤ人ゲットーやゲシュタポ刑務所となる要塞のあるテレジエンシュタットで手紙を書いた後、メッテルニヒ氏は百年後の「更地になったオーストリアを夢見るp75」。それは、「ゾフィー・ホテクとその夫君の暗殺とテレジエンシュタットの強制収容所のちょうど間p75」にある。

 ――ぼくの人生はどうにもおぞましい時代と背中合わせだ。生まれたのが早すぎたか、でなければ遅すぎた。今の時代では何の役にも立っていないと感じる。もっと早く生まれていれば、その時代ならではのもっと愉快な役割を果たせただろう。もっと遅ければ、再建のために働く事ができる。今日では、虫の食ったぼろ屋を支えて人生を過ごしている。一九〇〇年に生まれていたら、目の前には二十世紀が広がっていただろうに。
p50

大量死の二十世紀を予感させる何とも不吉この上ない符牒の連続に先立って、ブルッシェンシャフトによるヴァルトブルク祭がある。
ザクセン=ワイマールが管理責任者として登用したゲーテフィヒテヘーゲルシェリングらを招いたことで、一躍ドイツ随一のリベラルな大学となったイエナ大学は、自由主義民族主義の牙城になっていた。解放戦争に義勇軍として参加した学生たちが作ったブルッシェンシャフトは、ヴァルトブルク祭でウィーン体制の打倒などとともに、ユダヤ人追放を叫び、ユダヤ系作家の著作も燃やされる。いうまでもなくナチズムの先駆けだ。
メッテルニヒ氏は「ヨーロッパは暫時なら支配できたかもしれないがウィーンは支配できたことはないp46」と語っている。メッテルニヒ氏は多民族国家であるオーストリア帝国を連邦制に移行させるような改革案を提案するが、皇帝フランツはにべもない。
「理性的かつ普遍的な正しい統治」を中央から一括して行うウィーンの啓蒙専制主義にとって、メッテルニヒ氏のような柔軟な啓蒙主義は異端であり、さらにオーストリア帝国ハプスブルク家世襲財産に過ぎず、国政に関与しようにも、皇帝が駄目といったらそれまでだ。出自と相俟って、メッテルニヒ氏はウィーンでは幾重もの意味で余所者なのである。
こうなるとメッテルニヒ氏は、破滅が運命づけられたオーストリア帝国という「虫の食ったぼろ屋を支えて人生を過ごしている」わけで、数十年も柱の上で片足立ちを続けた隠者聖シモンに自らをなぞらえるのも無理はない。
さらにいえば、メッテルニヒ氏にとっての「おぞましい時代」とは、革命が吹き荒れるヨーロッパそのものも指すだろう。
外交官デビューとなったラシュタット会議の折に、メッテルニヒ氏は、革命のヨーロッパから、南洋の島に家族や友人たちと亡命し、自給自足の生活を送りたい、とエレオノーレ夫人に書き送っている。メッテルニヒ反革命の政治家として知られるが、革命の時代が生んだジュリアン・ソレル型の人間について、アレクサンドルにこのように講義している。

際限ない野望と情熱に駆られた人間が教育によって機会を与えられ、ジャーナリズムへ、産業へ、政治へと、自分の世界を無限に広げ、その中で上へ上へと進撃すべく乗り出して来る。常に動き続けることなしには生きていけず、疲れて立ち止まった瞬間に脱落する近代の人間の生き方はまるで、泳ぎ続けないと溺れ死ぬ鮫だ。人口の大半が農業に従事する旧態依然たる社会が行く手を遮るなら、彼はその社会そのものを破壊し、万人に自分と同じように泳ぎ続けることを要求するだろう。
p80

「そこをどけ、俺の場所だ」と説明される革命のメンタリティは、現代でいうネオリベに近いかもしれない(そういえば、おんたこのルーツはウィーン体制を崩壊させた1848年革命の直前に書かれた『ドイツ・イデオロギー』だったりする)。
「何故革命を起こしてはいけないのか、何故君主の主権を暴力で覆してはいけないのか、或いは逆に、何故、君主の主権を貫徹して連邦の枠組みを損なってはいけないのかp69」に、メッテルニヒ氏は良識の権化となり、一々反論するが、それは良識を共有しない者にとっては「くどくて長くて無内容p69」に映る。

 ――そのあり方がそれ自体として了解されている事柄は、人為的な規則の形を纏うとその効力を失う。その時、その事柄の根本的なところが変わってしまう。
 ――自然の力の一部を成すものは、精神の世界のおいても物質の世界においてと同様、人為的な規則にそぐわない。重力や向心力遠心力の法則を、基本的人権のように、人々が認識できるよう宣言した憲章など想像もできない。
p71

キッシンジャーも指摘するように、これは「新しい世界に適応できないオーストリア帝国の慣行を自己弁護するための理屈(『外交』上巻p103)」という側面もあっただろうが、「彼の思想を形成した経験はフランス革命であり、人間の権利を宣言するところから始めて、恐怖政治に終わっている(『外交』上巻p103)」のである。
フランス革命期にはまさに、「人類愛のために人を殺したりするような連中」が跋扈していた。

「然り、われわれはあえて主張する、われわれは多くの汚れた血を流したが、それはひとえに人道と義務のためである……諸君が諸君ら自身の意志によって証明しないかぎり、諸君らがわれわれにゆだねた雷電を、われわれは断じて棄てないであろう。その時までわれわれは間断なくわれわれの敵を打ち倒すことを継続するであろう、われわれは最も完全に最ももの凄く迅速に敵を撲滅するであろう」
シュテファン・ツワイク『ジョゼフ・フーシェ』高橋禎二・秋山英夫訳 岩波文庫p70-71

ジョゼフ・フーシェはサン=クルーの風見といわれる通り、別段、共和主義的熱情があったわけではない。彼が「リヨンの霰弾乱殺者」として名を馳せた時、それは穏健派と看做されて人気を失わないよう、ことさらに過剰な振る舞いをしただけだった。フーシェが虐殺を正当化した言葉も、当時人気の言説の最も過激な口真似だったに違いない。

 この時、メッテルニヒ氏が論じているのは主権者たち――王たちのことだ。憲法はその地位を定め、その権限を定め、その不可侵を定める。にも拘らず、王たちは或いはその首を失い、或いは追放されて死ぬ。王の主権が自明のものでなくなる時、法の規定は彼らがその基本的な権利(原文傍点)を守る何の役にも立たなかった。物理法則も同様だった彼らの当然の権利は、法で規定されることによって、単に法で定められた権利に変わってしまっていたからだ。これはおそらく今日の主権者たち(原文傍点)にも適応できるだろう。生命と身体と財産に関する当然の権利は、憲法で規定されることで、法によって与えられ法によって奪われる権利に変質する。その時、国民(原文傍点)は、或いは虐殺され、或いは国を逐われることになる。
p71

基本的人権が実体を持たず、空手形に過ぎないconstitutionであるとすれば、それは自由に剥奪出来るものになる。メッテルニヒ氏が思い描いた百年後の世界に、その最も端的な答えはあるし、それは現代まで解決されているとはいえない。
かくして、メッテルニヒ氏にとっては気が滅入ることばかりなのだが、イギリスでもキャッスルレーの精神状態が危うい。
メッテルニヒ氏とキャッスルレーとの相性の良さは、初対面の、キャッスルレーが英語しか喋れない上に、大陸の状況をろくに把握してもいないにも関わらず何故だかわからないが意気投合した時以来で、露土問題でアレクサンドルを宥めるときの言葉も、阿吽の呼吸で、五大国協調と、悪の秘密結社を持ち出す程だ。
仕事の重圧と議会対策で神経をすり減らしているキャッスルレーを目撃したリーヴェン夫人は「まるで幽霊みたい」とメッテルニヒ氏に書き送る。だが、それでも自殺する程とまではいいきれない。
直接のきっかけは匿名の主からの脅迫状が、自身の同性愛絡みの醜聞を流すと脅している、と信じ込んでしまったことにある。

 八日、キャッスルレーは田舎の屋敷のあるノースクレイにいる。散歩に出たキャッスルレーを案じて秘書が後を追い、キャッスルレーを励まそうと、旅行に出れば気分も変わる、外交の馴染みにも会える、と言うと、キャッスルレーは顔を両手で覆い、妙にゆっくりとこう答える。
 ――他の時ならそれも楽しみと思えるだろう。だが、私はここで使い潰された、完全に使い潰されたんだ。この上そんな重責にはとても耐えられない。
p90

「妙にゆっくりと」「私はここで使い潰された、完全に使い潰されたんだ」と答えるキャッスルレーの姿を想像するだけで背筋が凍る。ここまで救いようがない言葉は、仕事嫌いのメッテルニヒ氏でさえ手紙には書いてはいない。
キャッスルレーと馬が合ったのはメッテルニヒ氏くらいなもので、誰もが、打ち解けず堅苦しい、という印象を受けたそうだ。シャトーブリアンはそこに外交官としての職業病を見ている。
そういえば、メッテルニヒ氏がプロイセンホモソーシャルバンカラ気風に辟易としていたことを思い出す。ある種のマチズモとの相性の悪さ、というか、そういったものがメッテルニヒ氏とキャッスルレーとを結び付けていたのかな、とも思う。個人的にはフンボルトが宿屋でやっていたことのほうがよっぽどスキャンダラスに思えるんだけどな。

文学界 2013年 05月号 [雑誌]

文学界 2013年 05月号 [雑誌]

佐藤亜紀『メッテルニヒ氏の仕事』第四部

いよいよウィーン会議である。
ウィーンにはパリ条約締結八箇国はもとより、無数の関係者が集まった。

人口二十五万人の都市に、九月だけで一万六千人が到着しつつある。ホーフブルクには賓客として皇帝一人、皇后一人、国王四人、女王一人、皇位継承者二人、公三人、公妃三人、ホーフブルクの外には他に二百十五君主が、ブリュッヒャーの言葉を借りれば「市の日の百姓のように」集まりつつある。外交関係者はパリ条約締結八箇国十九人の全権、教皇を含むそれ以外の君主の代表二十六人。ドイツの関係者はさらに多い。
P67

その「ドイツの関係者」のひとり、ハンブルク自由市の全権ヨハン・ミヒャエル・グライスは暇つぶしにカルデロンの翻訳をしている。

世界 人生の芝居から裸ひとつで戻り、帰り、退場して行け。大層ご自慢の緋の衣はすぐに別の者が着るだろう。容赦なきわたしの手から緋の衣も王笏もそれに栄冠も持ち出してはならん。
国王 あの素晴らしい装飾品をおれにくれたのではなかったか? いちど与えた品物をなぜまた取り上げる?
世界 くれてやったのではない。そうではなく、お前の出番の間だけ貸してやったのだ。おまえが手にしていた国家も威厳も繁栄も返してくれ、次の番の者が待っている。
P76

ここで引用されているのは恐らく『大世界劇場』だと思われる。
ヨハン・ミヒャエル・グライスが『大世界劇場』を訳していたかどうかまでは触れられていないが、ウィーン会議を扱った今回に付されたタイトルが「大世界劇場」。引用部分の内容も含め、これ以上相応しいタイトルはちょっと思いつかない。
一般的に理解されているウィーン会議は、ただでさえ難しいポーランド問題が、プロイセンザクセン併合の問題と絡み、それがヨーロッパの均衡とドイツの均衡にそれぞれ触れるものだったため、各国の利害関係の調整が難航し、プロイセンとロシア対オーストリアとイギリスという組み合わせが出来上がり、そこに正統主義を掲げたタレイランのフランスが割り込む、という図式かと思う。
全体会議を議会のように扱おうとしたキャスルレーは不都合に気付いてやめ、タレイランは逆に議会にすることによって、フランスを先頭とした野党を作り出そうとし、さらには正統主義の原則をねじ込むに至って、ウィーン会議は紛糾必至となり、延期される(ちなみに、キャッスルレーとタレイランのこの場面での対応は、共に議会を知る政治家であることを軸に語られている)。
これがために「会議は踊るが進まない」状態になったとはいうものの、非公式の会議は進む。オーストリアプロイセンバイエルン、ヴュルテンブルク、ハノーファによるドイツ連邦の形を定める規約策定委員会がそれである。
ドイツ問題はポーランド問題と並ぶウィーン会議の課題で、ドイツ問題の処理如何が、ポーランド問題をヨーロッパの均衡のもとに適切に位置づける鍵になる。
シュタインの統一ドイツ構想をライン同盟潰しに使えると踏んだプロイセンのハルデンベルクは、シュタインの構想が色濃い四十一項目の提案書を作る。狙うはオーストリアとのドイツ分割である。
メッテルニヒ氏はプロイセンとドイツ分割をするつもりは毛頭なく、プロイセンオーストリアの間に浮上する第三のドイツ、例えば二十万の軍を動員出来るドイツ連邦を作りたい。
四十一項目は、ドイツ諸邦はもとよりハルデンベルクの部下のフンボルトからも不評で、メッテルニヒ氏はプロイセンの目の前にザクセンをちらつかせつつ、四十一項目をどんどん骨抜きにする。

加えて、メッテルニヒ氏には、極めて独特の方法論がある。
P74

やり取りは口頭で行われる。戦勝四箇国交渉どころか御前会議でもメッテルニヒ氏がこれを好むのは、手続きが簡略化されるというだけではなく(そもそもウィーンに主要国の君主が集められたのは、承認を取るのに一々文書を本国に送って回答を待つ必要がない、という理由による)、相互牽制と小細工の余地を奪って議論の生産性を上げたかったからでもある。百家争鳴大歓迎。そういう点、メッテルニヒ氏は妙に民主的だ。この時には別に思うところもある。収拾が付かないくらいが丁度いい。
P80

バイエルンヴュルテンベルクプロイセンに反対し、彼ら同士でお互いに反対し、委員会の外にはじき出された小邦は彼らに反対し、を誘導P83」する傍らで、メッテルニヒ氏は、「来るべき連邦ではドイツの全君主は平等になるP77」「連邦ではどの国も平等P83」「必ず各国平等の連邦を作るP85」と各国の代表に保証を与え続ける。
手詰まりになったハルデンベルクが相談したのは、ツァーの顧問団であるシュタインであった。シュタインはそこで、規約策定委員会にロシアの圧力をかけようとし、さらには議事録をリークして、小邦を糾合しようとする。だが、戦役中はあれだけドイツの愛国者たちを熱狂させたシュタインの「三十六人の世故い暴君ども」というアジテーションはどういうわけか最早居場所がない。

この、後世、何もなかったかのように語られることになる一箇月半の間に、「ナポレオン体制は終わった」は終り、そういうアピールはぞっとするほど流行遅れになっていたのだ。
P89

しかも、議事録にはロシアに関する言及が一切見当たらず、介入する口実を見出せない。
シュタインのリークは思惑とは裏腹に、プロイセンバイエルンヴュルテンベルクの野心の大きさを小邦に知らせることになり、小邦はこぞって規約策定委員会へ正式な抗議を突きつける。
この抗議に対する、「連邦はここに集まる五箇国のものではなく、ドイツの全君主のものであり、とすれば彼らにも要求どおり等しい主権を与えなければならないP89」とのメッテルニヒ氏の返答が、これまでの入念な下拵えの元、威力を発揮する。オーストリアはいつしか連邦の庇護者としての確固たる立場を手に入れているばかりか、ドイツ問題とポーランド問題を切り離すことにも成功しているのである。
これは「師匠」であるところのタレイランウィーン会議でやろうとした、不平分子の先頭に立つことの規約策定委員会版、と見ることが出来るだろうか。ただし、タレイランと決定的に違うのはメッテルニヒ氏の「極めて独特の方法論」であり、キッシンジャーによれば、メッテルニヒは防御の姿勢を常に最強の態勢と呼んでいたという。今後も、メッテルニヒ氏のこの「極めて独特の方法論」は見ることになると思う。
ウィーン会議は極めて貴族的な雰囲気なのだが、どこか喜劇的でもある。
「会議は踊るが進まない」という名言を残したリーニュ候は、ウィーン会議の最中に死去するが、その直前に、女性との逢い引きを目撃されている。彼は「踊る会議の表層を老骨に鞭打ちどこまでも楽しんだ生粋の十八世紀人P92」であり、その葬送は神聖ローマ帝国の象徴的な葬儀と語られる。
メッテルニヒ氏はハルデンベルクと書簡の暴露合戦を展開し、イギリスの快男児チャールズ・スチュワート(後にトロッパウとライバッハでイギリスのオブザーバーとして参加したスチュワートと同一人物だと思うが、だとすれば滑稽な役回りをこれからも演じることになりそうだ)は期待通りの醜態をさらすし、秘密警察はゴシップを掻き集め、一般市民も独自に仕入れた目撃情報や噂をカフェで披露する。アレクサンドルとメッテルニヒ氏の対立をオーストリア皇室は密かに楽しみ、メッテルニヒ氏は仕事の傍らやはり恋愛に心を砕くが、アレクサンドルとの三角関係まで生まれてしまう。
そして、この中で踊らなかったプロイセン、男性同盟の気風をもつ軍事国家が(メッテルニヒ氏がわからないと嘆いたフンボルトの趣味を思い出してみるといいかもしれない)敗北を喫するのである。

フンボルトから、仕事は些事(バガテル)で些事(バガテル)が仕事、と愚痴られたメッテルニヒ氏だが、実際には夜会や舞踏会を楽しむどころではない。メッテルニヒ氏の、些事が仕事、は多くの場合、抗議や催促からの逃げ口上だ。他の代表やその部下たちが繁くそうした社交の場に現れるのは非公式な立場の表明や意見の交換や意思統一のためであり、それは特に、公式には否定しているが現実問題として敗戦国であり戦勝四箇国の会合から排除されたタレイランの周辺で激しい。それもまた仕事の延長だ。つまりは実際、些事は仕事だった訳で、プロイセンの大敗北の原因は、その些事を侮ったことだ、とも言えるだろう。
P98

極めつけは、プロイセンに対してザクセン併合で満足出来ない分を、ウェストファリアで埋め合わそうとする話だ。人口当たりの生産性が違うから、との理由で、ポーランドの人口をウェストファリアの三分の二で計算するのだが、その単位が「魂」(アーム)なのだ。で、ポーランド人の魂はウェストファリアの三分の二、とかやるわけである。カルデロンから引用される一節を何度も読み返したくなるような「非道」で「無慙」な話だが、ウィーン会議に参加し、人柄の良さで皆の心を虜にしたデンマーク王は、戦争中には両陣営からひどい扱いを受けながらも新規の領土は手に入れられず、魂は一つも手に入れられなかった、と自嘲する。

人柄が幾ら良くても魂は分けたり取ったりするのが君主であり、政治家だ。上手に分けたり取ったりすればするほど腕利きと言われる。こんな仕事は嫌いだ、性に合わない、嫌悪感しかないと幾ら言っても、メッテルニヒ氏は否応なしにその一人ではある。三分の二勘定に関しては言い出した張本人だ。
P96~97

しかもこの時代の政治家は現代の政治家と違って遥かに繊細な生き物なのである。メッテルニヒ氏の心中、いかばかりか。

文学界 2012年 11月号 [雑誌]

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